『走れメロス』4

「あ、あめ……」


 と、不意に宗像さんがぽつりとつぶやいた。窓の外を見ると、いつの間に降り出したのかしれない雨が次第に雨足を強めていった。


 準備のしたたかな自分を我ながら褒めてやりたい。まだ梅雨入り前とはいえ、用心深い僕は朝、ちゃんと傘を持って来ていた。


 窓を閉めようと思い、そちらの方へと向かって歩いて行き、窓を閉め切ったところで窓ガラス越しの向こうを走りすぎていくスーツ姿の男性教員の姿があった。思いがけない雨で、革の鞄を頭の上に掲げて走りすぎていく。黒縁の眼鏡はすっかり濡れてしまい、大きなしずくが視界を奪っている。


 その男性教員は、この芸文館高校の教師ではなかった。無論、高校に入学したばかりの僕がこの学校の教師の顔を全て憶えているはずがない。ひとの顔を覚えないことには自信があるくらいだ。


 にもかかわらず、その男性がこの学校の教師ではないと断言できたのには理由がある。


その男性教員はぐるっと建物を迂回し、この旧校舎の玄関口へと走っていった。

僕はタイミングを見計らい、その男性教員が文芸部の部室のちょうど前にたどり着いた時に教室のドアから廊下を歩く男性教員を「おっさん!」と呼び付けた。


 年配の男性、おじさんを意味する発音ではなく、〝お〟にアクセントをつけた発音だ。


 おっさんと僕に呼び止められた男性教員は驚いた風に眼鏡越しに目をぎょろりとひん剥いて、


「お、竹久か!」といった。


「こんなところでなにしてんですか?」


「卒業生が出身校に顔を出すのに理由がいるのか?」


「中年のおっさん(おじさんを意味する方の発音)の場合は必要でしょ? 変質者かと思われる……てか、この学校の出身だったんですか」


「俺はまだまだ二十代だ。おっさんではないだろ! それにちゃんと許可を得てからやってきてんだよ」


 言いながら、濡れた革の鞄で僕の頭を一撃軽くたたく。今度改めて暴力教師だということで教育委員会だかなんだかに文句を言ってやることとしよう。


 そんな僕の腕をつんつんと突いて「だれ?」と問う宗像さん。


「あ……この、僕の中二の時の担任。まあ、おっさん(おじさんの発音)って呼べばいいから」


 そこでまたもう一度僕の頭を鞄でたたく。


「今、発音がおかしかった。わざとやっただろ!」


「はん、ばれたか……、改めて紹介。僕の中学の時の担任、奥山先生。科学の教師でカメラヲタク」


「そこまでは言わんでいい」


 ともう一度鞄を振り上げるが、さすがに何度も同じ攻撃を食らうはずもなく、そこはひらりと華麗にかわす。


「なんか仲良さそうだね」


「「どこが!」」


 宗像さんのつぶやきにふたりしてツッコミを入れる。


 中学時代の担任だった教師、奥山先生は皆に「おっさん」と呼ばれ親しまれた教師だった。ちなみにこのあだ名は僕が付けた。奥山の最初の文字の〝お〟に敬称を付けただけなわけだが、当然本人がいないときやイラついた時は皆、中年男性を意味する発音の方で呼ぶ。


 フレンドリーであまり教師らしくなく、職員室嫌いでいつも理科の実験室にいたのは、一説では教師の間でいじめられていたからだという説もある。



「で、なにしに来たわけ?」


「いやな、来年度の受験の説明会なんかの都合もあって今日はここまで来たんだよ。あ、俺、今年三年の担任な」


「それは気の毒に……」


「いや、まったくだよ」


 この教師、仕事がキライなのだ。生活するために教師をしているだけで、熱血だとかそういうものとは縁の遠い存在だ。


「でな、その用事が終わったからこうして思い出の校舎を散策していたわけだ」


 と、部室の中をゆっくりのながめながら歩き、


「この場所も変わらんなあ……」


 と感慨深そうにつぶやく。


「なあ……もしかしておっさんって文芸部……だったんですか?」


「んー、そうだなあ、文芸部ってわけじゃあないなあ」


「じゃあなんでこの場所がそんなに感慨深いんですか?」


「俺がここを使ってた時はな、文芸部は部員不足で廃部してたんだよ」


 ――文芸部って、いつもそうなのかよ……と、心の中で呟く。


「んで、まあ。ここの部室を使ってたってわけだ」


「カメラ部……とか?」


「ん、まあ……秘密だ」


 秘密だと言われればそれ以上は追及しない。別に、興味もない話だ。

おっさんは一通り歩き回ってから、そのあたりの椅子を引いて座りこむ。すかさずそこへ、部長である栞さんがコーヒーを淹れて差し出す。来客用の紙コップに淹れたインスタントのコーヒーだが、そんな姿はやけに彼女らしくなく、まるで気の利く女を演出しているようだった。


「どうぞ、おあついうちに、」


「ああ、どうも。気が利くね……」


 ニコリと眼鏡姿で微笑む彼女に、いい大人のおっさんが一瞬、その姿に見とれたのがわかった。しかし、すぐに我に戻って、照れ隠しにそっぽを向いた。


「それにしても、お前が文芸部だとはなあ……」


「ま、まあね……」


 言い誤魔化しながら、栞さんの方はとてもみられない。今頃どんな顔で僕を見ているのかなんて想像したくもない。


「あ、ねえねえおっさん!」


 と、宗像さん。さすがに順応が高く、所見ですぐにあだ名で声をかける。


「ねね、ユウって昔からあんなにひねくれた本の読み方してたの?」


「いや……そんなこともないんじゃないか? 俺が担任をしていたころのこいつは本

なんてまるで読まなかったからな……。竹久、お前あれだろ、本読み始めたのって三年の時……」


「うるさいだまれ」


 イントネーションを欠いた言葉で言葉を制する。


「まあでもあれだな……ひねくれてたことにはひねくれてたよなあ……」


 そう言いながら、さっきまで宗像さんの読んでいた同人誌『恥じれエロス』の本を見つけて、ぱらぱらとめくる。こんな同人誌、おっさん以外の教師に見つかったら速攻で取り上げられてしまうだろう。


「なあ、太宰治は自殺だと思う? それとも殺されたと思う? 奇しくも今日、六月十三日は太宰治の命日だ。本来、命日とされている桜桃忌は六月十九日だが、これは死体が発見された日と、太宰の誕生日にちなんでつけられた記念日。実際には死亡推定時刻は今日、六月十三日かあるいは十四日だとされている。せっかくだからそんなことを話してみてもいいんじゃないのか?」


「はあ、太宰の命日……ね……」


「なんだ、竹久。不満でもあるのか?」


「いや、別に……」


 ――不満なら……。無くはないかもしれない。六月十三日は太宰の命日というよりは、僕の誕生日でもある。当然誰からもおめでとうなんて言われていないのだけれど、別にそのことに対して文句はない。そもそも僕はここにいる誰かに自分の誕生日なんて教えてなんかない。


 以前に一度、僕の誕生日が太宰の命日と同じことで〝生まれ変わり〟だなんて言われたことがある。太宰嫌いの僕からすれば不名誉なことこの上ない。

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