『はつ恋』4
日曜日に僕は今更どんな顔してみんなと会えばいいのかを考えながらためらって、少し時間に遅れ気味に到着した。若宮さんはきちんと早めの集合を心掛けていたようだ。
それこそ場違いな若宮さんがこんなとこに来る理由もなく、浮いてしまうんじゃないかとも懸念していたが、それは過ぎた心配だったらしい。
そこに集まっていたのは僕を含め三年のサッカー部員、来ていない人もいたが十数名。それに加えてそれと約同数の女子生徒。ひとりはマネージャーを務めていた子だったが、あとの女子生徒のほとんどはどういう理由で集められたかは解らない。が、やはりそれは片岡君のカリスマ性ならではといったところだろう。
僕たちはみんなで歩いてそこから近くのカラオケ店(それは田舎にとって髄一、そして唯一の娯楽施設)へと移動した。
男女合わせて三十名近く、ほとんどそれは部活動的なものというよりは大がかりな合コンにさえ近い。一番広い大型の部屋に入り、それぞれが仲のいい者同士のグループで勝手にワイワイする感じ。長い間部活に出ていなかった僕と、本が唯一の友達のような若宮さんとは当然のように部屋の隅っこの方で二人の世界を作り上げることとなった。
これだけの人数がいればカラオケで歌を唄わないやつがいたところで誰も気にはしないだろう。それに後ろの方にいる僕たちに誰が気を止めるだろうか。
またいつものように若宮さんと二人で最近読んだ本について意見を交換していた。そこに割り込んできた男が一人。
「ああ、読書だったらオレも結構読むぜ。太宰治とか。『人間失格』は最高だよな」
なんて、ベタにもほどがある。そんな意見はとても読書好きの意見とは思えないな……ってほんの数ヶ月前の僕だってそんなものだっただろう。そう思えばあの頃の僕の薄っぺらい(今だって大したことはないが)〝読書家気取り〟なんて、本物の文学乙女には見抜かれていたに決まっている。そう思うと少し恥ずかしい。
ともあれ、誰にでも気が使える片岡君にとっては部屋の隅っこでみんなの輪から外れている姿が気になったのだろう。
そしてそこに彼が割り込んできたという事は……。
この会に出席しているほとんどの女子生徒はおそらく片岡君のファンなのであろうことは明白であり、彼のいるところが常に会の注目すべき中心地だ。
会場全体の視線はおよそ僕たちのいる隅っこへと向けられた。そろそろカラオケにも飽きてきたころの思春期の少年少女たちの関心事と言えば――。
「ねえ、ところで竹久君と若宮さんは付き合っているの」と誰かが言葉を投げかけた。
「やだ、そんなの聞かなくってもわかりきってるじゃない」
「そうそう、なんだかいつも二人でいるもんね」
次々に繰り出される勝手な言葉に僕たちは反論することも、肯定することも許されなかった。むしろ顔を真っ赤にしてうつむいている若宮さんの姿はそれを肯定しているようにしか映らなかった。僕たちは恋人同士だと決めつけられたようだった。僕は別段そのことを不快には思わない。むしろ嬉しいとさえ思っていた。
そしてテンションの上がりきった思春期たちはやがて暴挙に至る。
――王様ゲーム。
それは王様の名をかたる悪魔が自由奔放にふるまう悪魔の遊び。そのルールの凶悪さゆえ、現代において絶滅の危機に瀕しているこの遊びも、こうした田舎においてはかすかに生き続けていたのだ。
しかしそこは中学生。それなりに分別をわきまえた程度の軽いお遊びだった。しっぺ、デコピン。まあせいぜい好きな人の名を発表するというくらいにとどまっていたし、三十人近い人数だ。犠牲者になる確率だって低い。ほとんど傍観者のつもりで部屋の隅っこに鎮座していただけだった。
だが、それは突然訪れた。
「じゃあ、12番と26番がキス!」
いつも悪ふざけばかりしている男子生徒がそういった。
「いや、ちょ、それはいくら何でもマズイんじゃね」
そんな声が飛び交った。どうかこのままそんな命令は却下されてほしい。僕は12と書かれた割り箸を誰にも見られないように握りしめていた。
「てか誰だよ。12番と26番! とりあえず名乗り出ろよ」
不穏な空気が流れ、いくら僕でもそこを無視するわけにはいかなくなってしまった。「12」とつぶやくように立ち上がった。
「26番誰だよ!」
その言葉の後しばらくの沈黙の後、若宮さんがゆっくりと立ち上がった。
「……なあーんだ。じゃあ問題ないじゃん」
「そうよね、どうせあんたたち初めてってわけじゃないんでしょ」「いいじゃん、いいじゃん。しちゃえよキス」「えー、あたしみたーい」
口々に好き放題の発言が飛び交う。周りに恋人同士だと感違いされてしまったことがここにきて大きな痛手となってしまった。
「キース、キース、キース………」
いつの間にかコールと、手拍子が始まる騒ぎとなった。もうどうにも後に引けないような状態。若宮さんはうつむいたまま握り拳を強く握りしめていた。そしてあるとき彼女のタガは外れてしまった。
「……あ、あ、あの……。わたしたち! べつにつきあってるわけじゃありませんから!」
まさか若宮さんがこんな大きな声が出せるなんて思ってもみなかった。それにはっきりとした否定発言に会場は凍りつき、さらなる険悪なムード。誰も、一言も発しないまま。それはわずか数秒のことだったのかもしれないが、果てしなく長い時間にも思われた。
「あーあ、雰囲気台無しだな」片岡君の思いっきり皮肉を込めたような言葉で沈黙は解かれた。
「お前ら、どうでもいいからさっさとキスしろよ。しないっていうんなら今すぐ帰れ」
僕はおそらく人生で初めて誰かを憎いと感じた。殺気立つ目で片岡君を睨み付けた。足が半歩、片岡君に向かった時、「いい、もう帰ろう」僕にだけ聞こえるような声で若宮さんがささやいた。おかげで僕は少しだけ正気を取り戻し、若宮さんの手を強く握った。
「帰ろう!」
皆にはっきりと聞こえるような声で言いながら若宮さんの手を引っ張ってカラオケ店を後にした。背中の方でヒューヒュー言いながら拍手をする音が響いた。
それからしばらくの間は片岡君と口をきくことはなかった。校内では若宮さんの宣言とは裏腹に僕たち二人は付き合っているとささやかれた。僕たち二人の関係はというと何も変わらなかった。今までどおり図書室で本を読んだり雑談をしたり。そんな毎日の中で僕は少しは気づくべきだったのかもしれない。時々彼女がうつろな目をしたり、何かをぼんやりと考え込んだりする姿を……いや、もしかしたらもっとずっと前から……。彼女が時々校庭の中を走りながら皆に激を飛ばす誰かの姿を眺めていたのかもしれないし、あの日、あの会に彼女が参加しようと言い出したのだって、そのためだったのかもしれない。
僕はひとり、彼女の姿を眺めながら自分にとって都合の良い世界を想像していただけかもしれなかった。
あるときちょっとした巡り会わせで片岡君と二人きりになった時に彼は言った。
「優真。あの時は悪かったな……。あの時はああ言うしかなかったんだ」
ただそれだけの言葉だったが、その時、僕はようやく気付いた。気づいてしまった。
片岡君は恋をしていた。あの、地味で目立たない黒髪の文学乙女に。
あの時、あの言葉は僕に対してどうこう言ったものなんかじゃない。
彼女を守るため。そのために行った苦肉の策。
片岡君は自ら憎まれ役を買ってあの会場から文学乙女を逃がしたに過ぎない。
〝ああ、これが恋なのだ〟〝恋のため、自らを犠牲にしたいと思うことがある〟
ツルゲーネフの『はつ恋』の中にあるセリフを思い出す。
去り際に片岡君は僕に言った。それは僕を見下す風な言い方ではなく、あえて言うなら僕に対して羨望というか、敬服といった印象を受ける言い方だった。
「――お前さえ、いなけりゃあな……」
片岡君は握り拳をそっと僕の脇腹に突き付けた。
僕はすっかりそのタイトルに騙されていた。ツルゲーネフの『はつ恋』は、そのタイトルからウラジミールとジナイーダの恋の話だと思っていたのだが、実際に読んでみると後半部分に少し違う印象を感じた。ジナイーダという一人の少女を巡り、恋の火花を散らした二人の男の物語……僕はそう感じたのだ。
かくして僕は高校受験に失敗し、若宮さんは合格した。
二人が離れ離れになることが確定し、僕は卒業式の日にその想いを告げることにした。
勝算はあった……
それはいつの日だったか、たぶん夏休みのころだったと思う。
昔から記憶力が悪いというか物忘れが多いというか、特に消しゴムをよくなくす。そして、いつも一緒に勉強している若宮さんに借りるのだ。そしてまたそれを返すのを忘れてしまう。まったく。自分が嫌になる。
さらに言うと僕は消しゴムに対し、変なフェティシズムを持っている。消しゴムについているキャップを外し、そのキャップを左手の人差し指にはめて、右手人差し指でその真新しい消しゴムの腹の部分を撫でるのだ。滑りやすくするためか、粉を吹いていて、すごくスベスベしている。背筋を這うような快感が走る。これを人知れずひそかに行っている。
と、ある時、キャップを外したところの真新しい部分にペンで文字が書いてあった。
――あなたのことが好きです――
よくよく見ればそれはもともと僕の消しゴムではない。考えるまでもなく若宮さんから借りてそのままにしているやつだろう。彼女はいつしか僕に密かなメッセージを送ってきていた。
それをたしかに僕は受け取った……。つもりになっていたのだが……。
『……わたしはね……。片岡君のことが好きなの……』
何がどこでどう間違ってしまったのか……。本来行動を起こすべきタイミングを誤ってしまったのかもしれない。もしくは初めからあのメッセージは僕あてではなかったのかもしれない。
ただ、単に自分の都合のいいように解釈していただけ。
今から思えばあの『はつ恋』と同じだったのだ。
僕はこの話をウラジミールとジナイーダの恋の話だと思って読んでいた。だけど若宮さんはそうではなかった。彼女はあの話をジナイーダ目線で読み取り、ジナイーダとその想い人との恋に悩む少女がいつもその隣にいたウラジミールに相談したという話として読み取っていた。
事の次第はつまりそう言うことだったのだ。
中学時代の僕はウラジミールで物語の主役だと思っていた。しかしジナイーダの目線で語ればウラジミールは傍観者でしかなかった。ただそれだけなのだ。
そしてこの物語、結局のところ二人の恋物語なんかじゃなく。ウラジミールとその恋のライバルとの友情物語に過ぎない。
そして、相も変わらず僕はこうして朝早く、誰もいない教室でひとり読書を開始した。一年前は二人だったが、今はもうひとりだ。坂口安吾全集を開きながら、やはりその内容はあまり頭に入ってこず、めぐるのはあの頃。
消しゴムに書かれた文字――あなたのことが好きです――を思い出しながら、センチメンタルに浸っていた。
いつしか僕のすぐ隣にとある生徒がいることに気付いた。目をやると教室で一番の美人の笹葉さんだった。いつもは強気な彼女が恥ずかしそうに、もじもじとしながら
その白いほほを赤く染めていた。
「ねえ、竹久――。つきあって……ほしんだけど……」
その言葉を聞いた瞬間。僕の脳髄は一気に沸点に達してしまい、
――愚かにも、再びとんでもない勘違いをして、そして玉砕するのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます