第13話 人間はたった一日で壊れる



「あれ、美波さんじゃ……」



 由香奈の言葉に時久は走っていく生徒の後姿を確認すれば、角を曲がった瞬間に美波の顔が見えた。


 時久は美波を追いかけるように駆けだし、廊下の角を曲がって渡り廊下を走っていく彼女の名を呼ぶ。



「半沢さん!」



 その大声にぴたっと足を止めて美波はゆっくりと振り返る――その表情は不安と怒りでぐちゃぐちゃになっていた。



「あの、半沢さん話を……」


「あんたも、うちが犯人だって言いたいんやろ!」



 怒鳴る美波の覇気に時久は思わず引く。彼女は睨みつけながら「ふざけないでよ!」と叫んだ。時久に追いついた飛鷹と由香奈もその声に固まる、驚いたように。



「うちは何もやってない! 白鳥先輩なんて殺してなんてあらへん!」


「落ち着いてください、半沢さん。私は貴女を犯人など決めつけてはいません」


「うるさい! そう言って疑うんでしょ!」



 美波は不安と怒りで情緒不安定なようで、息を荒げながら声を上げる。とてもじゃないが話を聞ける状態ではないけれど、時久は美波の叫びに耳を傾けた。



「確かにね、確かにうちは白鳥先輩のことが大っ嫌いだった! 贔屓している人間への気持ち悪いぐらいの媚とか、自分勝手なところとかが嫌いだった!」



 裕二に色目を使って贔屓をして媚び、苛立ちは部活の後輩にぶつけて人を見下す。先生や人前では愛想を振りまいて偽り、影ではからかっているような性格を美波は嫌っていた。


 自分の好きな人である裕二を盗られるかもしれないという不安と苛立ちもあったのは事実だと認める。



「だからってうちが殺すって何よ! うちが人を殺すって思ってたってこと!」


「そうは……」


「関係ない人間は黙っててよ! 由香奈さんだって思ってたんでしょ!」


「そ、そんなこと……」


「嘘だっ!」



 声を張り上げて睨む美波の眼力に由香奈は一歩、下がった。美波は血が滲むのではというほどに爪を立てながら両頬を掻く。目をこれでもかと開いて潤む瞳は鋭い。


 追いつめられているのだと時久は感じたけれど、彼女を止められそうにはなかった。何せ、美波は聞く耳を持ってくれないのだ。


 話を聞いてくれ、疑っているわけではないと言葉をかけようとも、美波は「五月蠅い!」の一言で突き放す。



「あんたに何が分かるって言うのよ! 警察に友達に、クラスメイト、後輩、知らない生徒、親にまで疑われる気持ちが!」



 叫ぶ美波はとうとう泣き出した。信じてほしいはずの両親にさえ疑われたことがショックだったようだ。


 それだけでも辛いというのに周囲からの目というのは痛い。ひそひそと陰であることないこと噂されて、友達も離れていく。


 たった一日で誰も味方がいない状況になり、どれほど辛いのか、苦しいのか。彼女の気持ちを考えれば耐え難いものであることは想像ができる。


 けれど、その辛さを苦しさを時久たちは分からない。受けた本人にしかそれは分からないのだから、想像だけできても意味はない。


 美波の精神を安定させるようなことを時久たちはできないのだ。こうやって、人は壊れていくのだろうという様を見ているようで時久は複雑な心境だった。


 助けてあげたいけれど、何もできない無力さというのを嫌というほど味わう。それは飛鷹も由香奈も同じようで、なんと言葉をかけていいのかと悩んでいる。三人の様子に美波は怒りながら笑いだしていた、ほらみろと言ったように。



「みんな、みんな疑ってはるわ! 誰もうちの言葉を信じてくれへんもん! 白鳥先輩をうちは殺してなんてないのに!」



 今、此処で「まだ貴女だと決まったわけではないですよ」と言えば、きっと美波は逆上するのは目に見えていた。


 迂闊なことは言えず、かといって彼女から情報を聞き出したい。冷めた人間だなと時久はそんなことを考えた自分のことを思う。


 美波と話せるのはきっとこれで最後になるのはその様子から分かることだ。彼女はあまり精神が強いほうではないのは、たった一日でこれほどまでの情緒不安定さを見せているのだから。



「何か主張したいことはありますか」



 だから、時久は美波の話を聞くといった姿勢を向けた。彼女は一瞬、黙ったけれど時久を睨んだ。


 あぁ、怒っているなとその眼が訴えているけれど、言ってしまった発言を取り消すことはできないので彼女の言葉を待つ。



「主張したいやって? そんなん、うちが犯人じゃないってことよ!」


「旧校舎にいたんですもんね。昼休みは」


「そうよ! 旧校舎で一人でいたわ! 静かだから演技の練習には丁度ええんよ! 本当は講堂でやりたいけど、白鳥先輩が五月蠅いから、たったそれだけで疑われるの!」



 たったそれだけで、アリバイがないだけで疑われると美波は声を荒げる。アリバイがなければ疑われてしまうのは仕方ないことではあるのだが、彼女はそれが受け入れられないようだ。


 そこを指摘すればまた気が荒れるだろうと時久はそうせずに話を促す。美波は段々と自分が何を言っているのか分かっていない様子だった。



「あぁ、そうだ。滝川さんの時もそうだったわ! 自殺した理由がうちにあるんじゃないかって部員に噂されたわ! その時からみんなうちのことを人殺しができる人間だと思ってたんやね!」



 そうだ、そうに違いないと美波は叫んだ。みんなそうやって思っていたのだと、そうしかないと納得したように。あぁと嗚咽を吐きながら美波は顔を覆ってしゃがみこんだ。


 しくしくと泣き声を上げながら「そう、きっとそうなんや、だから」と呟いている。



「みんな、言うの。よく学校に来れるよなって。行かなかったら余計にあることないこと噂するくせに! だからうちは学校に行くしかないのよ! 否定するために! 疑いを晴らすために!」



 一日でも休めばきっと周囲は噂を立てる。それが嫌で嫌で学校に登校し、少しでも耳に入れば否定するようにしていたようだ。


 確かに噂が立った状態で休めば、さらにあることないこと囁かれるだろう。たった一日でこんなにも広まっているのだから。


 ただ、無理して登校していることが原因で情緒不安定に陥っている。彼女は〝疑いを晴らすこと〟に固執しているようだ。けれど、このまま登校を続けていけば身体にも影響が出てしまう。


 休んでもいいのだと言えたらいいが、今の状況で言っても耳は貸してくれないだろう。



「あの、美波さん……」



 しゃがみこみながら泣く美波が放っておけずに、由香奈が近寄って彼女の肩に手をかけ――振り払われてしまった。


 顔を上げて睨む美波の表情は全てを恨んでいるようだった。びくりと肩を跳ねさせる由香奈に彼女は「同情なんていらへん!」と声を荒らげる。



「あんただって、うちが犯人やと思ってはるくせに! ふざけないでよ! 同情なんていらへんわ!」


「そ、そんなつもりじゃ……」


「五月蠅い! 五月蠅い! 五月蠅い! みんな、みんな、ふざけるな! あんたたちなんて消えてしまえ!」



 美波はそう吐き捨てるように言って立ち上がると、由香奈を突き飛ばして廊下を走っていった。


 その背はなんとも小さく、悲しげで誰も追いかけることができない。美波の背を見送りながら由香奈は辛そうに「ごめんね」と呟いて俯いた。



「由香奈さんは悪くないかと」


「……噂には聞いてたけど、あんなふうなるまで追い詰められてたなんて思ってなくてさ……」



 たった一日で人はこんなにも変わるのだと由香奈は知った。驚いて、悲しくもなって。でも、彼女になんて言葉をかけていいのか分からなかった。


 下手な慰めはきっと美波をもっと傷つけることになる。けれど、放っておけなくて、見ていられなくなった。


 彼女がしゃがみこんで泣く姿を見て、誰かが味方になって傍にいてあげれたらと思って近寄った。でも、もう遅かったのだ。


 美波の心はもう閉じていた。たった、そうたった一日で人は追い詰められて心を閉ざすのだ。



「クラス違うから話しか聞かなかったけど、わたしに何かできたんじゃないかなってさ、思うんだよ……」


「そうかもしれないですが、そうやって考えて思いつめるのはよくないです」



 相手に何かできたかもしれないと考えすぎて心を壊しては元も子もない。時久にそう諭されて由香奈はそれもそうかと頷く。


 知らない仲でないのでそう思ってしまうのは仕方ないことだけれど、考えすぎて自分まで身を崩してはいけないのだ。



「今の彼女はそっとしておくほうが良いかもしれません。何を言っても彼女の情緒を不安定にさせるだけですから」


「そうだね……。でも、無理して学校に来なくてもいいと思うんだよ」



 噂をされたくないから登校すると美波は言っていたけれど、それで心身を壊しては意味がないと由香奈は思ったようだ。


 それはそうかもしれないけれど、一度そういった考えに至ると行動しなければならないと脳が思い込むこともある。それは恐怖や不安からなるものなので、今の彼女を止めるにはそれらを無くす必要がある。


 事件が解決し、身の潔白が証明されなければ落ち着くことはない。時久は「今は見守っていきましょう」と由香奈に声を掛けた。



「心配な気持ちはわかりますが、今は何を言っても逆上させてしまいますから」


「うん……。大丈夫だといいけど……」


「不安はあるよね、確かに……」


「そうですね……。でも、私たちからできることはないと思います」



 下手なことをして相手を追い込むようなことになってはいけないと時久に言われて、由香奈は納得したように頷いて美波が走っていった廊下を見つめた。

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