第19話:独りよがりの善意(5)
その瞬間、甲高い悲鳴が響き、アポロは振り返った。そこには、目玉にカッターナイフを突き立てられたファニーがふるふると体を震わせていた。ダニーは粘液の中から這い出して、アポロとリップを睨んでいる。
「ファニー!」
アポロが彼に駆け寄ろうとしたとき、再び重力の支配が彼らを襲った。その力は先ほどの比ではなく、本気で彼らを押しつぶそうとしていた。
ダニーは二人の間を悠々と歩き、道路に横たわるサラの背中を腕で支えて起き上がらせた。ダニーの鋭い笑みが薄闇の中で際立ち、サラを人質にした彼の手がさらに強く彼女を引き寄せる。ダニーには、もう現実は見えていなかった。その目は恍惚として彼女を見つめていた。
「愛には試練がつきものだ。でも、これでようやく一緒になれる。」
彼は低く囁くように告げた。カッターナイフがサラの首元に食い込み、皮膚を切り裂いていく。彼女の白いシャツが赤く染められていく。
リップは悔しさに唇をかみ締め、身動きひとつ取れないまま重力に縛られている。アポロもまた、必死にその力から抜け出そうとするが、重力が全身にかかっているせいで動けず、額に汗が滲んでいる。焦る心の中で、彼はふと一抹の冷静さを取り戻し、状況を分析しようとした。
「僕もすぐに行くから、待っててね。」
二人は、慈愛と狂気に満ちたその声を聞くだけで全身が総毛だつようだった。リップは全身の力を振り絞り、義手に覆われた左腕を伸ばした。「なめるんじゃないわよ。」と囁くと同時に、リップは手に持った麻痺毒の針をダニーの首に打ち込んだ。その刹那、ダニーの体が一瞬硬直し、その視線が揺らめく。何が起こったのか理解できぬまま、彼の体は力なく崩れ落ち、二人は重力から解放された。
その隙を逃さず、リップが素早く行動に移る。その眼には狩人のような光が宿っていた。まるで今こそが決戦の瞬間だと悟ったかのように、彼女はゆっくりと呼吸を整え、冷静に狙いを定めた。全神経を集中させて「これで終わりよ。」と囁くと同時に、リップは手に持った鋭い針をダニーの胸に打ち込んだ。
夕闇に沈んだビルの陰にはただ荒い息遣いだけが残り、アポロとリップは静かに視線を交わす。言葉はなかったが、二人の間には確かな信頼が存在していた。
アポロに優しく抱き上げられたファニーは彼の腕に軽く巻きついたまま、小さく身体を寄せている。その姿はまるで、彼もまたこの瞬間の勝利に安堵と満足を感じているかのようだった。リップはふと息をつき、その光景を見て笑みを浮かべていた。
そこへ、イーサンとシャンスが駆けつけた。二人は警備員の制服に身を包み、顔には顔には薄く埃がついている。
イーサンの視線は自然とダニーへと向けられる。その痙攣する姿を一瞥すると、彼は静かに頷き、「よくやったな。」と二人を称賛した。彼の声には深い信頼と温かみがこもっており、リップの顔にはわずかに安堵の色が浮かんだが、すぐにそっけない表情に戻った。だがその口元には、かすかな誇りが滲んでいるのをアポロは見逃さなかった。
「……まあね。」とリップはふっと肩をすくめて言った。アポロの腕に軽く巻きついたファニーが、無邪気に小さな体を寄せると、アポロは思わず微笑んでその小さな存在を撫でた。
その時、空気を裂くような爆発音が街を揺るがし、鋭い閃光が走った。その強烈な光に、アポロは思わず瞼を強く閉じ、耳に手を当てる。だが次に目を開けた時、ふと空が暗くなった。見上げると、ビルの上に巨大な影が揺れ動いているのが見えた。爆発の衝撃で支えを失った広告看板が、ゆっくりと傾き、今にも崩れ落ちようとしていた。その圧倒的な存在感が、重く薄暗い空に不気味な威圧感を漂わせている。
接続部がきしむ音が空気を引き裂き、やがて金属がもげる音が響いた。その巨大な影は、薄暗い空に放たれた無数の火花のようなガラス片を引き連れて、アポロたちめがけて落下した。
「逃げなきゃ……」と思うものの、アポロの体は硬直し、動かない。背筋を冷や汗が伝い、心の中で何度も「動け、早く!」と自分を叱咤するが、足はその場に張り付いたように重く、反応しない。時間がゆっくりと引き延ばされたように、看板の影がますます大きく、まるで彼らの命を抉り取るような迫力で視界を埋め尽くす。
その瞬間、アポロたちの周囲をまばゆい光が取り囲み、耳を突き裂くような轟音だけが響いた。気がつけば、巨大な看板が地面に落ち、数メートル先で激しい破片を撒き散らして砕け散っていた。周囲には瓦礫の山と破壊の爪痕が広がり、かすかな煙が空を覆っている。
アポロは荒い呼吸を繰り返しながら、その場に立ち尽くした。心臓は未だに激しく鳴り響き、額には冷や汗が伝っている。周りを見渡すと、シャンスやリップも同様に言葉を失い、呆然とした表情を浮かべていた。互いに目が合うが、誰一人として口を開けない。無言の中、イーサンだけが冷静さを保ち、その場に倒れているダニーへと歩み寄っていく。その背中には、ただ一人で場を制するような強い決意が感じられた。
イーサンは毒で痙攣するダニーに手をかざすと、まばゆい光が彼を包んだ。彼の痙攣は鎮まり、ぐったりと体を地面に投げ出す。次の瞬間、光は拘束具となって彼の体の自由を奪う。目隠しをされ、口輪をされ、拘束服で体の自由を奪われたダニーに、もはや抵抗する術はなかった。
イーサンは通信機を取り出し、リカルドへの連絡を始めた。
「ダニーの身柄確保した。速やかに収容の手配を頼む。」
イーサンの落ち着いた声が響くと、周囲を漂う空気は緊張の糸が解けたように静まり返り、日常が戻ったことを告げた。
リップはふとアポロの方を見つめた。アポロはファニーをあたたかい光で包み込み、ファニーはほっとした様子で彼を見つめている。
「まあ、あんたも少しはマトモになってきたんじゃない?」
風にかき消されてしまうようなかすかな声で響いたリップの言葉に、アポロは少し驚いた表情で彼女を見つめた。彼にとって、このリップの一言は何にも勝る褒め言葉だったからだ。
「ありがとう、リップ」と小さく返すと、リップは黙ってそっぽを向いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます