数学好きの初恋

@ryonim

数学好きの初恋

僕はふと考え事をしている時にポーランドのことを思い出すことがある。ポーランド人は彼らの祖国の歴史を学んだときに何を感じるのだろうか。というのも、彼らの祖国の名は地図上から消え去り、蘇ったと思ったら、また消えてしまった。そんな彼らは、祖国の名が蘇った20年程の間に世界に自分たちの国が列強に負けないということを示そうとした。そして、すばらしきtopologyという分野を彼らが作ったのである。勿論そんなことはお構いなしにアドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツはポーランドに攻撃をしかけしまった。そんな彼らのことをふと考えてしまう。

僕が、大学に入った時はまだ雪が少しばかり残っていた。4月という時期なのに未だに雪が残っていたというのは札幌の近郊にある都市にとっては当たり前のことであった。入学式が行われていると思うのだが、もう少し人生の流れは連続でいいんじゃないか。こうやって、区切りを無理やりつけようとするのは人生という流れの美しさを人為的に剥いでしまうのではないか。そんなことを考えながら長ったるい話を聞いていた。



雪解けが進むのと足並みを合わせるみたいにして新入生の顔は大学生のそれになっていった。部活・サークルへの勧誘、バイト、よくわからない宗教団体。色々な繋がりの中で、彼らは大学生らしくなっていった。特に勉強もせず、バイトや恋愛に勤しみ、勉強はそっちのけ。そんな形になっていた。そんな大学生活を横目で見ていく中で、僕は少しづつ嫌悪感を覚えた。何しろ勉強を好んでしようという気概も雰囲気も感じられなかったからである。彼らの大学への楽しみ・喜びが指数関数的に増加していく中で僕の絶望感は反比例的に、ポーランドの数学者たちの努力と関係なくナチスによる銃声がなり響いた時と同じような気持ちを抱かせた。僕は、大学を辞める事を考えた、こんなにも失望の嵐の中で数学は出来るはずもなく、そもそも沢山勉強するなんて無駄だという風潮にも嫌気がさした。大学に行き、つまらない授業を受け、図書館に籠り淡々とポーランドに思いを馳せ、数学をする。そんな微分したらゼロになるようなつまらない日々を繰り返した。



それでも理由は良くわからないが友達という友達は出来た。それは、大学の図書館に隣接しているカフェでコーヒーを飲みながら車輪の下を読んでいる時だった。「席が満席で座れる場所がないんだ。向かいの席おじゃましていいかな?」そういって男がづかづかと座った。5分ほど静寂が続いたあと、前に座っている男が口を開いた。

              「西洋文学は好きなの?」

                「人並みには」

            「ふむ…なるほど。友達にならない?」

そうして僕たちは突拍子に友達になった。づかづかと座り込んできた彼はキツネと呼んでくれと言った。キツネは小学生の途中から高校生の初めまでドイツに留学していたみたいだった。何しろ彼にとってはその時までドイツなんて無縁な生活を送っていたわけだし、急に大西洋を越えてドイツにポイと行かされたのは大変だったらしい。


「ドイツっていうのは悪い所じゃないよ、律儀だし日本と似てる部分が多くて住みやすかったさ。ドイツ語だって最初の一年間は死ぬほどきつかったけど、意外とどうにかなるものなんだよ。」

彼はドイツでは友達にキツネと呼ばれていたらしい。その理由を聞いてもキツネは答えてくれなかった。キツネは文学を専攻していて、ドイツで古典に魅了されたことを話してくれた。

「自分だって最初はこんなの勉強してやるかって思ってたんだよ。ドイツの学校は特殊で日本の中高にあたるところが色々異なっているんだよね。そして自分はギムナジウムっていう所に行ったんだ。ギムナジウムって言うのは中高一貫で大学受験のための学校みたいな感じなんだ。まぁ、日本のそれに近いね。自分はそこで理数系の科目ばっかり取っていたよ。何しろ言語系は当時一杯一杯でね。ただでさえ、ドイツ語と英語の勉強をしなきゃいけないのに古典の勉強もしなくちゃいけないのかってね。正直手が回るはずがないだろう。それまでも古典の授業はあったよ?ただ、そこまで多くは無かったし、正直面白くなくてね。そんなある日Untern Rad…君が読んでいる車輪の下を読んだんだ。それを読むとしきりに古典を読もうと思ったんだ。そうやって思っただろ?」

           自分は無言のまま首を縦に振った。

「そうでしょ?自分もそうやって思ったんだ。そしてその気持ちのまま書店に行ってイリアスを買ってみたんだ。それで開いたら古代ギリシア語のよく分からない文字があふれかえってるわけだ。そこで挫折しかけたよ。でもね一日1Pでいいから読もうと思って必死になって読んだんだ。辞書と文法書を両手に抱えながらね。そんなことを続けてるとある時に少しづつ理解できるようになったんだ。あのシーンは今でも忘れられないよ。

そうして自分は好きになったと同時に日本に帰ってきたんだ。全く日本にはギリシャ語やらラテン語やらの科目がないから悲しかったね。」


後日、キツネと会う約束をしているカフェでまずいコーヒーを飲みながらプリンキアを読んでいるとキツネは赤平さんという方と一緒にやってきた。赤平さんも同じ手口で仲良くなったらしい。そうして私たちは仲良くなった。数学的に無理やり例えるとしたら、代が生活の変曲点にたどりついたみたいだった。最初、赤平さんと僕との関係はまずまずといったところだった。というのも、彼女自身は数学に専ら興味が無かったし、そもそも学問に興味がなく、興味があったのは絵であった。

  「私って大学来た理由なんて社会に出る時間を遅くしたかったからっていう理由だけなんだよね。私自身絵は好きだからそれのつながりで建築学やってるけど、正直に言ってつまんないの。まぁ、それでも大学って自由だから絵を好きなだけ出来るし楽しんでるよ」

僕は、最初彼女に対して強い嫌悪感を覚えた。いや、侮蔑をした。そんなどうでもいい理由で大学に来るなんて気が気でないと感じたし気持ち悪いとも感じた。それでもキツネの繋がりで大学内では3人で専ら行動し、休みの日も基本的に三人で行動した。札幌まで3人で出向いてはラーメン屋をはしごしたり、このラーメン屋はうまかっただの、まずかっただの言い合った。また、一日中映画を見ることも、北海道の端の何もないような場所に6時間もかけて出向いた事もあった。つまるところ、自分が最も嫌悪していた大学生らしいことをしていた。その中で、少しづつ赤平さんの言いたい事が分かってきた気が分かってきたように思えた。

赤平さんの好きな絵がどんなものかと思い見せてもらったことがある。

「人に絵を見せるって以外と緊張するものなの。私の秘密の一つを見せるようなものなんだよ」そういって見せてくれた絵はとても美しくて見入ってしまった。「自分もこんな絵を描いてみたいな」

ふとそんな言葉を反射的に言ってしまった。少し慌てている僕の姿を見て、赤平さんは笑いながら言った。

      「出来るよ、私がなんかあったら教えてあげる」

そんな笑顔を見ていると何だか心がおちついた。

絵というのは思っていたよりも難しいものだった。自分の頭のなかで完結していたものを表現するというのは難しいことであった。頭の中で完結して言葉のみを文字に表す数学とは違い、絵というのはその頭のなかでの物を具体的にしてそれ滑らかな線で描く必要があった。自分は絵を進んで書いたような経験は無かったし、褒められたような経験も無かった。自分には絵の才能がなさそうという事くらいは分かっていたが、それでも何故か絵を描いた。これほどまでに数学を愛していたのに、数学のことを忘れて絵に没頭したのは久しかった。これほどまでに大学では学問を求め、その期待が裏切られ幾度となく絶望したのに、寧ろ今の自分はその学問を忘れ、学問とは全く関係のない、その上自分が全く興味のなかった分野に手を付けているのが不思議だったが納得は出来た。


彼女に初めて僕の絵を見せようとしたときに、しきりと体が重くなった。自分の絵を馬鹿にされるかもしれない、赤平さんと自分の実力はまるで小学生とその親の経験してきた苦労を比較するのと同じくらい明らかな事であった。人に絵を見せたときにいい反応が返ってきた記憶がなくとても不安感とでもいうべき暗いものが足元から僕のことを染め上げるようであった。ただ、このような心配は赤平さんと会って絵を褒められてからは跡形もなく消えた。

「いい絵じゃん!最初なのによくこんな良いのかけたね」

僕は正直に言って嬉しかった。その時の笑顔がずっと頭から離れなかった。



半年が過ぎて12月中旬を迎えた。クリスマスシーズンを迎えて、外の世界は銀世界に満ちていた。この銀世界はふとポーランドの数学者を思い出させた。彼らが創造したtopologyはもしかしたら雪の穏やかな感触を数学の世界に落とし込みたかったのかもしれない。そんなことをふと考えてしまった。僕は、半年間特に何かしたわけでは無かった。赤平さんと、この心地よい関係を壊すのが正しいことなのか分からなかった。自分の優柔不断さや自己肯定感の低さを恨んだりもした。それでも時は残酷にも歩みを進めていった。



クリスマスの日、キツネと話している時に赤平さんと付き合い始めたことを言ってきた。経緯は聞かなかったが付き合い始めたらしい。

「赤平さんはおまえに友達として好意を抱いているよ。だから、また3人で遊びたいって言ってるし、自分もそう思ってるんだ。」

「そうだ、初詣に北海道神宮でも行こうよ。混むかもしれないけど、それはそれで楽しそうだろ?」

そんな言葉は僕の脳には届くことが無かった。



僕は自分のことを恨んだ。キツネの事を、赤平さんのことを憎もうとした。ただ結局憎めなかった、憎もうとする自分に対して嫌気がさすくらいだった。僕は、将来が分からなくなっていた。そもそも大学に行く意味なんて二人を失えばもうないも当然だったし、数学への情熱は雪の下に埋もれて冷えてしまっていた。



12月28日の夜。僕はわけもわからなく夜道を歩いていた。ただ、誰も知っている人がいない場所に、ただこの気持ちから解放されるのをねがって歩いた。一歩。一歩。その日の夜は大雪だった。前方の景色が白く染まりあげられて、なびく冷たい風が耳を撫で、足と手の感覚という感覚をすこしづつ奪う様であった。30m先すらの景色も見えず、ただ車道を走る車の光と足が動いている感覚のみが生きていることを自覚させた。僕は、この雪が僕のことを、僕の記憶ごとつつんで隠してしまえばいいのに。そんなことを願った。手足の先の冷たい感覚すらもなくなり、足は重くなっていった。重い足取りを進めていく中、大きな雪山を歩いている途中に雪が固まっていなかったのか、蟻地獄の巣に入るアリみたいに雪中にすっぽりと埋まってしまった。手足の感覚は無く、全身を動かそうとしても体力が無く、体が最後の抵抗をしようとしているのを感じた。震えが無くなってきた頃、ふとポーランドの数学者を思い出した。彼らの努力とその結末。その時の彼らの気持ちがようやくわかった。

僕の数学への灯は最後になってまた芽吹きだしたのであった。


12月30日、歩行中の人が雪中に埋もれている人がいることを発見し、警察に伝えた。

キツネたちが彼の死を知ったのはその2日後の事であった。

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