第18話:独りよがりの善意(4)

午後の訓練を終えたシャンスとアポロは、西日の差し込むリビングで肩を並べ、卓上のスナック菓子を摘みながらテレビを眺めていた。それは心地よく平和なひとときで、二人は偶然選局されていた情報バラエティ番組を観ていた。シャンスは肩をほぐしながら、アポロの顔をちらりと見やり、くつろいだ様子で笑う。


「訓練の後のお菓子ってさ、なんでこんなにうまいんだろうな。」


シャンスが菓子袋を軽く振り、アポロも「なんでだろ。」と微笑みながらスナック菓子を一口かじる。


テレビでは深刻な表情のニュースキャスターが、「依然として脱獄犯の行方が掴めていません。情報提供をお待ちしています。」と呼びかけている。そこには四人の男たちの顔写真が公開されている。その中には、先日遭遇したアガタの顔もあった。


「まだ捕まってないんだ。」


「この前の一件から察するに、警察の力だけじゃ難しいのかもな。」


二人は画面を見つめながら、彼らが出会った時のことを思い出していた。アガタを取り囲んでいたガラの悪い男たちは、何か特別な力を持っていた。その当時のアポロは、彼らに対してなすすべもなく追い詰められていった。


「つまり、俺たちの出番ってこと?」


「そう。まあ、実際に動くとなれば、ボスから指示があるだろ。」


そう言って、シャンスはスナック菓子をまた一口かじった。


その時、ニュースキャスターが「ここで速報です。現場と中継が繋がっています。」と告げ、テレビ画面が突然切り替わった。画面には、緊迫したファッションショー会場であるホールが映し出されていた。ニュースキャスターが呼びかけると、会場の前でマイクを握りしめるアナウンサーが緊迫した現場の状況を伝えている。


「速報です。新人デザイナーファッション大賞が行われているマーブルシティの会場の一部が崩壊した模様です。出入口が瓦礫で塞がってしまったようで、多くの人たちが中に閉じ込められています。現在、現場に急行している救護隊が対処に当たっていますが、会場内の安否や被害の全貌は未だ不明です。」


アナウンサーの声が流れ、二人はじっとその場に釘付けになる。アポロは一瞬にして体が硬直し、背筋が伸びるのを感じた。シャンスもそれを察したのか、瞬時に表情を引き締めた。


アポロの胸に緊張が走り、彼の指先が揺れた。彼の心の中で真っ先に浮かんだのはリップの顔だった。動揺が隠せないアポロは、脳内でファッションショー会場での惨事を思い描き、彼女の無事を祈った。


「行かなきゃ……」


アポロは立ち上がり、揺れる目でシャンスを見つめる。


「待てよ、アポロ。」


シャンスはその肩を掴んで引き止めた。その手には冷静さがあり、声には何かを確かめるような落ち着きがあった。


「もう救急隊が動いてるんだ。俺たちが行ったところでできることなんかない。」


シャンスの言葉は冷静だったが、それだけにアポロの心はかえって騒ぎ出した。シャンスの理屈はわかる。だが、それでも自分の中でリップのもとに駆け付けたいという想いが止まらない。彼女が無事である保証がない以上、ここにじっとしていることが、どうしても正しいとは思えなかった。


「でも……俺のせいなんだ……」


アポロは言葉を詰まらせた後、覚悟を決めたように続けた。


「リップがそこにいるかもしれないんだ。もし、彼女が巻き込まれてたら……」


シャンスはその言葉を聞いて、少し黙り込んだ。軽々しくアポロの気持ちを否定することができないと感じたのだろう。アポロはその胸中にある葛藤を隠そうともせず、やがて深く息を吐き、「止めないで。」とシャンスをまっすぐ見つめた。その言葉を受け取ったシャンスはしばらく沈黙したが、やがてゆっくりと頷き、決断を固めたように見えた。


「わかった、ボスに相談してみる。だが、今は待つんだ。上の判断なしで突っ走るのは危険だからな。」


シャンスはアポロの肩を軽く叩き、冷静さを保って伝えた。


アポロはシャンスに一縷の希望を託し、目を伏せて頷いた。シャンスがイーサンのオフィスに向かった後も、胸の奥の不安と焦燥はすぐに消えることなく、彼の全身を駆け巡っている。そのまま待つようにシャンスは言ったが、リップの無事をただ祈ることしかできないのは、あまりにも苦しかった。震える指先でスマートフォンを取り出し、何度もリップにメッセージを送ったが、画面には何の反応も返ってこない。


やがて、彼の目に決意が宿った。部屋のドアの前に立つと、アポロは大きく息を吐いて顔を引き締めた。


「シャンス、ごめん。」


いてもたってもいられない気持ちに駆られたアポロは、すぐさま会場に向かうことにした。ファニーはただならぬその気配を感じ取ったのか、静かに彼のパーカーのフードに飛び込んだ。胸の内に渦巻く不安と焦燥、そしてリップへの想いが、彼の足を加速させる。きっとまた、自分は余計なことをしてしまったのだろうという途方もない罪悪感を抱きながら、アポロは光の中に飲まれていった。


ビル街を駆け抜け、やがてファッションショーの会場まで辿り着くと、周囲にはすでに多くの野次馬が集まっていた。現場には規制線が張られ、辺りには救急車の赤いランプがちらついている。


「頼む、無事でいてくれ……」


心から漏れる気持ちを小さな声で呟きながら、アポロは群衆をかき分け、リップを探すために必死に進んだ。


——————————


天井や照明機材が崩れ落ちた会場の空気は、悲鳴とざわめきに満ちていた。煌びやかな舞台は一転、破壊の爪痕を残す瓦礫の山と化し、目の前でパニックに陥る群衆が混沌とした渦を描いていた。会場スタッフが冷静な避難を呼びかけるが、その声は恐怖に駆られた観客たちにかき消されるように届かない。リップはその場の異様な状況に動揺しながらも、即座に心を切り替え、混乱する人々の間をかいくぐって、先ほどまで登壇していたサラを探し始めた。彼女の無事を確かめたい、その思いだけがリップを突き動かし、周囲の混乱をも押しのけて彼女を前進させた。


やがて、会場の隅で人影を見つけた。サラはぐったりとした様子で、細身の男の腕に抱えられていた。男は彼女をしっかりと抱きかかえ、何かに憑りつかれたような静かな狂気を宿した目で周囲を見渡すと、無言のまま会場の外へと消え去っていく。リップは咄嗟に彼女の名前を叫んだが、周囲の喧騒がそれをかき消した。鼓動が一気に速まり、全身に冷たい汗がにじむ。人の波に逆らいながら、リップはその細身の男を追った。


男は階段を駆け上り、屋上へと向かっていた。リップも先日の任務の影響で痛む体をかばいながら、全力で彼の背中を追う。ようやくたどり着いた屋上の出口を押し開けると、強風が彼女の体を突き飛ばすように吹き付ける。屋上の端には、フェンスを越えて立つ男と、その腕に抱かれたままのサラの姿があった。リップの口は思わず叫んだ。


「サラ!」


男がゆっくりと振り返り、彼女を抱えた腕に力を込めて、静かに頬を寄せる。傾きかけた日差しの中で見えた彼の顔には深い影が落ち、どこか歪んだ陶酔の表情が浮かんでいる。彼はリップに視線を投げかけ、抑揚のない声で「邪魔するな。」と一言だけ低く言い放った。


その瞬間、リップの体が急激に重みを帯び、まるで地面に縫い付けられるかのように膝をついた。リップは自分の迂闊さを後悔した。そして、今までの経験から瞬時に状況を察する。男は超能力者だ。そして、彼の超能力がリップを圧し掛かり、彼女の動きを封じているのだ。リップは痛みに歯を食いしばる。先日の任務で受けた傷が悲鳴を上げるのを感じる。骨が軋み、全身に激痛が走るが、それでもリップは必死に顔を上げ、遠ざかるサラに手を伸ばす。しかし、その手は無情にも届かず、指先はただ虚空を掻くに留まる。


男はリップを一瞥し、愉悦を漂わせた穏やかな声で囁くように言った。


「サラ、二人きりの世界に行こう。誰にも邪魔されない場所で、一緒になろう……」


まるで夢見るような口調で、彼はサラを抱えたまま高層ビルの縁に立つ。次の瞬間、二人の姿は宙に舞った。


「サラアァァ!」


リップの絶叫が屋上にこだまする。彼女の心は引き裂かれ、全身から力が抜けていく。自分の無力さに押しつぶされそうになり、崩れ落ちる寸前でようやく重力から解放される。男の能力が消え、リップはすぐに体を起こすと、必死に屋上のフェンスに駆け寄った。


恐る恐る下を覗き込むと、そこには予想だにしない光景が広がっていた。ぶよぶよとした青い液体が二人を包み込み、地面に引き寄せたのだ。液体はぷるんと衝撃を吸収し、するすると二人から離れていく。液体はひとりの青年のもとにゆっくりと戻っていく。そこにいたのはアポロとファニーだった。


「アポロ!彼女を保護して!」


屋上から叫んだリップの声にアポロは顔を上げ、すぐさま男からサラを引きはがした。アポロはサラを抱きかかえ、少し離れたところに彼女を寝かせていた。そして、よろよろと立ち上がった細身の男と向き合っている。男の顔には驚きと動揺が浮かび、それがやがて憎悪に変わっていく様子が遠目にも分かる。リップは胸の中に込み上げる安堵と焦燥に突き動かされながら、全速力でアポロのもとに向かった。


呼吸を乱しながら、リップはようやくアポロの立つ現場にたどり着いた。彼はサラをかばう様に男の前に立ちふさがり、男と睨み合っている。アポロは息を荒らげているリップに気づき、彼女に向けて「遅れてごめん。」と気弱な笑みを浮かべた。その瞳には、リップを安心させる慈しみが込められている。


リップの心の奥底で、暗闇に火が灯るような温もりが広がる。だが、そんな気持ちを悟られるのは悔しかった。だからこそ、リップは唇をきつく噛み締め、いつもの調子で「遅いわよ。」と言い放った。しかし、アポロはその言葉を聞いても穏やかにほほ笑んでいた。


そして、リップはすぐさまサラを見つめ続ける男に怒りを湛えた視線を向けた。


「あんた、何考えてんのよ……!」


リップは低く呟き、男に一歩ずつ近づいた。男はまるで亡霊のような虚ろな目でリップに視線を移し、薄笑いを浮かべる。


「よくも邪魔したな。今日は僕と彼女の特別な日になるはずだったのに。」


その呟きが不気味に響くと同時に、彼は再び能力を行使し、空気が圧縮されるかのような感覚がリップとアポロを包み込む。二人は大勢を崩されるが、男に向けた鋭い視線はそのままだった。


「あなた、自分が何をしたかわかっているんですか?」と、アポロは毅然と言い放った。その声は静かでありながらも力強かったが、男の心には何も響かないようだった。男は不快感をあらわにし、アポロの前に立ちふさがる。


「これは僕の問題なんだ。他人が口を挟むな。」


男は吐き捨てるようにそう言うと、アポロに歩み寄り、彼の頭に手を乗せて、さらに上から押し潰した。アポロにかかる重力がさらに強まり、アポロは地面に伏す。その瞬間、彼の服のフードからファニーが転がり出し、男の首を絞めた。


「ぐっ……!」


男が怯んだ時、重力の支配が解けた。その隙を見逃さず、アポロは弾かれたように立ち上がって男を押し倒し、リップはサラを守るために彼女に駆け寄った。彼女の脈を確かめ、そっとその頭を撫でると、サラはわずかに目を開けた。


「マオ……?」


サラの安堵する表情を見たリップの胸には、僅かな安心が広がった。リップは「すぐ終わらせるからね。」と彼女の手を握ってほほ笑み、再び男と対峙した。そして、彼の狂気に満ちた目から視線を逸らさずに言い放つ。


「あんたにサラの人生は奪わせない。そんなのあたしが許さない。」


リップの覚悟がその場の空気を一変させた。しかし、彼の表情には制御できないほどの憎悪が滲み、深い闇を宿したその瞳はリップを捉えている。


アポロは無音のような静寂を纏い、男の胸に腕を押し当てて体重をかける。男はじたばたしてそれを振り払おうとするが、「ぐっ……!」と呻くばかりで、どうすることもできない。


「さすがに、今の状態で俺を重くすることはできないみたいですね。」


アポロの言うとおりだった。ここで彼を重くすれば、彼自身の体が押しつぶされ、状況は悪化してしまう。男は「お前らなんなんだよ!」と苛立ちを隠せずに長い爪でアポロの腕を引っ搔く。しかし、アポロは少しも怯まず、彼から視線をそらさなかった。ふと、アポロは彼の顔に見覚えがあることに気が付いた。それは、先ほど報道番組で見た脱獄犯のうちの一人、ダニー・ダイアーだった。


「ファニー、頼む!」


アポロの呼びかけに、ファニーはぷるんと震えて応えた。ファニーはアポロごとダニーを飲み込むと、器用にアポロだけを吐き出して彼を拘束した。


その時、無線機のイヤホンに怒号が飛び込んできた。


「アポロ!今どこだ!」


それはシャンスの声だった。その声にはいつになく熱がこもっており、アポロは彼の剣幕にたじろいだ。


「ごめん。居ても立っても居られなくて。」


「帰ったらお説教だからな。それで、今の状況は?」


「敵を拘束したところ。相手は超能力者を使ってた。たぶん、脱獄犯の一人だよ。」


「何だって?そしたら、俺も今から向かう。場所は?」


「マーブルシティの大型複合施設の前。ファッションショーの会場の裏側の路地だよ。」


「わかった。油断するなよ。」


「了解。」


冷静なその声が耳に届くたび、リップの中にあった焦燥がすっと和らいでいくのを感じた。初めて会った時とは別人のようなアポロの姿を見て、今は自分一人ではないという心強さが胸の中で燈るのだ。


アポロは身をよじってファニーから逃れようとするダニーを一瞥し、ゆっくりとリップの方に歩み寄る。


「な、なによ……」


リップは思わず後ずさりするが、アポロは彼女の手を優しく握った。アポロの手はあたたかく、柔らかな光が宿っている。それはリップの腕を伝って彼女の体中に広がっていく。傷ついた体がほのかにあたたかくなり、痛みが引いていく。


「この前はごめん。俺、絶対役に立てるようになる。約束する。」


そう言ってリップの顔を見つめたアポロの顔は穏やかで自信に満ちていた。リップはその表情を見て、彼が変わったことを認めざるを得なかった。

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