『蜘蛛の糸』2

 入学式はすでに始まっていた。ひとつだけぽかりとあいた空席のパイプ椅子に向かう。所在なさ気にまわりを見るが誰も遅刻者のことなど気にしている様子もない。まあそれも当然。所詮僕など脇役に過ぎない。


 そして、主役というのはきっと彼のような存在なのだろう。いそいそと席に付く僕の隣に座っていた男子生徒は「新入生代表」という言葉で皆の前に出て行く。なるほど、これがうわさに聞く入試成績一位の生徒というやつか。しかも見ればとんでもないイケメンだ。


 美貌。と言えばいいのだろうか。まるで少女漫画の表紙に描かれているような端正な顔立ちだ。ヘタにテレビに出ている人気俳優なんかよりもいくぶん男らしい顔立ちで誰が見てもイケメンとしか言いようがない。……たぶん足だって速いだろう。これで入試成績一位の新入生代表だというのだから神様なんてものはあまりにも不公平だ。神はひとりの人間に一物も二物も平気で与える。代わりに僕には何も与えてはくれなかった。むしろ何もないことで笑いの対象とするべきために存在させているのかもしれない。神様なんてその程度の悪趣味な存在なのだろう。


 黒崎大我(くろさきたいが)。新入生代表はそう名乗った。リア充のなかのリア充、キングオブリア充として恥じない堂々とした名前だ。あまりの悔しさに彼には新しい名前を与えることにしよう。リア充のなかのリア充、キングオブリア充なので〝リア王〟としよう。偉大なるその王はかのシェイクスピアの四大悲劇の一つ、リア王から与えられたものだ。偉大なるその王は周りの皆から見捨てられ、悲運な死を遂げる。僕は黒崎大我にそんな一縷の願いを込め、名誉ある〝リア王〟の名を与えた。


 入学式が終わり、皆が教室に案内される中、僕はひとり職員室に呼ばれた。言うまでも無く僕が入学式早々、たった一人の遅刻者だったからだ。


 僕のクラスの担任を受け持つという原田良照(はらだよしてる)という男は人生のすべてを悟った人間かのように偉そうな口ぶりで僕に向かって説教を垂れる。お前は人生のすべてを悟るほどの人間でもないだろうと思いもしたが、当然口には出さない。見れば実年齢こそ三十代前半といった頃だが、若くしてその不毛なる砂漠のような頭頂部が年齢の不詳さをかもしだしている。彼は若いなりにその頭皮について思い悩みもしただろう。僕は若くして頭皮の悩みを抱える彼に〝テルテル〟の名前を与えてやることを決めた。


 熱く説教を垂れる彼に対し、それをあえて無視する僕は目の前の『若きテルテルの悩み』について想像を膨らませながらやり過ごした。


 一年A組、普通科 特別進学コースの教室は校内で一番玄関寄りの新校舎にある。

 説教のせいで一人少し遅れて教室にたどり着いたときにはすでにいくつかの〝輪〟が出来上がっているように感じた。ざわめく教室の中、それぞれに見た目だけでそれなりに見当のつきそうな系統別に分かれ、それぞれに雑談を始めている。


 黒板には座席と名前が書かれていた。とにかく僕の席はその黒板の席次表によると教室の一番左側のうしろから二番目、特別でも何でもないその場所が他でもない僕のために用意されていて、何を考えるでもなくその席に座り、机の上に荷物を置いた。


 教室の中を見回すとそこいらで初めて顔を合わせる者同士がそれぞれの新しい仲間を求めて言葉を交わしている。


少ししてチャイムが鳴るとほぼ時を同じくして担任のテルテルこと原田がやってくると教室のみんなはおとなしく自分の席に戻っていった。おやくそくの挨拶やら聞き飽きた注意事項やら心がけやらを偉そうに語るうすらハゲの言葉など聞くだけ時間の無駄で、僕は教室全体を眺めていた。


それというのも僕の心の片隅にちょっとした希望があったのだ。こんなことを言うと笑われてしまうかもしれないが、僕が今朝出会ったあの〝太陽の少女〟のことだ。もしかしたら同じクラスの生徒で「あっ、さっきは!」などというような運命の出会いができるかもしれないと思っていたりなどするのだ。漫画などではあまりにもよくある光景にもかかわらず実際にはまずありえない。


そして僕の人生においてもやはりそんなことはありえなかった。


しかし、転んでもただでは起きないのが僕だ。教室の一番右の列の最後尾に天使を見つけた。透き通るような色白の肌でまるでシャム猫のような気品に満ちた、はっきりとした顔立ちで少し厚めの唇はつやつやと輝きを放ち……。なのだが髪は明らかに地毛では通用しない明るい染髪でやや緩めのウェーブがかった髪。日本人には珍しく青みを帯びた瞳孔は神秘的でさえあり、スカート丈は驚くほどに短い。


まあ、一言で言ってしまうとビッチっぽい。入学式早々に一年生がこれほどまでに堂々とした格好で入学するとはいい度胸だ。もともとこの学園は進学校ではなく、芸術や文化教育に力を入れており美術科や調理科、音楽科などを有しており、まあどちらかというと偏差値は低めの生徒が多い。そんな学園内において特進コースはただそれだけで異質な存在であり、ルサンチマンの対象であるにもかかわらず、入学早々『調子に乗っている』とも受け取られそうなその恰好は孤立を招きかねない軽率な判断だともいえるだろう。


しかしながら、それくらいどうってことないくらいどストライクだった。その真っ白な肌はまるで新品の消しゴムを連想させる。まあ、どうでもいいことなのだが僕は新品の消しゴムというもの対して一条ならぬ嗜好がある。まずその角ばった形だ。光に透かすと透き通るほどに白くシャープな角はそれでいて触ると意外なほどに優しい。そう、新品の消しゴムの角はツンデレなのだ。新品の消しゴムの良さはそれだけにとどまらない。消しゴムについているカバーを外してみよう。その内側は少しだけパウダーっ気があり、触るとものすごくスベスベしている。僕は時々勉強に行き詰ると消しゴムのキャップを外して中のスベスベを堪能しながら精神を集中させる癖がある。

僕は妄想の中で彼女のキャップを外してその中のスベスベを堪能してみた。


僕は黒板に書かれている席次表を見ながら彼女の名前が笹葉更紗(ささばさらさ)という名前だと確認し、それと同時に〝消しゴム天使″という名を与えた。はじめに思い浮かんだのは〝ゴムビッチ〟だったが、それではあまりにも下世話な印象なので美人に免じて〝消しゴム天使〟を採用することにした。


つい、見とれてしまったのかもしれない。どれくらいの間彼女を見ていたのかはわからないが、やがて僕の視線に気づいたであろう彼女は僕の方を見つめかえして二人の視線はぶつかった。


まるで一瞬の間に恋するというのはこういう事なのかもしれないほどに胸が高鳴った。もしかすると僕はここで彼女と出会うことが運命づけられていたんじゃないかと思う。さらに消しゴム天使は首を少しかしげ、僕に向かって微笑んでくれた。その表情は意外にこわばっていた。少しぎこちなさを含んではいるが、決して悪意はない、たしかな親しみを感じる笑顔を必死で作ろうとしていた。


急いで僕も何かしらの合図を送り返そうとした。その時僕の後の席、つまりは窓際の一番後ろの席で何かの気配を感じた。その気配の主はそんな彼女に手を振っていた。僕はそっとそいつの顔を見てやった。黒板の席次表なんか見る必要もない。僕はこいつの名前を知っている。


こいつの名前は確か黒崎大我、僕がさっきリア王の名前を与えた奴だ。そしてすぐに現実を理解した。よくよく考えてみればあんな美人の消しゴム天使が僕になんか微笑みかけてくるはずがないのだ。彼女がそのほほえみでアピールしたい存在とは超の上に超がもう三つくらいつきそうな美男子でしかも入試成績トップのキングオブリア充ことリア王、黒崎大我を置いて他にいるはずもなかった。


僕は恋に落ちて三秒で失恋を経験し、その腹いせに横目で黒崎大我事、リア王を睨んでしまったかもしれない。そんな僕の目線に気づいたリア王は屈託のない笑顔で僕にさえ微笑みかけてくれた。この腐りきったねじくれた性格を持った僕に優しく微笑みかけてくれたのだった。もし、この僕が女に生まれていたならトキメいてしまったかもしれない。


全てを持って生まれてしまった人間は他人にルサンチマンを感じることはない。だから僕の目線の奥に潜む悪意を感じ取ることもできず、ただ優しく微笑み返してしまったのだ。


ホームルームが終わり、その日の学校行事はそれだけで終わりだった。遅刻した僕にとっては一体何のために学校に来たのかもわからないような一日であった。僕は荷物をまとめ帰る準備をしようとした。


そんな僕の背中をトントンとたたいてくる。考えるまでも無く僕のうしろに座っているリア王だろう。座ったまま上半身をひねって振り返った僕に優しく微笑みかけながら(僕は王子様スマイルと呼ぶことにした)繊細で美しく、それでいてそれなりにたくましい手を差し伸べてきた。


「俺は黒崎大我。これからよろしくな」


 ただ、それだけ。ただそれだけの当り前の挨拶だったが王子様スマイルのせいかその伸ばされた掌がまるで地獄にいるカンダタの前に差し出された蜘蛛の糸のように感じた。ドン底の気分で二周も三周もねじくれた性格の僕を極楽浄土へと導いてくれるかもしれない蜘蛛の糸。


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