『走れメロス』5 

「ねえ、ところでさ。太宰ってどうやって死んだの?」


 と、今更当たり前のことを質問してきたのは宗像さんだ。一応、話についてこられない彼女のために簡単に説明をしておく。


「太宰治は1948年の六月十三日、愛人の山崎富栄と玉川上水で入水自殺をしたんだ。しかもこの日、新聞に連載していた『人間失格』の最終回の掲載の日でもあったんだ。

 この『人間失格』。言ってしまえば太宰自身の自伝的な側面の多い物語で、当時の新聞はこれは太宰自身の遺書だったと報道され、当然ながら話題となった。それから現在に至るまで約600万部が売れた超ベストセラー作品であり、この作品の熱烈なファンは数えきれないだろう」


「ああ、でももったいないよね。そんなに売れたんならきっとお金もたくさん入ってきてウハウハな人生だったかもしれないのに、死んじゃったんじゃあ意味、無いよね……」


「まったくね。でも……」


 言いかけた僕の言葉奪うように栞さんが言葉をつなぐ。


「この太宰の入水自殺については多くの疑問があるのよ。一つの説として、愛人の富栄に殺されたんじゃないか、という説。

 遺体が発見されたのは六月十九日。奇しくも太宰の誕生日であるその日見つかった死体は行方不明から六日後のことだった。

二人は赤い糸で結ばれて抱きしめあった状態で川底の棒杭に引っかかっていた。

富栄の遺体は激しく苦しんだ形相をしていたにもかかわらず、太宰はおだやかな死に顔で、あまり水を飲んだ形跡も見られないという。また、太宰の遺体の首には絞め殺された後のようなものまで残っていたのよ。

つまり、太宰は入水前に死亡、あるいは気絶、泥酔状態のいずれかではなかったかと言われているのよ。入水地点にはウイスキーの空き瓶と青酸カリの空き瓶が見つかっている」


「つまり……それって、その愛人が薬を飲ませて殺したうえで赤い糸を二人にくくりつけて無理心中に見せかけたってこと?」


「さあ、どうだろう」と、僕はつなぐ。「富栄が首を絞めて殺したとか、落ちていた青酸カリの瓶は関係ないとか、ただ単に直前までウイスキーの瓶を手放せないほどに泥酔していたとか、可能性はいくらでもある。その中で一番そうであるとドラマティックで、そうであって欲しいと宗像さんがそう想像しているだけかもしれない」


「別に……そうであってほしいとかそんなことを考えてるわけじゃあないけど……」


「ただ、こうして現場にこういうものが落ちていましたよ。といわれてしまえば、人は自然、それらの道具すべてに役割を与えなければらないとすべてを関連づけてしまいがちだけど、なにせ川べりに瓶が転がっているだけなんて、誰かが捨てただけかもしれないし、どっかから流れてきたのかもしれない」


「でもね、当時の記録としてはこんなのも残っている」


と、栞さん。立ち上がり、豊かな胸の前で両腕を組んで僕らの周りをゆっくりと歩きながら、それはさながら名探偵が事件の真相へ向けて説明していくように、何の資料を開くわけでもなく、頭の中の記憶を引き出すにしてはあまりに一字一句鮮明に当時の説明をしてくれる。


「当時の記録によると、入水現場には下駄を思いっきり突っ張った跡と手をついて滑り落ちるのを防ごうとした跡が、事件発生より一週間も後、その間雨が降っていたにもかかわらず残っており、入水することを拒んで激しく暴れたのかもしれないし、いざ死ぬとなるとやはり怖くなってもがいたのか、それについてもはっきりとしない。

けれど、現場検証をした中畑という呉服商は『わたしは純然たる自殺とは思えない』と警察所長に言ったことに対し、所長も『自殺、つまり心中ということを発表してしまった現在、いまさらとやかく言ってもはじまらないが、実は警察としても腑に落ちない点もあるのです』と言っている。

 警察は事件性があるとしながらも、終わったこととして処理したこと述べている」


「ねえ、しおりん。だとして太宰の愛人、トミエ? そのひとが太宰を殺したのだとして、その動機ってなんなのかな?」


「『死ぬ気で恋をしてみないか?』と、太宰は言ったそうだ」


 僕はその有名な言葉を彼女に伝える。


「文字通り、富栄は死ぬ気で恋をしたのかもしれないね。なにせ相手は時代きっての人気作家。外見的にも魅力的で、そんな相手を好きになったのだから、それなりの覚悟は必要だったのだろうさ。たとえばそんな相手に本気になったにもかかわらず、色情のおさえられない猿のような男に弄ばれただけだと知ったなら、そいつを殺して自分も死ぬ。なんてヤンデレ展開もあるかもしれないよ」


「うーん。でも、そこまで人を好きになれるのって少し憧れてしまうかもしれない……」


「やめときなよせなちー。あんたは放っておいてもみんなに好かれる存在なんだから、何もそこまでしてろくでもない男を好きになる必要なんてないんだからさ……」


「じゃあ、俺もそろそろ理科の教師らしいことでも言ってみようか」


 と、話のきっかけを作っておいてずっと沈黙を守っていたおっさんが語り始める。


「さて、そんな太宰の死因について、当時の日本にはまだ十分な検死の技術がなかったからだということは言うまでもない。が、昨今の進化した科学技術があれば詳細が明らかになっていたのは言うまでもないだろう。

 しかし問題は五十年もたった今となってはそれを調べるための対象すら残っていないということだ。できることと言えば、残されたわずかな資料から、科学的な知識で再検証するくらいのことだろう。

 さて、いちばんの問題は死亡から死体発見まで六日もかかったということと、発見現場が入水現場とそれほど離れていなかったことが挙げられる」


「それは……つまり何が問題なわけ?」


「太宰の遺体は衣服なども着用したまま、遺体の損傷も少ない状態で発見された。これは太宰の遺体が川底に沈んで、ゆっくりと川底を移動したのではないということだ。

 通常、入水した場合、もがいて大量の水を飲み、肺の中が水で満たされることによって底へと沈む。しかし、先にも言ったように富栄は苦しんだ形相にもかかわらず、太宰の表情は穏やかだったということから、太宰はもがいて大量に水を飲んではいないということになる」


「それって、やっぱり先に殺されちゃってたってこと?」


「そうと決まったわけじゃないよ。だいぶ泥酔していたから、もがくこともなかっただけなのかもしれない」


「そうだな、この時点では何とも言えない。

 しかし要するにだ。浮いた状態では遺体が発見現場まで移動するのにおそらく一日だってかからない。六日後に遺体が見つかったのならば本来もっと下流の方へ流れ着いているはずだ。つまりはやはり遺体は一度どこかに沈んだのだと思われる」


「それはたとえばおもりを抱いて沈んだ……とか?」


「いや、そこまでするひつようはないさ。人間が一度死ねば、時間とともに肺に水が浸入し、やがては底に沈むことになる。水に沈んだ遺体はその体内でガスを発生させ、再び水面へと浮上することになる。しかしこれにしても、当時の六月十三日近辺の気温や、当日雨が降っていたことを考えれば水温はそれなりに温かかったと考えられる。それならばやはり六日というのはやはり浮上するまでに時間がかかりすぎなのではないかと思われる」


「んもうっ。じれったい! 結局のところ! いったいなんだったのよ!」


 長々と回りくどい説明の長いおっさんの説明にしびれを切らした(あるいは話についていけなくなった)宗像さんが結論を急ぐ。


「――だ、そうだ。若者の時間の流れはおっさん(おじさんの発音)のそれとは違う。話の長い大人は嫌われるからそろそろ結論を」


 おっさんは少し渋りながらも「じゃあ」と結論をまとめる。


「おそらく太宰は入水後まもなく心肺停止。遺体発見現場付近までまもなく流され、そこで引っかかった」


「ひっかかった?」


「そう、水中の木の枝にね」


「水中の木の枝?」


「遺体発見現場の新橋付近の川の中は空洞状になっていたんだよ。そう、その断面はいわば丸底フラスコみたいにね。川沿いに生えていた気の根っこは部分は水中で縦横無尽に広がっていた。その枝に引っかかった二人の遺体はその場で肺に水が溜まりいったん川底へ。

 そして体内にガスが溜まり浮上しようとしたところ、空洞の天井部分に引っかかって浮上するのにさらに時間がかかってしまったというわけだ。さらに、水死体の場合には首に絞められたような紋が浮き上がることがある……とまあ、こんな感じかな」


「うーん、で、結局どうなの? 太宰は殺されたの? それとも自殺した? 結局。そこのところってどうなったのかな?」


 足早に説明させておいて、納得できない様子の宗像さんに僕は補足する。


「まあ、首を絞められた跡があるってことは単なる勘違いってことは決まりだ。そもそもそこに関して言えば、はじめから矛盾だらけなんだよね。いくら太宰が酔っていたとはいえ、か細い富栄の手で男である太宰の首を絞め殺すとは考えにくい。それにそもそも青酸カリなんて用意する必要もない。

 で、もし青酸カリで死んだのならば、おっさんの言うように死体が一度沈んで再び浮き上がるなんてことまでを富栄が知っていたとは思えない。ならば死体はすぐに発見される確率が高いわけで、そうなると死因が青酸カリだったってことはすぐにばれる。だったら尚更心中に見せかける必要はなかったってことだよ。

 で、今度は僕の見解。理科の教師でもない文系な考察になるけれど、まず、人間失格は太宰の遺書なんかではない。後になって発見された資料によると、一度完成された人間失格はその後発表までの間何度も推敲が繰り返されている。で、実際の遺作と言えば『グッド・バイ』という小説がある。結局絶筆となってしまったこの小説を執筆中、作家としての自信を無くしてしまって自殺しようと思ったんじゃないかな。

 タイトルの『グッド・バイ』というのもいわくありげだが、この小説は13話で絶筆となっている。これはキリスト教についていろいろ調べていた太宰らしい忌み数だと思う。言うまでもなくキリスト教で言う13は不吉な数字であり、だからこそ心中の日にちも十三日に合わせたんじゃないだろうか。

 つまり、僕は太宰はやはり自殺だったと思ってる。これは、殺人事件なんかじゃないよ」


 僕の意見で、宗像さんもようやく納得を得た表情だった。おっさんも黙ったまま大きく一つ頷いた。


 これにて、一件落着……となるところだったが、やはり相も変わらず我が部の部長である栞さんはそんな簡単に物語を結末には導いてくれない。


「いや、これはれっきとした殺人事件だよ。しかも連続殺人……。あーしとしては死刑を求刑したいところだけれど、どうにも犯人は不本意にも死んでしまったので事件は迷宮入りするしかないという形になってしまったに過ぎない」


「まさか、それじゃあ富栄は本当は死ぬつもりじゃなかったみたいじゃないか。いくらなんでもそれは……」


「いや、たけぴー。そういうことじゃないよ。殺人犯は太宰治の方だ。太宰は富栄を殺し、自分だけが生き残って幸せに暮らすつもりだったんだろうよ……」


「え……」


「考えてもみなよ。最初にせなちーも言っていたけれど、本が売れて生き残ってさえいればお金もちになってウハウハだったんだよ、彼は。

 それにさ、発表までに何度も何度も推敲を重ねたこの人間失格という小説。太宰自身かなりの自信作だったんじゃないのかな? 

 その最終回が掲載される当日、その作者が自殺を図ったというニュースが新聞に載ったら、どれだけの人がその人間失格という物語に興味を示すだろうか? いや、現に話題となったその小説は日本の文学史上異例の大ベストセラーになったわけだ。計算違いだったのはその利益を自分が手にすることができなかったということ。 

『グッド・バイ』や十三の忌み数など、むしろ出来過ぎていると言えば出来過ぎている。自らが本気で死のうと考えている状況での仕込みにしてはいささか冷静に計算し過ぎではないだろうか?」


「つまりは、太宰治自身の心中未遂、未遂……だったってこと?」


「自殺未遂をすれば本が売れる。これは太宰自身過去に四回も繰り返し、その度そのうま味を預かってきたんだ。

 そもそも太宰は狂言自殺の常習犯でもあったわけだろう? なにせデビュー作がいきなり『晩年』で、本人いわくこれを書いて死のうと思っていた……らしいじゃないか。

 でも、その度に太宰に惚れた女はことごとく命を失っている。狂言心中に見せかけて、それまで何人の女が彼の手によって殺されてきたことか……。

 玉川上水のときだってそうじゃないか? 富栄は苦しそうな顔をして死んでいたのだっけ?

 果たして恋をした女は愛する男と心中するのであればそんなに苦しい顔をして死ぬだろうか? でももし、それがその愛する男に頭を水の中に突っ込まれて窒息させられたのだとしたら? 心中に見せかけるためにわざわざウイスキーの空き瓶や青酸カリの瓶を用意したのであったのならば?」


 彼女の、言いたいことはよくわかる。

 しかしそれはいくらなんでも信じたくはない推理だ。

 『人間失格』であることに誰も異をとなえるものはないだろう。

 たとえ自称太宰嫌いを声高にする僕であっても、その意見に首を縦に振ることはできなかった。


 僕は本当のところ、太宰をキライなわけではない。そのあまりに恵まれた、秀でた才能にひがんでいるだけに過ぎないのだ。

 その才能に羨望のまなざしを向け、その相手を否定することで平凡な自分を慰めていたいだけなのだ。

 なのになぜ、栞さんはそこまで太宰に対して厳しい推理ができるのだろうか?

 そんな彼女の闇と、永久に謎のままであり続ける太宰治の死因について、暗い空気に包まれてしまったその教室内の空気を払拭するためにいつものセリフを言うことにする。

 とある友人が言っていた言葉だ。


 ――まあ、わからないことがある方が世の中はおもしろい。

 そんなあっけらかんとした言葉でその日の部活動を締めくくる。

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