第17話:独りよがりの善意(3)
翌朝、リップはそわそわとした足取りでレイアの部屋のドアを軽くノックした。レイアの「どうぞ。」という声が聞こえると、リップは深く息を吸い込み、ドアを開けた。いつもはタフでぶっきらぼうな彼女が、今日は何かが違う。
「レイア、相談があるんだけど。」
そう呟くリップは、いつになくしおらしく、年相応の少女のあどけなさがあった。レイアは「なあに?」と穏やかな声で首を傾げた。
数分後、リップは清楚な白のワンピースに身を包んでいた。そのシルエットは洗練された大人の女性を思わせる。緊張からか自然と背筋が伸びているリップは、レイアに対して少し恥ずかしそうに目を伏せた。
レイアは微笑み、リップの肩から裾まで視線を滑らせて「よく似合ってるわ、リップ。」と言いながら、優しく裾を整えた。その手つきに、母親が娘を見守るような深い愛情が感じられる。
「……なんか、落ち着かないな。」
リップがつぶやく。
「それなら、もう少しカジュアルにしてみましょうか。」
レイアはリップが持ってきたデニムのアウターを手に取り、彼女の肩にそっと羽織らせる。鏡の前に立たせて向かい合うと、レイアはリップの背筋を正すようにそっと背を押した。
「……これなら、まあ、悪くないかも。」
リップは鏡に映る自分をじっと見つめ、少しばかり照れくさそうに口元を歪める。
「せっかくだし、髪の毛もいつもと違う感じにセットしましょうか?」
「このままおろしていくからいいよ。」
その提案にリップは気まずそうに顔をそらしながら答えるが、レイアはその頬を軽く突きながら首を振った。
「ダメよ。こんな機会めったにないもの。今日のために特別な時間をかけるのが、私の小さなわがまま。それが服を貸す条件よ。」
「レイア、今日は意地悪だね……。」
「だって、こんなにかわいい子のヘアセットができるのよ?私も必死なの。」
レイアが冗談を込めて笑いかけると、リップも微かに笑みを浮かべ、言葉に詰まったまま鏡台の前に腰を下ろした。
レイアはやさしくリップの髪を梳きながら、しばらくその柔らかさに触れる指先で感触を確かめている。
「きれいな髪ね。どんなケアをしているの?」
「べつに大したことしてないよ。」
リップが少し照れくさそうに答える。
「もっと詳しく教えてほしいわ。」
リップは少し目をそらしながら、「たまにトリートメントして、ヘアオイルつけて乾かしてるくらいかな。」と低く答えた。
「それだけで、こんなに美しいなんて……天からの贈り物ね。」とレイアは微笑み、手に持った年季の入った獣毛ブラシでリップの髪をそっと梳かしはじめた。
「レイア、それって高いやつじゃないの?」
リップが気になって聞くと、レイアは頷き、穏やかに笑う。
「そうね、ちょっと値は張るけど、とてもいいものよ。」
リップは視線を鏡越しにレイアの濡羽色の髪に向け、ゆっくりと「……確かに、レイアが言うと説得力あるわ。」と言い、少し恥ずかしそうに唇を噛んだ。
「嬉しいわ。」とレイアは微笑みながら、ゆるく巻かれたリップの髪を華やかなハーフアップにまとめていった。髪の流れに優しい動きを加え、まるで彼女が今まで隠していた本当の魅力を引き出すかのように、丁寧に仕上げていく。
「さあ、これでどうかしら?」
レイアはリップを鏡に向け、彼女の新しい姿を見つめた。ヘアアイロンでふんわりと巻かれた髪は、落ち着きと華やかさを併せ持ち、リップ自身も思わず驚いたように目を見開いた。
「……うん、いいんじゃない。」
リップは鏡の中の自分を見ながら、珍しく満足げな表情を浮かべた。その言葉を聞いて、レイアもほっとしたように胸をなで下ろした。
「素敵なお姉さんの完成ね。」
レイアが微笑むと、リップは少し照れくさそうに口をとがらせた。
「なによ。あたしはいつだってサイコーでしょ」
口を尖らせてみせるリップに、レイアは優しく「そうね。」と微笑み返しながら、そっと彼女の肩を抱いた。
「それじゃあ、そろそろ行くわ。」リップが立ち上がり、レイアに「ありがとう。」と短く礼を言うと、ドアノブに手をかける。
その瞬間、レイアが「ねえリップ。」と呼び止めた。リップは振り返らずに立ち止まり、かすかに肩を落とした。
「今日くらいは、何もかも忘れて楽しんでね。」
その静かな言葉が、リップの胸に優しく響いた。少しの沈黙の後、リップは小さな声で「……言われなくても、そのつもりよ。」と呟き、ドアの外に足を踏み出した。その姿は、ほんの少し大人びた雰囲気をまとっているようで、いつもとは違う新たな一歩を踏み出したかのようだった。
——————————
リップは、若者の集う街、マーブルシティにいた。街のざわめきが絶えない複合商業施設内のカフェで、彼女はストローに口をつけると、イチゴのフレッシュジュースを喉に流し込んでいく。彼女は時間を持て余していた。窓から差し込む柔らかな春の日差しが、リップの手元を穏やかに照らしている。その光に照らされ、デイヴィッドに整えてもらった彼女の爪が、繊細なラインストーンの輝きを反射させ、まるで小さな宝石のようにきらめいていた。
だが、その輝きの中にぽっかりとした暗い穴が一つ、彼女の視線を奪った。一つのストーンが剥がれ落ち、残された空白がどうしようもなく不格好に見える。
「……最悪。」
リップは眉間にしわを寄せ、ため息をついた。今日は特別な日だというのに、自分が完璧ではないことがひどくもどかしかった。ため息とともに小さな舌打ちを漏らし、デイヴィッドの顔が頭に浮かぶ。気まずさを押し隠すように、「ちょっとした修正くらいお願いしておけばよかった。」と、ふと後悔がよぎる。それと同時に、先日彼と交わした会話を思い出す。「少しだけ寄り添ってあげてもいいんじゃない?」という彼の声が頭の中に響く。
「……なによ。」
リップはかすかに唇を噛んだ。優しい過去の記憶さえも、今の彼女を責めているように感じた。カフェの窓越しに見える外の通りをぼんやり眺めると、街を歩く人々の顔はどれも楽しげで、温かみのある笑顔に溢れているように見えた。まるで自分だけが、この街からはみ出したように、よそ者であるかのような気がして、気持ちはさらに重たく沈んだ。
やがて、彼女は落ち着かない視線を手元のスマートフォンに向けた。ディスプレイが明るく点灯すると、画面にはリマインダーの通知が表示されている。それは、ファッションショーの開場時刻を知らせるものだった。深く息をつき、リップは飲みかけのジュースを置くと、会計を済ませてカフェを後にした。
ホールの入り口に向かう途中、リップはパウダールームに立ち寄り、鏡の前に立って自分を見つめた。控えめなメイクをしてきたつもりだったが、今目の前にいる自分はどこか曇った生気のない顔で、冷ややかに映っていた。
「……ひどい顔。」
リップは自分の顔にうっすらと影を落とした。いつもとは違う服装と髪型のせいか、まるで別人のようで、ここにいる自分が本当の自分ではないように感じる。重苦しい胸の内をどうすることもできず、ふと口元からつぶやきが漏れた。
「……あの時みたいね。」
不意に、サラと過ごした日々が心に蘇る。当時の自分は大人たちの操り人形で、そこに自分の意思はなかった。望まれた自分でいるために、彼らに好まれる選択肢を選び、彼らが敷いたレールの上から外れないように必死に歩いていた。
そんな中、サラが目の前に現れた。彼女だけが心の底からリップに向き合い、手を差し伸べてくれた。サラの前では、リップ自分らしさを取り戻し、本当の自分でいることができた。
「何してんのよ。今日はサラの晴れ舞台なのよ。しっかりしなさい。」
リップは鏡の中の自分を見据え、厳しい口調で自分を奮い立たせた。大きく深呼吸をして、目を閉じたままその空気をゆっくりと吐き出す。まるで古い仮面を捨て去るかのように、彼女の表情にはわずかながら穏やかさが戻った。リップは鏡の自分にかすかに微笑みかけ、パウダールームを後にする。
ホールの入り口は、せわしなく動き回る係員たちと入場を待つ人々で賑わっていた。リップもスマートフォンのディスプレイに表示されたチケットを差し出し、彼らの手に委ねた。会場内は自由席で、すでに多くの観客が先を争うように席を埋めていた。リップも人々の流れに乗り、少し奥の方に空いた座席に腰を下ろした。
「出演者の撮影及び録音録画は一切禁止致します。」というアナウンスが繰り返し流れる中、リップは来場者たちを見渡した。多くの観客は女性で、彼女たちは主催団体、ラヴィヴェール・シルクのコンセプトに忠実に、自分たちのファッションを誇らしげに楽しんでいるのが伝わってくる。
華やかで洗練された服装に、それぞれの個性が輝くアクセサリーが添えられている。リップは、そんな自信に溢れた女性たちの姿を眺めていると、まるで自分が別世界に迷い込んだかのような疎外感を感じてしまった。
(あたしも、あんなに自信を持てたらな……)
リップ自身もファッションショーのコンセプトに沿うような服を選んできたつもりだったが、心から自分の好きなスタイルを楽しんでいる彼女たちの中で、彼女は自分自身がどうしようもなく浮いているように感じられて、デニムジャケットを脱いだ。
(居心地悪……)
暗がりの会場に響く観客のざわめきと、今にも始まろうとするショーの空気に、リップは少し落ち着かない気持ちでシートに沈み込んだ。煌びやかに飾られたランウェイは、青いライトに照らされて幻想的な雰囲気を纏っている。
ぼんやりと目の前の景色を見つめていると、会場全体が闇に包まれ、静寂が訪れた。次の瞬間、音楽が低く響き、薄暗いランウェイにひとつ、またひとつと光がともる。まるで魔法のような空間だ。リップは、周囲の喧騒がまるで夢のように遠のき、サラの作品を、そして彼女自身の姿を早く見たいという気持ちが一層強まった。
リップの目線は、ステージよりも袖の方に注がれていた。かつて姉妹のように過ごしてきたサラが、今日このショーにデザイナーとして出ることを知って以来、ずっと胸の中がざわついている。ふとリップは、最後に会ったのはどれくらい前だろうと考えた。サラと疎遠になったのは、所属していた芸能事務所が倒産して、互いに道が分かれたからだ。リップはサラと面と向かって会う勇気こそなかったが、心の奥底には、どこかで自分が今日ここにいることを知ってくれたらという気持ちが湧き上がっていた。
モデルたちがランウェイに登場し、華やかで洗練された作品が次々と披露される。それぞれが異なるテーマやインスピレーションに基づき、個性を際立たせているのがわかる。リップは、一流のデザインに目を奪われる瞬間もあったが、どこか落ち着かない様子でサラの姿を探していた。
やがて、待ち望んでいた瞬間が訪れた。会場のライトが少しだけ落とされ、観客が次の作品を待ちわびる緊張が漂う中、司会者が声を響かせた。
「お待たせいたしました。次の作品のデザイナーは、今最も注目を集める期待の新人、サラ・ジェセニアです!」
その名前が発表されるやいなや、客席からは軽いどよめきとともに拍手が湧き起こった。長い間努力を積み重ねてきたサラが、ついにこの場でその実力を示す瞬間が訪れたのだ。観客の視線は一斉にステージの奥へと集中し、これから始まるサラ・ジェセニアの独創的な世界観がどのように表現されるのか、誰もが息を呑んで見守っている。
「サラ・ジェセニアの作品は、煌くエタニティがテーマです。青春の残像と大人の永遠の美を兼ね備えたデザインで、年代を超えた美しさを表現しています。その独特な配色と素材使いにご注目ください!」
観客の期待が高まる中、重厚な音楽が流れ始め、ステージに一筋のスポットライトが差し込む。やがて、モデルがサラの斬新なデザインを身に纏い、ランウェイを堂々と歩き始めた。その瞬間、会場はサラの作品が放つ圧倒的な存在感に包まれ、彼女の名前にふさわしいデビューの幕が上がった。
その光景に、リップの心臓が跳ね上がった。ずっと憧れていた舞台に立つサラのことを思うと、何とも言えない感情が込み上げてくる。
ランウェイに現れたのは、どこか儚くも力強さを感じさせるデザインだった。サラらしい細部へのこだわりと、独特の色彩感覚が、作品全体に繊細な美しさを与えている。リップはその美しさに息を呑んだ。その感情は、彼女の作品に対してだけではなく、サラの生きざまに対しても同様だった。自分が知らない間に、サラがこんなにも実力をつけて、自信に満ちたデザイナーとしてここに立っているのだ。なんだか、自分までもが誇らしい気持ちになった。、
しかし、モデルが歩みを進めるたびにリップの胸は少しずつ痛んでいった。疎遠になってからの日々が走馬灯のように脳裏を過ぎり、自分がサラにとって遠い存在になってしまった事実を突きつけられているようだった。サラが自分を必要としないこの場所で、彼女は新しい自分を確立している。リップは複雑な思いに揺れ動きながらも、サラの輝きを見逃すまいと、必死に目を凝らして作品を見つめ続けた。
ショーが終盤を迎え、ついに表彰の時間がやってきた。緊張感に満ちた会場内は再び暗転し、静寂が訪れる。そして、プロ部門の大賞発表でサラの名前が呼ばれた瞬間、リップの目に思わず涙が浮かんだ。サラはがスポットライトを浴びて佇む姿は堂々と胸を張っていて、まるで別世界の住人のように見える。
「…サラ、おめでとう。」
心の中で静かにそう囁いたリップは、彼女のスピーチに耳を傾けていた。穏やかな顔で拍手を送りながらも、リップは胸の奥にぽっかりと穴が開いたような感覚に襲われていた。
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