第20話:忍び寄る足音
夜の帳がリトルガーデンの街を穏やかに包み込む中、リカルドは一瞬空を仰いだ。遠くで微かに聞こえる車のエンジン音と、街灯の下で囁き合う恋人たちの笑い声が、夜の静けさを彩っていた。リカルドは煌びやかな光が漏れ出る高級会員制バーの前に立つと、ゆっくりとドアを押し開けた。
木の温もりを感じさせる上質な内装に、控えめなジャズの旋律が柔らかく響く。トランペットの澄んだ音色が、心地よい沈黙に溶け込んでいる。店内には落ち着きのある紳士や淑女が散在し、それぞれが静かにグラスを傾けながら会話を楽しんでいた。控えめながらも華やかな照明が、磨き抜かれた木目のテーブルや壁の装飾に柔らかな影を落とし、空間全体に穏やかな高級感を醸し出している。
その一角、ボックス席には二人の壮年男性が腰を下ろしていた。一人は警察官のブルーノ、もう一人は麻薬取締局局長のルカだ。二人は穏やかにグラスを傾けているが、ふとした仕草に漂う鋭さが、彼らが数多の修羅場を潜り抜けてきた猛者であることを物語っていた。
リカルドが席に着くと、ブルーノがすかさず口火を切った。
「お手柄だな、リカルド。」
その声には、長年の友情と共に隠しきれない敬意が滲んでいる。ブルーノがウイスキーグラスを傾けると、琥珀色の液体が氷を静かに撫で、軽やかな音を立てた。
リカルドは軽く肩をすくめ、席に深く腰を落とす。彼の唇には控えめな微笑が浮かび、その表情にはどこか自信と余裕が見え隠れしていた。
「うちには優秀な社員が揃ってるからね。当然さ。」
その言葉の裏に隠された誇らしさを感じ取ったのか、ブルーノはわずかに口元を緩めた。
「で、あいつはどうだ?」
ブルーノの「あいつ」という言葉が指し示しているのは、例の記憶を失った青年のことだ。彼は、過去にブルーノがその命を救い、リカルドと共に支え続けてきた息子のような存在だった。しかし、彼が独り立ちして以来、二人の間には言葉にできない距離が生じている。
リカルドはウイスキーを一口飲むと、わずかに意地悪な微笑を浮かべて応じた。
「直接聞いたらいいじゃないか。」
その軽口に、ブルーノの眉が一瞬だけ動く。むっとした表情を見せた彼は、無言で煙草を取り出し、手元のライターを弄り始めた。しかし、安物のライターは火花を散らすばかりで、思うように点火しない。
「いい大人なんだから、少しは恰好のつくライターくらい使ったら?」
「いい。どうせ消耗品だ。」
リカルドは呆れたような微笑を浮かべながら、懐から重厚な真鍮製のライターを取り出し、ブルーノの煙草に火をつけた。煙草の煙が細く立ち上り、店内の柔らかな光に溶けていく。
「アポロはすごいよ。」
リカルドが語り始めると、その声にはどこか父親のような温かさが滲んでいた。
「まだ働き始めて間もないのに、もう2つの事件を解決してる。それに、仲間たちの信頼も得て、チームの士気も上がってるみたいだ。」
ブルーノの手が止まる。煙草の先から微かに立ち昇る煙が、彼の視線を曇らせた。リカルドの言葉が、過去の記憶を鮮明に呼び起こしたのだ。
ブルーノがアポロを見つけたあの日、彼は真夜中の広場の真ん中で激しく傷つき倒れていた。目を覚ました彼は生まれたままのように無垢で、記憶を失っているにもかかわらず必死に前を向こうと必死だった。
その眼差しは、ブルーノが忘れかけていた情熱を蘇らせた。そんな彼が、ようやく自分たちの手を離れ、本当の自分を見つけようとしている。ブルーノはそんな彼の成長を見届けたいと願いつつも、彼にこれ以上付きまとうことをためらっていた。
「そうか……」
その言葉には、喜びと寂しさが入り混じっている。リカルドは微笑を崩さず、ウイスキーを傾けた。
「連絡先、交換してるんでしょ。ご飯にでも連れて行ってあげたら?」
ブルーノは答えず、静かにグラスを口に運ぶ。視線を落としたまま、琥珀色の液体をじっと見つめていた。夜の空気に溶けるようなジャズの調べが、二人の間に漂う静寂を一層深めた。
ルカが口元に薄い笑みを浮かべ、軽やかに言った。
「何?またブルーノのお節介の話?」
その軽口に、ブルーノの眉間にわずかな皺が寄る。「ほっとけ。」と短く吐き捨てるように言いながら、視線を窓の外へとそらした。その無骨な態度には微かな照れが滲み、普段の威厳ある姿が一瞬ほころぶ。だがその隙間から見える人間味こそ、彼の愛すべきところであることを、リカルドとルカは知っていた。
リカルドは薄く目を細め、ルカを静かに見つめた。空気を変えるように、深く落ち着いた声で切り出す。
「そうだ。今日は例の件の報告だったね。」
磨き上げられた木製のテーブルに数枚の資料が無造作に置かれた。リカルドはその中の一枚に指を伸ばし、写真を軽く叩くように示す。
「前に見せてくれたものと一致するね?」
ルカの目が写真へと吸い寄せられる。そこに写っていたのは、黒い紙巻きたばこだった。表面に刻まれた三日月のマークが、異様な存在感を放っていた。
「これ……」
息を飲みながら、ルカは写真を手に取り、じっと見つめる。その瞳が鋭く光を帯び、軽薄な態度が霧散するように消え去る。代わりに現れたのは、深い集中と真実を探求する鋭い視線だった。
「間違いない。」
ルカは短く言い切り、再び写真に視線を落とした。リカルドはその様子を見守りながら、冷静に言葉を紡ぐ。
「これを持っていたのは、ごく普通の男だった。日々の仕事をこなし、家に帰れば家族が待っている……そんな平凡な暮らしをしていた男だ。」
彼の低い声には、抑えきれない哀れみの色が滲んでいる。テーブルに置かれた写真が、その男の日常を壊し始めた暗い予兆を語っているかのようだった。
ブルーノは、無言のまま耳を傾ける。その表情は硬く、言葉以上に深い思いが見え隠れしている。平凡な生活を送るはずの男が、いつの間にか危険な地下組織の手に絡め取られていく様は、警察官として数々の悲劇を目の当たりにしてきた彼の心を締めつけた。
リカルドは写真に視線を落とし、話を続けた。
「彼の奥さんが、夫の様子がおかしいと僕の事務所に相談に来てね。それで調べてみたら、これを持っているのがわかったんだ。」
ルカはじっと写真を見つめながら、低い声で訊ねた。
「それで、彼はこれをどこで手に入れた?」
リカルドは一瞬考え込むように目を伏せたが、すぐに顔を上げた。
「最初は行きつけのバーで飲み友達にもらったらしい。それから定期的に、特定の取引場所に通っていたようだ。」
その言葉に、ルカの眉がさらに深く寄せられる。三日月のマークが刻まれた黒い紙巻きたばこの噂は、一度手を出せば抜け出せない幻の代物として、まことしやかに囁かれていた。しかし、その幻の逸品は、このリトルガーデンで堅実に生きていた一人の人生を実際に狂わせていたのだ。
ブルーノは煙草を吸い込むと、深い溜め息をつきながら灰皿にゆっくりと灰を落とした。部屋の中に漂う煙が、どこか重苦しい空気を一層引き立てる。
「困ったことに、これを解析に回したけど、薬物反応は出なかった。普通の薬物ではないね。」
ルカが写真をテーブルに戻しながら言った。その声は冷静だが、微かに苛立ちが混じっている。
リカルドは軽く頷き、低い声で続けた。
「まだ確証はないが……おそらく、ブラックパレードは実在する。」
その言葉に、ルカの目が一瞬見開かれる。
「やっぱり君に頼るしかないんだな、リカルド。」
彼の声には、信頼とともに隠しきれない疲労の色が滲んでいた。
リカルドは短く息を吸い、「任せておけ。」と力強く答えた。その目の奥には確固たる決意が宿っている。
場の緊張がわずかに和らいだその瞬間、リカルドがブルーノに視線を向け、さらに低い声で切り出した。
「それともう一つ……アデーレさんがブラックパレードにいる可能性がある。」
その一言が、ブルーノの心に深く突き刺さった。彼の手が震え、持っていた煙草が静かに落ちる。それを拾い上げようとする動作も、どこかぎこちない。
「そうか……」
かすれた声でつぶやくブルーノの顔には、抑えきれない後悔と喪失感が浮かんでいた。守りたかったものを失った苦しみが、今もなお彼を締めつけている。
リカルドは彼を静かに見つめ、短く言葉を添えた。
「きっとまだ間に合う。僕も全力で探すよ。」
その言葉に、ブルーノの目に微かな光が宿った。「頼んだ。」と呟く声は低くても、確かな信頼が込められていた。
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