『ティファニーで朝食を』4

 ウチらは旧校舎へと向かった。思えばここに足を踏み入れるの初めてだ。幽霊騒動の一件もあってなかなか来ようとは思わなかったけれど所詮そんなものはインチキだとわかれば怖れる理由なんてない。それに、一度葵先輩という人にも会ってみたかった。


 旧校舎、文芸部の表札のかかる教室。その実そこは漫画研究部らしい。


「お邪魔します」


 声をかけて教室に入ったものの中には誰もいなかった。


「あれ、しおりんいないな。めずらしい。まあ仕方ないか、今日はユウもいないし」


「え、なに? どういうこと? その……竹久と葵先輩ってそういう関係なの?」


「そういう関係?」


「いや、その、つまり……恋人同士っていうか……」


「うーん。そこのところはどうなんだろう。アタシもよくは知らないけれど仲がいいってのは間違いないよ。サラサ、気になる?」


「え、いや、気になるというか……竹久はそんなこと特に言っていなかったから」


「うん、まあそうよね。アイツ、肝心なところははっきりしないやつだから……」


 もしそうだとしたらやりきれない。相手が瀬奈ならばウチに勝てるはずもないと身を引いたつもりだったのに、まさか思いもよらない第三者に取られてしまうというのは納得できない。


 気を取り直し、本来の目的を思い出す。確か、梶井基次郎の『檸檬』だ。


 そしてたしかに書架にそれはあった。角川文庫の『檸檬・城のある町にて』その90ページ目、『桜の木の下には死体が埋まっている』のところに桜の花の押し花の張り付けてあるメモが挟まっていた。


『その鍵の暗号はイチと末の間にある』


 ――やっぱりだ。やはり鍵は真理先生がなくしたのではなく、真理先生の先輩という人が持っていたのだろう。それを素直に手渡しせずに回りくどい方法で渡そうとした。わざわざそんなことをしようとする理由なんて……

 

――イチと末。それはいったいなんだろう。普通に考えるなら数字の1と末。末を9と考えるなら5…… いや、あえて末というのならば一か月の末なら30か31。その間となれば15.6と言ったところだろうか。いつまでもわからないことを考えても仕方がない。


「あ、この桜の押し花」瀬奈が言った。「確かこれにも同じメモが……」


 瀬奈は書架の隅から随分と薄い本を取り出した。その本はどうやら漫画の本らしい。瀬奈がパラパラとめくる間に除くイラストに思わず目を覆いたくなる。


「な、なんでそんなものがここにあるのよ」


「え、だってここ漫画研究部だもん」


「ま、漫画って、でもそれ……」


「え? 普通の漫画だよ同人誌だけど」


「ふ、普通じゃないでしょ。そ、そんなもの学校においてるのが見つかったら……」


「まあまあ、そんなに焦らなくても、要は見つからなければいいってことでしょ。何もこんなところに来る教師なんていないんだから……あ、あった」


同じような押し花のメモに『カギは、独伊辞書に挟んである』と書いてある。


「でね、その通りに独伊辞書を開けたら……」 


 瀬奈は書架から『独伊辞書』と書いてある箱を取り出す。しかし中から出てきたのは装丁の立派な日記帳。3桁のダイヤル式の鍵がついている。瀬奈はダイヤルを回すことなく解錠ボタンを押して鍵が開く。ダイヤルは常にセットされていたままのようだ。


 中の日記帳はページがくり抜かれていてそこに夏目せんせいキーホルダーと一緒に鍵があったというのだ。


 おそらくこれは真理先生の先輩という人が仕込んだものだろう。本当は『檸檬』の間に挟まってあるメモを見て見つけるはずだった。だけど真理先生はそのことに気づかず、鍵は何年もの間行方不明のままだった。当然、そこに仕込んであった先輩の思いが真理先生に届くこともなかっただろう。


「ところで瀬奈はどうやってこの3桁のダイヤルの答えを知ったの」


「え、最初っから開いてたんだよ。アタシが最初に日記帳を見たとき、ダイヤルは〝813〟にそろえてあったの」


 それは妙な話だと思った。はじめから開けてあるなら『檸檬』の間に挟んだメモに


『その鍵の暗号はイチと末の間にある』なんてメモを挟む必要はないはずだ。

 書架に目をやり、背表紙をなぞりながら答えを考えてみる。

モーリスルブランの著書『ルパン傑作選』が目に留まる。中を調べるまでもなくそこには名作『813の謎』が収録されているだろう。これがダイヤル式の鍵の答えのはずだ。その両サイドの本がE・ブロンテの『嵐が丘』とC・ブロンテの『ジェーン・エア』


『イチと末』――わざわざイチとカタカナで書いたのは、漢字で書くと簡単すぎるからだろう。イチは漢字で『市』つまり、姉と妹の間に挟まれているという意味だ。本来この細工を作ったであろう犯人はきっとこんな風に逆の順序で読み解かれるなんて思っていなかっただろう。現実世界はフィクションの世界ほど都合よくはできいない。計画の通りに進むなんて期待してはいけないのだ。


それにしても、よく見ればこの二枚のメモ、もともと一枚のメモだったのではないだろうか。『檸檬』の間に挟まれていたメモと同人誌に挟まれていたメモ。二つを合わせると裁断された押し花がピタリとそろう。考えてみればこの同人誌が何年も前からここにあったとは考えにくいし、瀬奈が見るまで誰も気づかなかったというのもおかしな話だ。むしろ、誰かが瀬奈に見つけやすいように同人誌に挟み、なおかつ鍵に手早くたどり着けるようダイヤルの数字をそろえておいたと考えることができる。


では、誰がそんなことを仕組んだと言うのだろうか。まず考えられるのは竹久だ。名探偵のジンクスというものがあるが、多くの探偵ものでは名探偵の周りでは決まって事件が連続して起こる。それをかくも鮮やかに解決していくわけだけれど、こういうこと考えたことはないだろうか。つまり、名探偵自身が事件をでっちあげ、それを自身で解決すると見せかけるマッチポンプ方式を。それと同じでまず竹久がこの一連のメモから鍵を見つけ出し、それを利用して瀬奈に幽霊騒動を起こさせて自らが解決して見せる。多分文学好きの竹久ならこんなメモの真相は迷いもなく解くだろうし、それを瀬奈の前で解決して見せて自身の株を上げることもできるだろう。でも、やはりそれは何か違う気もする。


ともかく、まずはこの件を解決したい。これで、すべてが終わっているわけではないはずだ。


ウチと瀬奈は三階へと移動し、鍵を使って機械室に入る。瀬奈が明かりをつけると古びたピアノがある。隣のテーブルの上には開かれた独伊辞書。


 Ich liebe dich ――― Ti amo


のところに付箋が貼ってある。どちらも日本語で言えば『愛している』という意味。いや、違うか。ここは『月がきれいですね』と訳するべきか、いや、そんなことはどうでもいい。


そこにはまた、例の桜の押し花の貼ってあるメモがある。



『空を越えて死との狭間の世界で君を待つ』


 なるほど、そういうことか。隣の古いピアノの鍵盤をたたいてみる。各音階のラとシの部分を中心に。


 一か所だけ、あきらかに音の鈍いところがある。


「そうそう、ここ、調律くるってるのよね」


瀬奈が言う。


「ううん。そういうことではないと思うわ」


 鍵盤と鍵盤の間、ラとシの間に薄いメモが張り付けているのを発見した。


「あ、こんなところに!」


「ソラ、を超えてシ、との間」


 言いながら次のメモをそっと開く。


『青春時代をオウカできなかった俺は死体となって君の足元に姿を隠す。せめて君の手で掘り起こしてくれれば……』



「どいうことかな。掘り起こしてほしいって書いてあるけど……」


「死体を掘り起こす、〝君〟とは桜木先生。桜の樹……

たぶん〝イチ〟がカタカナだったのと同じようにこの〝オウカ〟もわざわざカタカナだということはミスリードをさせるためなんじゃないかしら? つまり〝オウカ〟は……」


〝謳歌〟ではなく〝桜花〟 オウカできない。桜の花が咲かない……そういえばたし

か学校前の坂道に一本だけ桜の花が咲かない樹があったはず。


 機械室の窓を開けて小高い丘の上である旧校舎からこの学校へと向かう桜並木を眺める。思いのほか景色が良くて抱え込んだ悩みを風が少し攫ってくれた。


 しかし、今はもう七月。桜並木はもうとっくに青々と茂った樹へと姿を変えている。こうしてみると不思議なものだ。あれだけ華やかに咲いていた桜の木々も、こうして少し時期を変えてみるだけでまるで違って見えるのだ。多分、この青々と茂った並木道を見て桜だと認識する人は少ないだろう。


「ねえ、瀬奈。確かあの桜並木の中に、一本だけ花の咲いていない樹があったの憶えてる?」


「うーん、確かにあったような気がしないでもないけどさあ、そんなのどの木だったかなんて覚えてないよお」


「うん、まあそうよね。どうしようかしら。片っ端から掘っていくかそれとも来年の春まで待ってみるか……」


「あ、そういえばさ。あそこに行けばわかるかもしれない」


「あそこ?」


「うん、サラサ、ついてきて」


ご機嫌にぴょんぴょんと跳ねるように歩く瀬奈は旧校舎二階の油画部の部室へと足を運ぶ。


「リュウくんこんにちわー」


 勢いよくドアを開けるもののその部室には誰もいなかった。


「やっぱあれかな。怪奇現象が怖くて部活休んでるとか? まあいっか。せっかくなんだから見せてもらおうよ」


 誰もいない部室にズカズカと踏み入る瀬奈。悪いことだと思いながらもウチもそのあとに続く。中に入って瀬奈の言っていることの意味が分かった。


 油画部の部室に並ぶキャンバスにはどれも同じ柄が描かれている。いや、同じだと言えばきっとこの絵を描いた人は怒るだろう。


 十数枚並ぶキャンバスに描かれている絵は、どれもこの部室の窓から眺めた桜並木の風景だ。今まさに描きかけのキャンバスには見ての通りの青く生い茂った桜の木々が、そして、わきに並ぶほかのキャンバスの中には満開に咲き乱れる、あの春の風景の絵もあった。それはどれも精巧に描かれた風景画で、もちろん、桜の花の咲いていないあの裸のみすぼらしい樹も描かれている。


 園芸部に頼んでスコップを貸してもらい、目星をつけた桜の樹の下に行ってみるとたしかに土の一部の色が違うところがある。そう遠くない過去にこの場所を掘ったものがいるということだ。


 地面はやわらかく、それは一瞬判断ミスかとも思われた園芸用のスコップで十分に掘り返すことができた。中からは錆びた四角い小さなアルミの缶が出てきた。


 さらにその中にはビニール袋にくるまれた手紙。


 その手紙に書かれていたものは……。言うまでもなく恋文だと言っていい。とても美しい言葉でつづられた思いのこもった恋文だ。その犯人は高校生時代に真理先生に恋をした。しかし内気な彼はその想いを告げることなく卒業することになった。しかし、せめてその想いだけでも伝えておこうとこの手紙を書いたのだ。

おそらくその不器用な先輩がこれだけの言葉を尽くすのにどれだけの勇気がいったことだろう。しかしその想いは伝わることはなかった。なぜなら、こんな手の込んだ細工をしてしまったからだ。もし、勇気を出して相手を目の前に思いを伝えていたのならばこんなことにはならずに済んだであろうに。


「ねえ、サラサ。この手紙どうしよう? 桜木先生に届けたほうがいいのかな?」


「そうね、今更渡されても困るだけじゃないかしら。きっと真理先生にしても、そんなことは知らなかったほうが幸せなんじゃないかしら」


自分の頬に一筋の熱いものが伝っているのに気付いた。きっとその哀れな先輩に同情したのだろう。


いや、違う。自分の過去に犯した間違いにいまさらになって気づかされたのだ。愚かな過ちに気づかされたウチはその先輩に心から同情してしまう。


「ねえ、サラサ。アタシさ、もしかしたらこの手紙を書いた先輩っていう人、わかるかもしれない。多分その人は今でも桜木先生に未練があってさ、何かにかこつけてこの学校に様子を見に来てるんだよ」


「なんで、そんなことがわかるの?」


「なんでって、そりゃあよくわからないけどさ。オンナの感ってやつ? 少し前にさ、あの旧校舎を訪れたおじさんがさ、あの文芸部の部室にやってきてきょろきょろと中を見まわしていたのよね。アタシにはわかったんだけどさ。あれは昔の恋を思い出して恍惚としている表情だったな」


聞いている限りではこれといった根拠はない。だけど多分瀬奈の言ってることは正しいような気がした。時として世の中には、理路整然と並べられた理屈よりも相手を説得させる強いものがあるのだ。


「ねえ、サラサ。アタシたちで勝手にその手紙の返事を書いちゃおうよ!」


悪くはないのかもしれない.それが、あの時に犯してしまった自分自身への手向けになるのならば。

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