『走れメロス』2  

 椅子に座り、夢中になって同人漫画を読み始めてしまった彼女。仕方なしに僕は立ち上がり、インスタントのコーヒーを淹れる。


 部室に唯一置かれた家電製品である湯沸かしポットでお湯を沸かし、用意されているそれぞれの専用マグカップにいつものようにコーヒーを淹れる。僕と葵先輩はともかく、宗像さんはここの部員でもないくせに、ちょくちょくと顔をのぞかせるようになるうちに、いつの間にか専用のマグカップと大型のコンデンスミルクのチューブを持ち込んだ。僕と栞さんはきまってブラックコーヒーなのだが、宗像さんはミルクと砂糖の入った甘いコーヒーが好みだ。しかし、この部室には冷蔵庫など無く、したがってミルクもない。そこで彼女はコーヒーにたっぷりのコンデンスミルクを入れて飲むのだ。無論、スティックシュガーと常温で保存のできるコーヒーフレッシュを使えばいいことなのだが、コンデンスミルクのチューブなら一本用意するだけでかさばらなくていいというのはアウトドアの世界、ことさら荷物の量を気にする登山家の間では割と有名なテクニックらしいが、いずれにしても読書家の僕からすれば縁の遠い世界の話だ。


「なあ、宗像さん。いっそのことうちの部に入らないか? 前にも言ったと思うけど、部員の足りていない現状のまま秋になると廃部になって部室を取り上げられてしまうんだ。だから今はひとりでも部員が欲しいわけだよ。なにも毎日来なけりゃいけないってわけでもない。なんなら幽霊部員だっていいわけだからさ」


「でも、今はまだ大丈夫なんでしょ?」


「え?」


「ほら、秋までは自由にここが使えるわけ。もし、それまでに部員がそろわなくてギリギリになったら、その時考えてあげるわ。そしたらきっとアタシはユウにすごいカシができるわけ。与えられたカードは最大限に利用しなくちゃ」


そうして彼女はコーヒーを片手に、再び漫画の世界に没入する。しばらくして漫画を読み終わった宗像さんは得意気に、


「はあ、今作も素晴らしい出来! まさに神作! ねえユウ、これ、あれだよね。太宰治の『走れメロス』のパロディーだよね!」


 と、言われるまでもない当然のことを言った。

 いや、本を読まない彼女からすればそれがわかったということは賞賛するべきことなのか。


「『走れメロス』学校の授業でやったよね!」


 宗像さんのそんな言葉に、ああそうだったと当たり前のことを忘れていた自分が恥ずかしい。


 中学時代の授業でやった『走れメロス』。あれは最悪だったという記憶で、思わず記憶の中から封印しかけていたのだ。


 信じることの大切さと友情の大切さを説いた国語教師の授業の内容は反発を覚えるものばかりだった。しかし、それも致し方ないことだろう。あの教科書の抜粋は、僕からすれば一番大切な部分が切り取られてしまっていたのだから……。


 その点で言えばこの『恥れエロス』という同人漫画は秀逸だと言えるのかもしれない。その、大切な部分が削除されていない原文をもとに描いているからだ。


 僕は、部室に並べられた書架の中から太宰治の走れメロスを抜き取り、宗像さんのところに持って行った。


 そして、少しばかり偉そうに彼女に言う。


「ねえ、宗像さん。走れメロスの結末、最後はどうなったか知ってる?」


「え? たしか……。メロスたちがハグして、王様が改心して終わり……よねえ?」


「そう、たしかに物語はそこで終る……教科書の物語ではね」


 言いながら、宗像さんの向かいの椅子に座り書架からとってきた文庫本のページを開いて机の上におく。


「でも、原文の方はもう少しだけ続きがあるんだ……」



〝ひとりの少女が、緋のマントをメロスにささげた。メロスはまごついた。佳き友は、気を利かせて教えてやった。


「メロス、君は、まっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘さんは、メロスの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ。」


 勇者は、ひどく赤面した。〟



「えっ、なにこれ?」


 宗像さんはひどく赤面した。つい先ほどまで、あられもないBL漫画をケロリとした顔で読んでいたにもかかわらず、いまさらだ。


「原文の方ではメロスは最後、全裸で街中を全力疾走した挙句、セリヌンティウスと殴り合い、そして抱きしめあってるんだ。まあ、さすがにこんな結末を中学の教科書に載せてしまったら、さんざんネタにされるだろからね。わからなくもないんだけど……」


「いや、セリヌンティウス……もっと早く教えてやれよってカンジ? さっきのBL漫画の結末のシーン、これだったんだね。全裸で殴りあってハグしてるっていう……

でもさあ、何で太宰はこんな結末にしちゃったんんだろう?」


「どうだろうね? これは、僕の解釈なんだけど前半、なんだかんだと言い訳をしながらあまり本気で走っていなかったメロスだけど、後半、本気で走り出すと、自分の姿がどんなに不恰好であるかなんて気にしなくなった……ということじゃないかな。まあ、文学の解釈なんてこれと言った正解があるわけでもないし、なにが正解なんて決めつけるものじゃない。だから、そこは勝手に自分なりの解釈をしてしまえばいいんじゃないかな」


 なんとなく、うまく話をまとめてしまおうとした時、栞さんが話の中に割り込んでくる。


「でもさあ、せなちー。太宰治ってモテモテ男だったわけだけど、その実人間的にはかなり厄介なやつだからさ、そういうダメな男に気をつけなきゃダメだよ」と、僕が言いたかったけれども遠慮していた言葉を遠慮もなく言う先輩。「走るメロスに走らない太宰とかね」


「なにそれ?」と、宗像さんが半分興味を示したところで僕はそのエピソードを得意げに語ることにした。


「太宰が熱海に滞在しているあいだ、友人である檀一雄は奥さんに頼まれて太宰のところへ宿代のお金を持って行くんだ。しかし、太宰はそのお金を使って豪遊してしまい、宿代が払えなくなってしまう。そこで『お金を工面してくる』といって檀を人質として太宰はひとり、熱海を離れる」


「あ、メロスと一緒だ」


「でも、ここからが違う。約束の期日になっても太宰は帰ってこない。そこで檀が太宰を捜しに行くと、井伏鱒二と一緒に呑気に将棋を指していたんだ。

 怒る檀に対して太宰は一言。

 ――待つ身がつらいかね、待たせる身がつらいかね

 そう、言ったそうだ……」


「……意味、分かんないね」


「まあ、なんか適当なことを言ってごまかそうとしたんだろ。そんな感じのエピソードに絶えない人だからね、この人は」


「この時のことをもとに、太宰は『走れメロス』を書いたのかな?」


「まあ、『走れメロス』自体はシラーという詩人の『人質』という詩や史実などをモデルにして描かれたものなんだけど、この時のエピソードが内容に大きく影響しているというのは間違いないんじゃないかな。この事件のすぐ後に書いたのが『走れメロス』だったわけだし。


 まあ、このメロスという人物、なにからなににつけても自分勝手でしょうがない。考えなしに城に踏み込んで捕まるわ、勝手に友達を人質にするだとか……


 そのクセ妹の結婚相手にメロスの弟になることを誇りに思えだとか、自らを真の勇者だとかほざく。ダラダラ歩くわ居眠りするわ、なにかにつけて言い訳しながら自分が走らない理由を模索し続けている。『こよいわたしは殺される。殺されるために走るのだ』なんて言うセリフは完全に自分に酔っているとしか思えないよね。まったく、これじゃあ熱海の時の太宰治そのまんまじゃないか。


 あと『走れメロス』の書き出しが〝メロスは怒った〟となっているのに対し、太宰と将棋を指していた井伏鱒二がこの直後に描いた『山椒魚』の書き出しが〝山椒魚はかなしんだ〟となっているのも面白い。


 もしかすると、太宰の師匠でもあった井伏鱒二がその時の気持ちを表したものなのかもしれない」


「まあ、なんにせよ人間失格ってところね」


「まあ、ひどいものだよ、この人は。ここでいちいち説明はしないけど芥川賞事件やら、志賀直哉との喧嘩であったりとかもう、人間として救いようがない……でもさ、なぜだかこの手の人間ってのは才能が秀でていたり、女性にモテたりするもんなんだよね。神様っていうものが不平等だという証拠の一つだ」


 そんな話をしながら、早くも砂糖のいっぱい入った甘いコヒーを飲み終えた宗像さんはおかわりのコーヒーを淹れに席を立つ。かわりに身を乗り出してきた栞さんが、その溢れんばかりの胸を机に乗せてささやきかけてくる。


「ところでさ、たけぴー(栞さんは僕のことをそう呼ぶ)。走れメロスの真犯人は誰だと思う?」


「真犯人? 走れメロスはミステリではないですけど……」


 栞さんは普段、あまり読書はしないと言うが、聞くところによれば推理小説なんかはわりと読んでいるらしかった。身内に、実際私立探偵がいるらしいのだ。しかしその真実は推理小説の中の存在とは程遠いものらしいのだが……。


「つまりね、あーしが言いたいのは、誰がメロスを殺そうとしたのか? ということなんだけどね」


「メロスを殺そうとしたのはディオニス王……でしょ? 他に誰かいる?」


「あーしはね、この物語、裏にうごめく悪意のようなものを感じるんだよ」


「裏にうごめく……たとえば短絡的で、無鉄砲なメロスの性格をよく知ったセリヌンティウスがメロスに王の暗殺を企てさせる……とか? でも、やっぱりそれはありえないな。メロスの性格があんなだからこそ暗殺なんて成功しないというのは誰にだってわかることだし、結果、セリヌンティウスが自分勝手なメロスのせいで殺されかける結果となっている」


「ははは、なるほどね。確かにメロスほどの短絡的な考え方の人間ならば、うまくやれば利用するのは簡単だろうね。でも、一番に注目するところはここだよ」


 葵先輩は机の上に置かれた文庫本を手にとり、ぱらぱらとページをめくる。開かれたのは、三人の盗賊がメロスに襲い掛かるシーンだ。

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