『蜘蛛の糸』3

 午前中にして家に到着し着慣れないブレザーを脱ぎ、結びなれないネクタイをほどいてリラックスするとベットの上に横になって読みかけの文庫本を開いて読書を開始する。


 僕の趣味は読書だ。ある理由があって一年くらい前から本を読むようになった。初めのうちは読み始めるとすぐに眠くなっていたが、いつの間にか平気で何時間も読み続けられるようになっていた。


 一時間ほどで読みかけだったスタンダールの『赤と黒』を読み終わると本棚に並べ直す。本棚はすでにパンパンで本を差すためには一度邪魔になっている端のノートを引き抜かねばならなかった。すぐに別の場所にそのノートを移動させようと思ったが思い直して引っ張り出し、ノートを開いてみた。そのノートは僕が一年ほど前に読書の趣味を持ち始めていた時からの読書感想文が書かれている。決して課題として学校に提出するとかそういったために書いているものではない。その当時知り合った友人の勧めで思ったことを何でもいいから書くようにしたのだ。もちろんページ数や文法も特に気にする必要はないし誰かに見せる為にウケを狙う必要もない。おかげで書いている内容は実にいい加減なものである。


 最初のページを開いてそこに書かれている一年前の感想文を読んでみる。




    『蜘蛛の糸』芥川龍之介著 を読んで


お釈迦様は残酷である。そもそも蜘蛛を助けたからと言ってそれで人を殺したり家に火をつけたりする大泥棒の罪がチャラになるわけがない。そもそも蜘蛛を助けただけではなくただ殺さずに見逃してやっただけに過ぎない。別に善い行いをしたわけでもなく、悪い行いをしなかっただけに過ぎない。そんなことで極楽浄土へ行けるというのなら地獄なんてはじめから誰も行く必要が無い。


だったらなぜお釈迦様は蜘蛛の糸を垂らしたのか? その答えは簡単だ。

カンダタごとき悪人はどうせ蜘蛛の糸を独り占めするような行動をとるという事が初めから予測されていたのだ。その上でお釈迦様はカンダタに糸を登らせてわずかな期待を持たせ、そのうえでまっさかさまに落としてやろうという魂胆だったに違いない。


芥川は悪人などというものはそうしてお釈迦様の暇つぶしにもてあそばれるようなただの見世物としての生活を受け入れなければならない因果応報を語りたかったのだ。

それにあの話、一体正解はなんだったというのだろう?


細い糸にしがみついているカンダタを追って登ってくる罪人の群れ。どうすればうまく昇りきることができただろうか。細い糸は今にも切れそうであったに違いない。


「さあ、みんなで一緒に登ろう!」なんてのはばかげている。「糸は細いからみんな順番に一人ずつ登ろうよ!」なんて優等生なセリフも無意味だ。何せここは地獄で周りは罪人である。そう簡単に秩序を守るわけがない。つまり初めから出口なんて用意されてなどいなかったのだろう。本来地獄とはそういったものだ。しかしまあ、僕だってそれほど悪人というわけでもない。まあ死ぬまでに10匹は蜘蛛を殺さず見逃してやろうと思う。



 まったく。中学生時代に書いたものとはいえ、ひどい内容だ。このひねくれた性格は何も最近に起きた不幸な出来事の連続で生まれたものではないという証拠だ。

一年前から僕はすでにひねくれた性格だったことを思いだした。


 だが、一年前にこんなひねくれまくった僕の読書感想文を肯定してくれた人があった。

 その人はこう言った。


『面白いわ。こいう考え方もあるのね。読書の感想や解釈はこれが正解なんてものはないの。その人が読んで感じたことがすべて正解なの。そして読むたび、また違った感想や解釈ができるようになっていくわ。それは読書をする時の心的状況もあるでしょうし、年齢に伴う考え方の変化もあると思うわ。だから読んだことのある本でも何年か置きには読み返してみて。そうすればまた違った感想が持てるかもしれない。その時のためになるべく今の感想を書き留めておいて未来の自分がどう変化したのかを考えてみるのもいいかもしれないわ』


 そのひとはただひねくれただけの少年を肯定してくれた。そのことに気をよくしてしまったかもしれない。それからというもの僕はひねくれることを恐れなくなってしまったような気がする。


 ひねくれてばかりだった入学式の日から三か月の月日が経ち、すっかりと姿を青々しく変化させた桜の並木道を丘の上の旧校舎から眺めながら、あの桜の木ほどではないにしろ自分もずいぶん変わったなと思い返す。それというのもきっと……。


本格的な暑さが日本列島を横断し始めた今日この頃。山の斜面に建てられた芸文館高校の敷地内でも最も高い場所にある旧校舎はささやかな避暑地だと思っていたのだが、いかんせんこの古い建物にエアコンが設置されていない現実は、インドアな部活動の生徒さえも室外へと送り出す力を秘めていた。


 小高い丘に建つこの旧校舎では、蒸し風呂状態の室内よりも、旧校舎前の縁側の方が風がそよぎ、いくぶん涼しさを感じられる。


「そうやっていつも部屋の中にいるよりも、たまには外に出た方がいいよ。天気良いんだし」


 そんなことをつぶやく我が部の居候宗像さんの言葉を受けて、部室の椅子を屋外へと持ち出した僕は丘の上に立つ旧校舎の縁側に居を構え、そこで読書に耽っていた。


 そんな僕の隣では、同じように椅子を持ち出した宗像さんが椅子の上に体育座りをするというはしたない、あるいは見る角度によると少しばかりエロい体勢で少女漫画を読んでいる。


 終始二人は無言で、それぞれの物語に浸っていたのだが、不意に宗像さんは僕の目の前に手のひらを上に向けて差し出し、


「あめ……」

 とつぶやいた。


 僕はすかさず、足元に置いていた数冊の文庫本を入れて持ち歩いているポーチのサイドのポケットからロリポップキャンディーをひとつ取り出し、彼女の手のひらに乗せた。


「なにこれ?」


 とつぶやく瀬奈。


「だから、あめ……」


 躊躇なくそう答える僕は決してつまらないダジャレを言っていたつもりではなかった。


「いや、そういうことじゃなくってさ、クモの糸の方……」


「クモの糸の方?」


 彼女が言うには、空から降ってくる雨は、〝雲から垂れ下がる糸〟らしかったのだ。すでに高校生である彼女は、その時まで芥川龍之介の『蜘蛛の糸』のことを雲から垂れ下がる糸、すなわち雨を掴んで登っていく話だと思い込んでいたらしいのだ。

 

 まったく。僕の〝雨と飴〟の勘違いも大概だけれど、宗像さんの〝雲と蜘蛛〟の勘違いも大概バカバカしいと大笑いをした。


 大笑いをして、本格的に降り出した夕立に慌てて椅子を担いで旧校舎内に駆け込む僕たちふたりは笑っていた。


 薄暗い教室に移動して、読んでいた漫画を置いた宗像さんはしばらく窓の外を眺め、ぽつりとつぶやいた。


「雨、やみそうにないね。ねえ、せっかくだからどこか出かけようよ」


 なにが、せっかくなのかわからない。


「あ、そうだ。ユウの通ってた中学校に行こうよ」


「なんで?」


「ほら、この間のおっさん先生? あの先生に会いに!」


 ――なんで? そんな言葉を口から出しかけたが、やはり口に出すことは憚られた。つい先ほどまで宗像さんが読んでいた漫画も女子高生と学校の先生が恋をするという物語だったからだ。少女漫画にはやたらとこの設定が多い。よもや美少女女子高生の宗像さんが、冴えないおっさんのことを、なんて考えたくもないがならばなおさら理由を聞くことも出来ず、僕は素直に宗像さんを出身中学校まで連れて行くことにした。

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