『ティファニーで朝食を』カポーティ著 を読んで 笹葉更紗
『ティファニーで朝食を』1
作家を目指す主人公は階下に住む新人女優ホリデー・ゴライトリーと親しくなりその日々の生活の中で彼女を取り巻く多くの嘘やまやかしの存在に気付いていく。自分の居場所を探し続ける彼女の行き着く場所は……
――思っていたストーリーとまったく違っていた。
〝笹葉更紗 放浪中〟
放浪と旅行の違いは目的地があるかどうかという事ではないかと思う。だったら目的さえ持たないウチはやはり放浪中といったところだろうか。『ティファニーで朝食を』のホリーは自分の名刺の住所の欄に〝旅行中〟と書いてあった。明日、自分がどこに住んでいるかもわからないからだ。
夏休みに入った頃、本屋で『ティファニーで朝食を』を見かけて、手に取った。それは本を、というよりは記憶に中にあるその本を手に持った竹久の手を取るような想いだった。
――全然違っていた。思っていた展開とは全然違っていたのだ……。ずっとハッピーエンドだとばかり思っていたのに、本当はそうじゃなかった。
主人公とホリーは全然ラブラブなんかじゃないし、ホリー自身もヘップバーンのように清純な愛らしい女性なんかではなかった。妖艶でしたたかで邪悪だ。それでも芯はしっかりしていた。映画版ではほとんど描かれていなかったマフィアのサリートマトに対する
自分はどうか? いつまでたってもウチ自身は目的も信念も持っていない。だから今もって〝放浪中”なのだ。
ウチが初めてこの作品に触れたのは(触れたといっていいのかわからないが)今から一年前、中学三年の夏休みの事だった。家のすぐ近くに市立の図書館があって、当時受験生だったウチはよくそこで勉強をしていた。こういう広いスペースにもかかわらず皆が静かに過ごしているというのはそれでなかなか勉強がはかどるのだ。実際、夏休みともなるとおそらくウチと同い年と思われる。中三の受験生らしい人がたくさんいた。
彼もまた、そんな中のひとり、短く切りそろえた髪に色白な肌、背も低くお世辞にも頼りがいがあるとは言い難い。それでもその表情は優しそうでどことなく落ち着ける感じがする。時々は勉強をし、時々は読書をしながら過ごす彼を初めのうちは見慣れない人程度として認識だった。多くの場合、彼はひとりで行動していたが、時折同級生くらいの女子生徒と親しげに話をしているのを見かけた。その人はウチにも知った顔で以前からよくこの図書館には訪れているひとだった。眼鏡をかけた黒髪の女子生徒。そのころはウチも今とは違い、ストレートの黒髪で今のようなカラーコンタクトではなく眼鏡をかけていたので親近感もありよく覚えていた。彼はその子に会うといつも以上に優しい表情になる。その表情を見て彼はきっとその眼鏡の少女に好意を抱いているのだろうと直感した。彼との関係はただのそれだけで、だから別段それ以上意識することもなく遠巻きに眺めている程度だった。
ある日「おはよう」と声をかけられ、そのまま彼はウチの隣に座った。突然に声をかけられ驚いたまま「お、おはよう……」と小さな声で返事をする。
その返事に驚いたのは彼のほうだった。
「あ、い、いや、ごめん。ひ、人……違いだった……」
事情はすぐに理解した。ウチはその少女と背格好も同じくらいだし、黒髪でメガネをかけていた。後ろ姿で一瞬勘違いして声をかけてしまっただけなのだろう。
しかし、だからと言って今更座っている席を移動するというのも気まずい。その日は二人並んだまま勉強をした。勉強の途中、彼は消しゴムを無くして困っているようだった。ウチは自分の消しゴムをそっと差出し、「よかったら、これ」
「あ、ありがとう。よく無くすんだ」
交わした言葉はそれきりで、しばらくすると勉強に飽きたらしい彼は文庫本を開いて読書を始めた。すごく楽しそうに、受験勉強なんかよりもずっと集中して読んでいた。村上春樹の『海辺のカフカ』という本だ。カフカとサラサは音の雰囲気が似ている。気になったウチはそのまま図書館で同じタイトルの本を借りて帰った。
全身の身の毛もよだつほどに震えた。これほどまでに読書というものが面白いだなんて知らなかった。ウチはそれからというもの彼を見かけるたびに手に持っている本をチェックして、同じタイトルの本を借りて帰るようになった。
――彼は卑怯だ。
借りて帰った本に尽くされる美しい言葉の数々は彼の手柄として与えられてしまう。あとになってわかったことだが、当時彼が好んで読んでいた本のほとんどが〝耽美主義〟と呼ばれる作品だった。美しい文章に出会う度、その言葉は彼からウチに贈られた言葉のように錯覚してしまう。ウチの心は、徐々に彼に惹かれてしまっていた。
ある日読んでいる本が『ティファニーで朝食を』だった。タイトルくらいは知っている。同タイトルの古い映画がとても有名だ。
その日はあの眼鏡の子はいなかった。ずっと読書に集中している様子でそのまま最後まで読み終わったのは図書館の閉館間もない時間だった。閉館時間を案内する音楽に追われるように席を立ち、一階へと降りるエレベータの中で偶然二人きりになった。
「あの……。よく会いますね」
突然彼に声をかけられ緊張した。自分のことを追憶えていてくれただけでもうれしかった。
「あ……。さっき読んでた本、面白いですか……」ヘタだ。ウチは会話のセンスとい
うものがない……
「すごく良かったよ。ここ最近読んだ中では最高だったかも」
「そう……。じゃあ、ウチも今度読んでみようかな……」
「うん、きっと気に入ると思うよ。あ、僕は竹久、竹久優真、よろしく」
「あ、あ、う、ウチは……さ、ささ、さ、さささ」噛んでしまった。自分の名前
を……
「……さ、さ……佐々木さん? そうか、佐々木さんか、ところでたぶん同級生……だよね。もう受験校は決めた?」
「あ、えっと……白明、かな。多分……」
「そっか、じゃあ、僕と一緒だね。お互い合格するといいね」
「う、うん……じゃあ、ウチは……これで……」
……本当はもっと話をしたかった。たけどあまりに緊張しすぎてしまって、エレベータが一階のエントランスに到着してドアが開くと同時に逃げ出すようにしてその場を立ち去った。
『ティファニーで朝食を』は、図書館においてはいなかった。正確に言うなら貸し出し中で、近くの本屋に行っても置いていなかった。どうしても気になったウチが行ったのは本屋でなくレンタルビデオ屋。同タイトルの映画を借りて友人の瀬奈を呼んで二人で見ることにした。
瀬奈はとても美人で学校の誰からも好かれるアイドルのような存在だった。そしてウチのような根暗なヤツとも分け隔てなく接してくれるかけがえのない友人だった。瀬奈はその映画をとても気に入って……と、いうよりはオードリーヘップバーンにすっかり憧れて、それから古い映画をよく見るようになった。彼女が調理科のある芸文館に進学するようになったのも『麗しのサブリナ』が原因だ。
……正直ウチとしてはあまりこの映画は好きになれなかった。よくある〝お金よりも愛が大事〟みたいな話でなんだか最後はお金持ちみんなにフラれたから仕方なく主人公とくっついたような感じがした。……それきり、原作を読む機会から遠ざかっていた。
夏休みの最後の木曜日の事だった。ウチはそれまでの観察であの眼鏡の子は木曜日には図書館に来ないことに気づいていた。
彼のすぐ向かいの席に座って勉強を始め、読書をしていた彼もしばらくして勉強を始めたのだが、どうやらまた消しゴムを無くしてしまったらしい。ウチはチャンスだと思った。持っていた消しゴムを渡し、「ウチ、もう一つ持ってるから使ってくれていいよ」と言った。「ありがとう」と答える彼。……うまくいった。正直こんなうまくいくなんて思っていなかった。ウチはその場を逃げるように立ち去った。予定通りにその消しゴムを彼のもとに置いたまま立ち去ったのだ。
あの消しゴムのキャップを外した中身にそっとメッセージを忍ばせておいた。
――あなたのことが好きです――
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