『蜘蛛の糸』芥川龍之介著 を読んで 竹久優真

『蜘蛛の糸』1 竹久優真

『蜘蛛の糸』芥川龍之介著 を読んで             竹久 優真



 散々悪事を働いてきた盗賊のカンダタは当然のことながら地獄へ落とされる。そこに一本垂れさがる蜘蛛の糸。それは生前行った唯一の善行、蜘蛛を殺さなかったという事だ。その蜘蛛の糸をよじ登れはきっと地獄から抜け出せるとカンダタは登って行く。ふと下を見れば他の罪人までもが蜘蛛の糸を登ってくるので、これではこんな細い糸など切れてしまうと思ったカンダタが「この蜘蛛の糸は俺のものだぞ、おりろ、おりろ」と大声を出した途端、糸はカンダタの手元から切れて闇の底へと落ちて行ってしまう。

 言わずもがな因果応報を語った物語である。

 


 日本でもっとも有名な小説家のひとり、芥川龍之介の名著で、芥川初の児童向け文学。おそらく誰もが一度や二度はこの物語に触れたことがあるだろう。この物語の下地はポール・ケーラスというアメリカの作家の著書『カルマ』の日本語訳『因果の小車』の中にある一篇であるとか、ドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟の中でグルーシェンカの語る『一本の葱』という話がモデルにもなっていると言われているが、スウェーデンの『我が主とペトロ聖者』やイタリアの『シエナのカタリナ』日本各地に伝わる『地獄の人参』など、数多くの類似した物語が存在するわけだが、この物語を初めてちゃんと読んだ、当時中学生だった僕にはそんなうんちくなど知りもしなかった。そしてこの短い物語を自分の好きなように読み、全く自分勝手で間違いだらけの感想を抱いたものだ。



――お釈迦様は悪趣味だ。



 うつむきながら歩いていた……


まだ肌寒さが残る春の桜並木の坂道を僕はひとりで一人で歩いていた。はっきり言って気分は最悪だ。

僕は中学生の時に恋をした。いつも二人は一緒にいたし、ちょっとした理由もあってそれなりにうまくいっている自信もあった。


僕らは同じ高校を受験し、幸せな高校生活を送る予定だった。しかしながら僕は受験に失敗し、成績優秀だった彼女だけが合格。二人は別々の高校に進学することになった。


いきなり突きつけられた制限時間。いつまでも曖昧な状態は続けられないと、彼女を呼び出しその想いを告げた。


「ごめんなさい。わたし、好きな人がいるの」


 ……フラれてしまった。

 

 想いを寄せる人にあっさりフラれ、高校受験に失敗した僕は滑り止めの適当な高校に進学し、その入学式の日の朝……。寝坊した。


 入学式だというのに家族は誰も僕を起こしてはくれなかった。朝起きた時には家に一人ぼっちだった。


 急いで家を出たのだが電車には乗り遅れた。次の電車は朝の通勤ラッシュの時間だというのに30分待たなければならない。これだから田舎は嫌だ。

 

30分後の電車に乗り学校最寄りの駅〝東西大寺駅(ひがしさいだいじえき)〟の北口という、もはや方角のよくわからない名前の駅に到着したのは入学式開始8分前。


 ――走った。


途中から桜並木の坂道になり、そのはるか坂の上にこれから通う芸文館高校がそびえたつ姿が見える。なんだってこんな不憫なところに学校があるのかと問うたところでどうとなることはない。今、走る以外の何があるだろうか。


 しかしこんな時に限って人はつまらないことを考える。

果たして行きたくもないこんな学校に通う意味なんてあるのだろうか。彼女のいないあの学校へ毎日通う意味なんてあるのだろうか。今更、入学式に遅刻しなかったからと言って僕に幸せが訪れるとでもいうのだろうか。

 

その答えはすべてがノーだ。

 

 走るのをやめ、トボトボと歩き始めた。ふと、目の前には満開の桜並木の中に一本だけ、へんにねじれ曲がって、まるで枯れ木のような桜の木がある。花を咲かせることに一人だけで遅れてしまったのか、それとも初めから花を咲かせることが出来なくなってしまった樹なのか……。ともかく僕はその樹に自分の姿を重ね、それが僕の高校生活のメタファーだと感じとった。僕はその樹を……

 

「ちぇーーーすとーーー!」

 

ボカッ! と、鈍い音とともに後頭部に激しい痛みを感じた。

 思わずうずくまる僕の横を軽やかに駆け抜ける足音が響く。そして後頭部を抱えながらその足跡を追うように坂道の上の方に目を走らせた。


 その時が初めてだったかもしれない。僕が空を見上げたのは……


 まだ肌寒さの残る春の空には雲一つなく澄み渡っていて、悪意のかけらさえ持たない薄黄色く輝く太陽がまぶしすぎるほどに輝いていて……。眩しすぎてとても直視なんてできなかった。


 太陽からのびる一筋の光線はまっすぐに地面に向かって伸び、やがて坂道の途中で立ち止まり、振り返る少女の栗色の長い髪の後れ毛の隙間を縫いながら地面へと落ちた。


 薄小麦色の健康的な肌。狐の目のように吊り上り、笑いながら目を細める両目はⅤの字を描き、眉と同様にふたつのⅤの字を描いている。


 まだ使い慣れてもいない皴の少ないブレザーは間違いなく同じく芸文館高校の生徒のもので、ネクタイは青と白のストライプ。入学年ごとに色の替わるネクタイはこの学園の特徴の一つで僕と同じ青のストライプであることから同じ新一年生だという事がわかる。左手に握った革の鞄はおそらく先程僕の後頭部を殴打したものであろう、男らしく背中に回して担いでいた。


「ねえ、君、遅刻するよ!」


元気な口調で叫ぶ彼女は再び目と眉で二つのVを作った。


「ししっ!」っと声が聞こえるようだ。無論、実際に彼女はそんな声など出してはいないのだろうが、僕の心の中でその音声をあてがった。きっと誰もがそうするに違いない。そう思えるほどに彼女の微笑みが「ししっ!」と語っていた。


 再び坂道の上へと振り返り、彼女のスカートのプリーツが遅れて半回転する。そして、また坂道の上に向かって振り返り、走り始めた。

 走り出した彼女のうしろ髪は太陽の光をいっぱいに浴びて黄金色に輝き、強く、しなやかに跳ねていた。その一本一本はとても丈夫そうで……。それを伝っていけばやがては地獄から抜け出し、極楽浄土へと導く蜘蛛の糸のようにも見えた。


何も考えられなくなり、しばらくの間僕はその場に立ち尽くしていた。それが実際に何秒ほどの出来事なのかはわからないが、われに返った時にはすでに彼女の姿はなかった。


僕の好きな小説家である村上春樹のとある掌編小説を読んだ僕は、もし、ある晴れた四月の朝、100パーセントの女の子に出会った時、どうやって声を掛ければいいのかを常日頃考えていたが、いざそれが本当に起きると、なにも言葉は出なかった。それをあえて言い訳をさせてもらうなら予定していたシチュエーションとはあまりにも違いすぎるから。


 始業のチャイムが鳴り、完全に遅刻を確信した僕はようやく歩き始めた。

目の前には誰が落としたのかハンカチが坂道の途中に落ちていた。紅葉の柄のついた白いハンカチだ。桜の樹の下で拾った紅葉柄のハンカチはあまりにも風情が無さすぎると感じたがそのハンカチは先程の〝太陽の少女〟のものだと確信した。いや、本当のところ彼女のものでなくてもいい。ただ、「落としましたよ」と声がかけられればそれで充分だった。白い紅葉柄のハンカチは僕にとってはしあわせの黄色いハンカチ。いや、それ以上に運命の赤い糸ともいえる存在に感じた。


 拾い上げたハンカチをブレザーのポケットに押し込み、僕は坂道を駆け上がっていった。


山の斜面に建てられたこの学校は校門をくぐって正面の新校舎から入ってすぐに下駄箱がある。その新校舎の裏から登りの山道に沿って長い長い階段があり、その階段に沿ってさらに二棟の校舎がある。正面新校舎から順に、奥に行くほど建物は古くなる。


誰もいない長い階段を駆け上がり、一番上まで行くとちょっとした広場になっていて、正面に大きな食堂があり、その左手の方には体育館が見える。入学式はその体育館で行われている。


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