第5話 第四夜/第五夜ーーエリとリリ
〈茶屋〉の補充作業が一段落したとき、竪琴の調べがふと消えた。
「お客様ですね。今日は薬草茶にします。カモミールを用意してください」
〈ばば様〉の指示通り、〈彼女〉は食材保管庫に向かう。春から夏にかけて土手に咲いているカモミールの花を収穫し、天日乾燥して保存しておいたものをひと掬い、小さな陶器壺に移す。もうひとつの容器からは風味づけの蜂蜜をふたさじ、小さな盃に垂らす。
〈彼女〉が食材保管庫から戻ってきたとき、すでにお客様は〈茶屋〉の中にいた。上品な銀髪をひとまとめにした初老の女性であった。黒褐色の瞳、やや吊り気味の眉、つんと高い鼻が、気が強そうな第一印象を与えている。
「ここはどこなの?」
お客様の声は尖っていた。〈ばば様〉がついつもの口上を述べる。
「ここはお客様の夢の中でございます。どうぞお寛ぎください。お茶もお茶請けも、お客様のお好みのままに」
お客様は苛立たしげに首をふった。
「お茶なんていいわ。リリはどこ?」
「リリさん? どなたでしょうか?」
黒髪少女がにこやかに問い返す。お客様の不機嫌な様子などどこ吹く風だ。
「なにを言っているの。娘よ。わたしは娘に会いに……」
お客様は急に言葉を途切れさせた。
「……思い出せない。リリはあそこに居たのよね、あのアパートに。それで……どうしたんだっけ……」
「ここに来られる前は、娘さんのところにいたのですね」
〈ばば様〉が引き取る。
「そうよ。そう、思い出した。リリが勝手に婚約したから、話しあうためにあの子のアパートに行ったのよ。なのにあの子は居留守を使おうとするから、わたしも怒鳴って、とにかく入れてもらって……それから……」
お客様の勢いがだんだんしぼんできた。
「よく覚えてない。どうしたっけ……」
机に手をついて考えこんでしまったお客様を横目でみながら、黒髪少女が〈彼女〉に目配せした。〈彼女〉は乾燥カモミールと蜂蜜を〈ばば様〉に渡し、そっと〈茶屋〉を出た。
外に出てみれば、川のせせらぎの合間に、すでにべつの匂いがたちこめ始めていた。煙草と生花が混じりあうちぐはぐな匂い。黒髪少女は、太い藤蔓がからみつく松にもたれかかり、曇り空を仰ぎ見ていた。
「なかなか手強いですわね」
〈彼女〉に気づいた黒髪少女が微笑む。〈彼女〉は出てきたばかりの〈茶屋〉の入り口をふりかえった。
「あの方は、夢を見始めるまえはなにをしていたのか、思い出せないふうでした。どこでどのように眠りについたのか覚えていないのでしょうか?」
「自分が眠ってしまったことに気づかないまま、ここに来る方はときどきいますわ」
黒髪少女はあまり気にしていない風だ。
「それより、お願いをしてもよろしくて?」
「もちろん。何でしょうか?」
「あのお客様がいなくなった後、すぐにわたしを呼びにきてください。橋守り小屋にいますので」
「わかりました。しかし……なぜですか?」
「あのお客様の娘さん、リリさんが、わたしの屋敷で休んでいるからですわ」
黒髪少女はなんでもないことのように言ったが、〈彼女〉はおどろいた。〈彼女〉が知る限り、お客様が二人連れで同じ場所に現れることはあるけれど、別々の場所に同時に現れることはまずなかったので。
「一緒にきていたのですか?」
「いいえ。連れ立っていたわけではありませんわ。リリさんが先にわたしの屋敷のすぐそばに現れたのです。ひどく疲れていましたから、〈茶屋〉に案内する前にすこし休ませていたのだけれど、リリさんを案内する前に、お母様が橋のたもとに現れたのですわ」
〈彼女〉は向こう岸の山々に視線を投げた。黒髪少女の家屋敷は山の中腹にあるが、紅葉に見え隠れしているため見分けづらい。
「わたしの屋敷にはお出しできるものがありません。ですから、リリさんをなるべく早く〈茶屋〉で一息つかせてあげたいのです」
〈彼女〉はすこし考えた。
「食糧保管庫からの渡り廊下であれば、お客様の声を聞くことができるでしょう。お客様のお話が終われば、呼びにいきます」
お客様同士がはちあわせるような事態は絶対避けなければならない。〈ばば様〉にきつく言われていることだ。だが、お客様がいなくなったあとにすぐに次のお客様に知らせるのは、問題ないだろう。
*
〈彼女〉が裏から〈茶屋〉の食糧保管庫に近いてすぐ、お客様の硬い声が聞こえてきた。
「娘のことが羨ましくて妬ましくて仕方なかった」
「エリさんはいつからそう感じていたのですか?」
これは〈ばば様〉の声。
聞きそびれてしまったが、お客様はエリと名乗ったらしい。
「最初からです」
高飛車な声。
なにをあたり前のことを、と言わんばかり。
「ここはわたしの夢の中なのでしょう? なのに、だれだか知らないけど、あなたはわたしのことなどなにも知らないのね」
どうやらこのエリというお客様は、自分がなにを言わずとも、〈ばば様〉には言いたいことがわかるはずだと決めつけているらしい。
「それは失礼しました」
「まあ、どうでもいいわ、そんなことは」
今度は、悲劇の主人公めいた声音。
自分のことなど、夢の中だろうとだれもわかってくれるはずがない、と言わんばかり。
「そもそもはわたしの母のせいよ」
「と、いいますと?」」
「わたしの母は厳格な人だった。子どもをバカで浅知恵しかないと決めつけ、言っていることが正しければ言い方などどうでもいいと考えている人だった。食べるもの、着るもの、持ちもの、母はなんでも私の代わりに決めた。成人して家を出て、だんだん自分がなにも決められないことに気づいて、そう育てた母を恨んで……もし子どもをもつなら、絶対、母のような育て方はしないと決めていた」
言葉の奔流の合間に、一息つく気配。
香草茶を飲み下す小さな音。陶器を置く音。
「リリの意思はできるだけ尊重したつもりよ。嫌いな野菜は無理に食べさせなかったし、着るものもあの子が好きなお姫さまものを店で選ばせた。もちろん、人付き合いで苦労しないよう、挨拶とか食事作法はしつけたけど、リリが大人にただ従うだけの子にならないよう、すごく気をつけていた。……でもね」
芝居がかったため息。
「母のようにだけはなるまいと固く決心していたつもりだったけど……わたしは、母と同じ、子どもに言うことを聞かせることを喜ぶ人間だったというわけ」
投げやりな、苦い諦めが滲む声。
「こんなこと、夢じゃないと言えやしない」
また陶器の音。すこし大きい。
〈ばば様〉の足音。お代わりの用意だろうか。
「親からすれば、言うことを聞かない子は、育てにくい子ですからね」
〈ばば様〉の言葉にエリは食いついた。
「そう、そう、そうなのよ! リリには、大人の言うことを聞くばかりのいい子、いえ『都合のいい子』にだけはなってほしくないと願ってきた。だけど……」
急にエリの声が小さくなり、ほとんど聞き取れないほどになる。
「わたしは、言うことを聞かない子を育てるだけの覚悟を持てていなかった。リリが逆らうたび、自由気ままにふるまうたび、わがままを押し通そうとするたび、抑えきれない怒りが湧いたの。身体の中に活火山がある気分だった。ときにはカッと頭が熱くなって思わず怒鳴ったりもした。あとで謝ったけど、もちろん」
母親が情緒不安定であることに敏感に気づいたのだろう。リリはだんだん口数が少なくなり、顔色をうかがうような仕草を見せるようになった、とエリは呟いた。
「そのこともわたしを打ちのめした。あれだけ母の子育てのやり方を嫌悪していたのに、リリからすれば、わたしも、顔色をうかがい、機嫌を取らなければならないような母親なのだと……」
長い沈黙。
陶器がぶつかる音だけが絶えない。
椅子を引く音、お
茶を継ぎ足す音が何度か。
「母親が情緒不安定だなんて。子どもには一番ストレスなのよ。わかっていたのに、わたしは怒ることを我慢できなかった」
また沈黙。
「……一時期、わたしは、リリの母であることをやめようとした」
「それは、どのように?」
しばらくぶりに〈ばば様〉の声が聞こえた。声音には思いやりがあふれ、語りつづけることを勇気づける。
「リリの母だと思うから、リリに言うことを聞かせたくてたまらなくなり、みじめな思いをせずにはいられなくなるの。だから、わたしはリリの教師だ、恩師だ、リリに勉強と礼儀作法と生活の知恵を教えるだけの存在だと、思いこもうとした。いい母親にはなれないかもしれないけれど、いい教師にはなれるかもしれないと思った。でも、うまくいかなくて、もっとみじめで鬱屈しただけだった」
エリは突然言葉をつまらせた。迸る感情に言葉がついていけなくなったかのように。
「だってそうでしょう? わたしは母に認めてもらえたことなんか一度もない。おしゃれな服がほしかったのに、母が全部否定して、中学も高校も母が着るようなおばさん服しか買ってもらえなくて、そのうち服の選び方なんかわからなくなって、いまでも一番無難な着回ししかできない。親に受けとめてもらえたことがないのに、どうして親として子どもを受けとめられるというの? やり方なんかわからないのに! できるわけがない、そんなこと!」
そう気づいたエリは一晩中泣き、翌朝、それまで猛反対していたリリの一人暮らしを許可したという。リリは大学生になっていた。その頃には、エリとリリは仲良しどころか、近所でも有名になるほど喧嘩が絶えない親娘になっていたという。
三たび沈黙が落ちた。しかし、エリは言葉がでなくなったのではなく、なにかを懸命に思い出そうとしている気配がした。
「そう……おかしな夢を見始めたのは、リリが家をでてからだった」
「どんな夢ですか?」
「夢の中ではいつも、わたしの前に人影がある。顔は暗くてわからない。わたしの手には短剣があって、それを人影に突き立てる。心臓があるあたりに」
「それは……確かにおかしな夢ですね」
「おぞましいでしょう? しかも毎日! おちおち眠れませんよ。更年期も重なってすっかり体調をくずしていたときに、リリが婚約したと夫から聞かされた。リリに彼氏がいたなんて聞いたことないし、婚約ならわたしにその男を紹介するのが筋でしょう。なのに夫にしか会わせていないというじゃありませんか。しかも大学の同級生で学生結婚予定! 冗談じゃありませんよ。すぐさま家を出て、リリのアパートに駆けつけたわよ。それでリリとも大喧嘩になって……」
急な沈黙。
「そこまでしか……覚えてない」
食材保管庫への廊下で話を聞いていた〈彼女〉は小首をかしげた。これほどの修羅場の最中にいきなり夢を見始めるなどということがありえるのだろうか? それとも、娘との話しあいが失敗して、失意のあまり一時的に記憶に蓋をしているのだろうか。
「気がついたらここにいたのですか?」
〈ばば様〉の柔らかい声。
「そうよ。橋のたもとに……いいえ、」
エリはすこし口ごもる。
「橋に来る前、また見た。あの夢」
「短剣で影法師を刺す夢ですか?」
「そう」
エリは、一言一句、噛みしめるように口にした。
「あの人影はわたしかもしれない。わたしは、わたしを許せなかったのだと思う」
そして、唐突にエリの気配が消えた。
*
〈彼女〉はさらにしばらく待った。サラの気配がもどらないのを確認し、〈茶屋〉に足を踏み入れる。
テーブルの上には、半分飲んだカモミールのお茶、手つかずの蜂蜜、お茶請けの焼き菓子がそのままにされている。〈ばば様〉はテーブルについたまま、物思いにふけっていたようだが、〈彼女〉の姿を見て微笑んだ。
「あなたがいることには気づいていました。〈物語〉を直接聞くのは初めてですね」
「はい。あの、娘さんのリリさんも来ているのですが、案内してもよろしいですか?」
「もちろん。呼んでください」
「わかりました」
〈彼女〉は外に出た。
空気を満たしていたのは、かぐわしいミルクの香りであった。生まれたての赤子からほのかに広がる香り。これは、サラの記憶の中にある、リリが産まれたころの香りかもしれない、と〈彼女〉は思った。
川にかかる朱塗りの橋に、一歩、足を踏み入れる。
とたんに、ぐらりと足元が揺れるような錯覚が襲う。重みがある、けれど実体がないなにかが、両肩にずっしりと乗せられた気分がする。実際にはありえないのに。
橋を歩くにつれて、心の奥底がざわめく。忘れていた記憶、思い出せない記憶、あえて思い出そうとしない記憶が、記憶を封じる蓋を開けようとうぞうぞざわざわするような。
〈彼女〉はここにくる前のことを覚えていない。いつからこの〈茶屋〉で働き始めたのかもわからない。ふだんは気になることはないけれど、橋を渡るとき、たまたま山に踏み入れるときは、記憶のざわめきが胸の中に起こる。まるで休眠火山が活動を再開しようとするような。
だが、それが形を取る前に〈彼女〉は橋を渡りきり、橋守り小屋についた。
黒髪少女はひとりで橋守り小屋にいた。
「お母様のお話が終わったのですね? ではこれから娘さんをお連れします」
立ち上がる黒髪少女を見つめて、〈彼女〉は言った。
「よろしくお願いします。きっと、お母様に娘さんを会わせなかったことは、とても良かったのだと思います」
黒髪少女の反応を見ることなく、〈彼女〉は踵を返して再度橋を渡った。〈茶屋〉に近づくたびに、心が軽くなり、記憶のざわめきが鎮まるのを感じた。
*
〈ばば様〉に頼まれてカモミールの花と蜂蜜を新しく用意したり、新しい陶器を出したりしているうちに、黒髪少女がお客様を連れてきた。
エリの娘であるリリは金茶色の髪をだらしなく伸ばし、しきりに毛先を指でくるくるもてあそんでいた。黒褐色の瞳には、大学生らしい若さときかん気の強さがきらめく。目元がエリによく似ていた。
黒髪少女にあらかじめなにか聞かされていたのか、リリはくどくど質問せずに席についた。カモミール茶を手づからティーカップに入れ、エリが手をつけなかった蜂蜜を何匙も放りこんでかきまぜ、一気に飲み干す。
「美味しいです、これ。お代わり下さい」
〈彼女〉が新しく淹れたカモミール茶と蜂蜜もあらかた空にして、ようやくリリは満足したようだった。
「夢の中ではものを食べても味がしないといいますけれど、今日の夢は特別ですね」
それで、とリリは〈ばば様〉を流し見た。
「ここは天国ですか? それとも地獄?」
「なぜ、そのように思われるのですか?」
〈ばば様〉が穏やかに問う。
「だってわたし、睡眠薬をものすごくたくさん飲みましたもの。母さんが心臓発作起こして救急車で運ばれて、今夜が峠だなんて言われて、わたしが母さんと大喧嘩したせいだと責められて。やってられなかったから、家に帰って布団被って、残ってた睡眠薬を全部飲んだんです」
リリは急に不安そうになった。
「わたし、まだ死んでませんよね?」
「もちろん。人は生きているときにしか夢をみることができないのですから」
〈ばば様〉が答えた。リリはあからさまに胸をなでおろした表情をした。
「ああ、良かった。教会なんてもう何年もろくに行かなかったけれど、婚約者のすすめで先週行ったんですよ。そのおかげなら、わたしはラッキーでした」
「お母様が心臓発作を起こしたというのは……」
〈彼女〉はつい我慢できずに口を挟んだ。とたんにリリは苛立たしげな表情をした。
「母さんに婚約したことがバレたんです。またぶち壊されたくないから、彼氏ができたことも言わなかったのに」
「ぶち壊されたことがあるのですか?」
「そりゃあもう。高校の頃から、わたしのまわりにすこしでも男の影があると、質問責めですよ。名前は、住所は、ご両親の職業は、本人の将来の目標は、って、もうなんの素行調査かという感じでした。大学でできた彼氏を初めて家に連れていったときも、あれこれ質問責めにして、彼氏の母親が再婚だと聞くや、鬼の首をとったように失礼なことばかり。おかげさまですぐ別れましたよ」
リリはたまっていたものを吐き出すように一気に話して、カモミール茶をがぶ飲みした。
「そんなことがあったすぐあとに、母さんの地元出身でしっかりしたお家のいい男性をみつけたから紹介してあげる、ゆくゆくは結婚して、母さんが手伝える体力があるうちに出産育児を、と、こうですよ。こんなふざけた話あります? もう大喧嘩です。こんな家絶対出てやると心に誓いましたね」
「苦しかったのですね」
穏やかに言ったのは〈ばば様〉だった。その手には深皿があり、櫛形に切った柿が盛られている。リリは皿を一瞥して顔を歪ませた。
「それ、母さんの大好物です。秋の旬の時期にお客がくるといつも出します。彼氏を家に連れ帰ったときもそうでした」
「それはあまりいい思い出ではありませんね。別の果物にしましょうか?」
〈ばば様〉の問いかけに、リリはすこし考え、首をふった。
「いいえ。いただきます。わたしも柿は好きですから」
リリはみずみずしい柿をすこし見つめた。添えられた細い爪楊枝で一つ刺し、ゆっくりとかじる。しゃりしゃりと音が聞こえてきそうな仕草で噛みしめる。
「美味しいです」
リリはしばらく無言で柿を味わった。
「母さんも、こんな柿が大好きでした」
また一口。
「子育てにかまいきりで趣味もほとんどなくしてしまったから、旬の果物を味わうのが数少ない楽しみだと言っていました。とくに柿と桃が大好きでした。桃はいいものは高いからなかなか口に入らないけれど、柿はよく食べていました。干し柿も好きでしたが、歯が弱ってかじるのに苦労するとかで、最近は新鮮な柿ばかり」
また、一口。
「母さんはいつも苦しそうでした」
ぽつりと言葉が落ちる。
リリの口調は諦念漂うもので、二十歳そこそこには似つかわしくないほど大人びていた。
「子育てのやり方をめぐっておばあちゃんと張りあう。幼稚園のときにはおしゃべりの上手さをめぐって友達のママと張りあう。……それだけならまだ良かったんです」
リリは爪楊枝を放り出した。柿はまだ半分以上残っている。
「母の中には理想の娘がいるんです。そこからわたしが外れようとするとすごく怒るの。母はそれをしつけだと思いこんでいました」
リリの口調に熱がこもる。
「母は理想の娘を育てたかったんです。母のやり方で育てれば、母自身以上に幸せな、理想の娘ができあがると決めつけていました。たぶん、そうすることで、おばあちゃんの子育てがいかにまちがいだらけであったか、証明しようとしたんです」
リリの口調はほとんど熱に浮かされたようになり、どんどん早口になった。
「しかも母は、わたしが母のやり方を有難がっているに違いない、と思いこんでいました。母自身よりもこんなに幸せに自由に育てた、だからわたしは恵まれている、というわけです。自分はおばあちゃんと言い争いばかりしているくせに、わたしには親を有り難がれだなんて。笑ってしまいますよね」
リリの手がだんっ、と机をたたく。
「母はいつも不機嫌そうでした。わたしがなにかするたびに文句言われました。わたしがお人形のように動かないのが母の理想ではないかと思えたほどです。動かなければなにもやらかしようがありませんので」
リリの口元が蔑むように歪む。
「同じことをしても、母の機嫌が良いときにはなにも言われなくて、機嫌が悪いときには叱りつけられました。そういうことが続くと、母の小言を聞くこともばかばかしくなります。自分は機嫌次第で言うことがちがうのに、どの面下げてわたしにこれは良いこれはダメと言うのでしょう」
もう耐えられない。
そう思ったのは、ひどい夢を見るようになったから。
「夢の中ではいつも、わたしの前に人影がある。顔は暗くてわからない。わたしの手には短剣があって、それを人影に突き立てるの。心臓があるあたりに」
リリは、一言一句、噛みしめるように口にした。
「あの人影はきっと母でした。わたしは、母のことを思い浮かべていたのだと思います。……ああ、でも」
リリの両眼が異様な輝きを帯びる。
「でも、間違いだったのかもしれません。わたしは、わたし自身に短剣を刺すべきでした。わたしは母のご自慢の作品でしたから。今、わかりました。わたしにできる最大の復讐は、母が丹精こめた、わたしという作品を壊すことだったんです」
夢の紅橋 @Red_Coral
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