美少女と銃
立石サツキ
第1話 国境 1
私は狭いシングルベッドで午前四時に目覚めた。
青い安物の寝袋にくるまり、ベッドの上のタバコや灰皿、Tシャツをよけて「く」の字になった体を起こす。
バンコクのカオサンロードの某ゲストハウスの二畳間だ。ベッドの他は木製の枕頭台だけ。
私がこの東南アジアの蠱惑的な王国へ沈没するにはたいした経緯は無かった。
ほぼ勢いだけで高校を中退しインドへ行ってみた。インドという選択はおそらく中学のときにホームステイで行ったアメリカの正反対の国というイメージが幼い頭にあったからだろう。
インドの旅は辛かった。
「行って良かったか」と訊かれれば、「良かった、だがもう二度と行かないだろう」
安いエジプト航空の便だったので、往復にバンコクでトランジットする。それまでなんの興味も無かったし、期待も無かった。
しかしバンコクでドンムアン空港を降りたときのむあっとするドリアンのような匂いと湿気は気持ちよかった。
日本人というより、稲作文化の人間として原風景のような湿度も気に入った。
このゲストハウスのトイレは和式で一応水洗であるが、自分で水瓶からすくう水洗方式だ。自室より広い四畳ほどの広さがあり、ここで水シャワーも浴びる。
水瓶といっても本当の瓶ではなく、コンクリにタイルの造り付けで直方体、立派なものである。そこに清冽な水がなみなみと溜めてある。
この水を体を流すにも便を流すにも使うわけだが、まったく不潔な心持ちはしない。水室じたいが丸洗いできる上、主な客人は欧米と日本人くらいなのでみな清潔につかう。
私はそこで用を足すと、隣接するテラスに出た。
昨晩の誰かの宴のあとのビールの小瓶が並んでいる。
テラスはシングルやダブル、ドミトリーの各部屋の住人の社交場だが、今は誰もいない。大きな名前も知らない大木が黙っているだけだ。テラスは二階だが、この木は地面から二階建ての屋根まで覆う大木で、木をよけてゲストハウスが作られたのだが、その後さらに成長し今ではめりこんだテラスの部分の木肌に精霊の祠と飾りが祀られている。
そこへノックがやって来て、空き瓶をかたし、精霊にトゥープ(線香)をあげ、合掌する。その後で気づいたように私に振り向いた。浅黒いがはじけるような肌に冷たく感じる整った顔、すこし緊張する。この女性の夫はこの界隈で有名な長期滞在日本人だった。
ノックとは「鳥」という意味で、タイ人は氏名のほかにチューレンというあだ名を皆もっている。これは出生証明書にも記載欄がある半公式なもので、親しい友人でもあだ名は知っているが本名は知らないといったことが起こるほど個人のアイデンティティーを規定するものである。それはさておき。
「今日も早いのね」
藤の長椅子に腰かけショートパンツからのびる長い足をくんできくので目のやり場にこまる。マルボロに火をつけ一服吸うと黙って私のほうに吸い口を差しだす。上はタンクトップしか来ていないのでなるべく見ないようにタバコを受け取る。この貰いタバコは普通のことで始めは戸惑った。
私は「それじゃあ」とタイ語で声をかけて、朝の日課のチャオプラヤー河への散策に出かけた。ゲストハウスでは裸足で、玄関でスニーカーをはく。
カオサン通りから河岸までは二十分ちょっと。途中でバーミーという汁そばをたべる。
市街から川は西にある、夕日を見にきたほうが美しいのだろうが、朝の川が好きだった。チャオプラヤーとは偉大なといった意味である。
はしけが行く。はしけは小さいエンジンで大きな船を押すタグボートだ。河岸に近づいたら大きな船は無力である。河の底の凹凸をよく知っている現地のボートの世話になるしかない。水先人が船尾に威張って立っている。
私は先日帰った日本の友人との約束を思いだした。
今日中に中央郵便局に行かねばなと決める。自分の今日の行動をこういう風に決められるのも楽しかった。
中央郵便局からシルバーの指輪やネックレスなど数百点を東京に送った。品名は土産品で済んだほどゆるい時代の話である。カオサンで仕入れた銀製品は五百円ほどのものが、二千円でどんどん売れていった。新宿のフリーマーケットでのことである。
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