第16話:独りよがりの善意(2)
暗い部屋に、リップはひとり横たわっていた。外界と隔絶された空間はまるで深海の底のように静かで、彼女の気配さえも吸い込んでしまいそうだ。薄暗がりの中、スマートフォンの青白い光が彼女の顔を淡く照らし出している。その光は冷たく、無機質で、彼女の無表情な表情に一層の孤独感を与えていた。
部屋の隅には、シャンスが気を利かせて買ってきたファッション雑誌が読みかけのまま置かれている。ページの端が少しめくれ、表紙の華やかなモデルたちがその隙間からこちらを覗いているようだった。リップの視界にちらりと映ったその光景は、どこか遠い夢を思わせる。雑誌の中に描かれるきらびやかな世界、それはもう彼女が触れることのない場所であり、過去の記憶を呼び起こす禁じられた風景でもあった。
リップの視線は、いつの間にかスマートフォンの画面に映るファッションショーのチケットに移っていた。それはアポロが手配してくれたもので、画面には大手ファッションブランドの「ラヴィヴェール・シルク」のロゴが表示されている。高級感漂うそのロゴに、彼女は無意識のうちに眉をひ女性だった
ラヴィヴェール・シルク。そのブランドは、「自由を纏うモダンの品格」を標榜し、大人びたエレガンスを追求したブランドだ。リップがいつも愛用しているような、個性を強調する服装とはまったくの対極にある。一度、外から店内を覗いたことがあるが、そこには光沢のあるシルクシャツや完璧なシルエットを描くスーツ、どれも上品で洗練され、成熟した都会の女性を体現するデザインの洋服が並んでいた。
「あいつ、あたしのこといくつだと思ってるわけ?」
彼女は苛立たしげに息を吐き出した。ファッションショーのホームページを開き、概要にざっと目を通すものの、やはり興味をそそられるものは何もない。アポロの好意は理解しているが、どうにも無駄な気がしてならない。
「何もわかってないんだから。」
リップは小さく呟くと、表示されたホームページの画面を閉じようと指を動かした。しかし、その瞬間、ふと目に留まった名前が彼女の指を止めた。
「…サラ?」
参加者一覧に見つけた「サラ・ジェセニア」という名前が、リップの心に突き刺さるように響いた。かつてリップが芸能活動をしていた時、唯一心を許した先輩が彼女だった。彼女の優しい笑顔、誰もが憧れた気さくで可憐な姿が、遠い記憶から一気に押し寄せてくる。サラはアイドルとしての道を真っすぐに進む人で、リップが何度も挫折しかけた時に、その柔らかな声で何度も支えてくれた人だった。
「サラ。自分の夢を追ってるんだ。」
リップの視界が少しぼやけ、彼女の胸の奥底に埋めていた記憶がゆっくりと開かれていく。アイドルユニットを結成して、互いに励まし合いながら過ごした日々。その中心にいつもサラがいて、彼女の存在がリップの孤独を癒し、未来への希望を灯してくれた。サラは当時からファッションに関する深い知識を持ち、衣装の細部までこだわりを持っていた。その影響を受けたリップもまた、自分らしいスタイルを追い求めるようになった。サラは、あの頃のリップにとって、燦然と輝く道しるべのような存在だった。
「やっぱり、サラはすごいなあ……」
リップの中で、何かがふっと温かく燃え上がるのを感じた。彼女は普段なら絶対に興味を持たなかったこのショーに、奇妙にも足を運びたいと心が動いていることに気づく。サラがそこにいるというだけで、リップにとってその場所はただのファッションイベントではなくなった。サラのデザインや夢の軌跡を直接目にすることは、リップ自身がかつて追いかけた夢と再び向き合う機会でもあり、過去の自分と再会する瞬間でもあった。
「行ってやるか。」
そう呟くと、リップの唇にかすかな笑みが浮かぶ。胸の内に蘇った情熱、それはかつて自分を支えたサラへの尊敬と、再び彼女の側に立ちたいという淡い願い。リップはゆっくりと起き上がり、スマートフォンを握りしめた。
——————————
アガタは冷たいドアノブを握りしめ、眠気でふらつきながらゆっくりとドアを開けた。夜の静寂に包まれた廊下には、ぼんやりとした街灯の明かりが射し、そこには痩身の男が影のように立っている。闇夜に溶け込むような存在感で、彼はまるで訪れるべきでない場所に現れた亡霊のようだった。
「よう。元気してるか~?」
その軽やかな口調に、アガタは一瞬で現実に引き戻された。目の前の痩せた男、ダニーはにやりと笑みを浮かべながら無造作に彼の肩を抱き、まるで家主の許可など意に介さない様子で部屋の中へと滑り込んでくる。ダニーが身に纏うくたびれたレザージャケットの匂いと、どこか満ち足りたような笑みが部屋の空気を変えていった。その無遠慮さに、アガタは自然と眉間にしわを寄せる。
「ダニー、今何時だと思ってんだよ?」
声には苛立ちが滲んでいたが、それでも低く静かなトーンでつぶやく。だが、ダニーはそんなことお構いなしとばかりに肩をすくめ、軽い調子で返す。
「さあ?もう冷たい塀の中じゃないんだからさ、時間に縛られるのはナシ!」
部屋に溶け込むように、ダニーは自然とベッドに腰を下ろした。持ってきた袋の中を漁り始め、中からビスケット、チョコレート、色とりどりのグミが次々と現れる。彼は、まるで少年のような満面の笑顔でグミを口に放り込み、嬉しそうに咀嚼する。
「うめ~!やっぱりシャバって最高!」
その姿を見て、アガタは軽く顔をしかめた。こんな深夜に不躾に訪ねてきて、無造作に部屋に入ってくる。そして堂々とグミを味わい、無邪気なように見えて、その瞳の奥にはどこかしたたかで冷徹な光が浮かんでいた。
「……そんなのいらないから、さっさと帰れよ。」
アガタの冷たい言葉を、ダニーは悪びれることなく受け流し、意地悪そうに笑いながらグミの袋を差し出した。しばらく黙ってそれを見つめていたアガタだが、諦めたようにため息をつき、一つつまんで口に放り込む。かみしめると、予想以上の甘さが広がり、知らず肩の力が少しだけ抜けた。
「……うまい。」
つぶやくようなその言葉に、ダニーの口元に満足げな笑みが浮かぶ。
「そうだろ~?刑務所ってさ、全然甘いもの食わせてくれないじゃん?マジでツラかったわ~。」
ダニーはそう言うと、持ってきた大きなショッピングバッグを取り出し、中からいくつかの服を取り出して自分にあてがう。鏡に映し、あれこれと角度を変えながら楽しげに眺めている姿は、無邪気さの中にどこか滑稽さがあった。
「なあ、アガタ。どっちがいいと思う?僕的にはこっちが似合ってると思うんだけど、ちょっと地味じゃない?」
アガタはため息をつきながら答える。
「俺を慰めに来たんじゃないのかよ。」
その言葉に、ダニーは「ん~?これが決まったらね。」と軽く受け流し、別の服をあてがってさらに尋ねる。
「ほら、どっちがいいか言ってよ。」
「うーん。そっちでいいだろ。」
アガタが指差したのは黒いシンプルな服だったが、ダニーは首をかしげ、もう一つの明るい色合いの服を掲げてみせた。
「やっぱり、こっちの方がいいな、コンセプトに合ってるし。」
アガタは興味なさそうに返事をすると、自分もベッドに腰かける。そんな彼の様子を横目で見つつ、ダニーはふと真面目な顔で問いかけた。
「それで、足は大丈夫か?」
その一言で、アガタの表情が一瞬固まる。無意識に視線を落とし、傷の塞がった太ももに目をやる。胸の奥に潜んでいた痛みが、乾いた銃声や火薬の匂いと共に生々しく蘇り、口を開こうとするも言葉が詰まる。何とか絞り出した言葉は、か細い声だった。
「ああ、もう平気だ。」
だが、ダニーの目はその言葉を信じていないかのように優しい光を宿し、彼の背中を軽く叩いた。
「体は治っても、心の傷は簡単には消えないよな。」
その言葉にアガタの胸が鋭く締めつけられる。無意識に肩をすくめると、ダニーが少し間を置いて、別の話題を持ち出す。
「でもさ、アビゲイルちゃんに会えたんだろ?元気にしてたか?」
その問いかけにアガタは沈黙し、無意識に視線を下げる。頭に浮かぶのは、あの再会の場面だった。無邪気であったはずの彼女の目が悲しみと失望に染まり、あの冷ややかな声が彼の心を抉るように蘇ってくる。「私を裏切ったの……?」その言葉が胸を刺す度に、過去の過ちが彼に覆いかぶさり、重くのしかかってくる。
その様子に気づいたダニーは、少し気まずそうに視線を逸らしながら、乾いた空気の中で、ぼそりと呟いた。
「うーん、まあ、男と女には色々あるよなぁ。」
アガタはそんな言葉を聞き流しながら、目を伏せ、ゆっくりと口を開いた。
「あいつは……特別な存在だったんだ。」
言葉はまるで自分に言い聞かせるように響き、彼の心に後悔の波紋を広げていく。悪事に手を染めて激しい暴力を受け、冷たい雨に打たれながら動けなくなった自分に、彼女が手を差し伸べてくれたあの瞬間。それが、今は遠い過去の幻影となって彼の胸に蘇り、心をかき乱していく。
「それなのに、俺は彼女を裏切ったんだよ。」
その一言に、ダニーの表情がほんの一瞬変わる。
「裏切ったって?」
「……罪を償ったら、必ず迎えに行くって約束したんだ。でも、俺は彼女の信頼を踏みにじったんだ。」
アガタは遠い目をし、しばらく沈黙した。そんな彼の姿を見守るダニーの目に、ふと優しい光が宿る。
「でもさ、世の中には間違いを犯した人間が二度とやり直せない、なんてルールはないんだぜ?お前が彼女を裏切ったとしても、まだやり直せるチャンスはあるんじゃないか?」
アガタはその言葉に戸惑い、罪悪感と後悔の重みが胸を締めつける。自分を許すための言葉が何一つ思い浮かばず、彼は唇をかすかに震わせてつぶやいた。
「そんなの、許されるわけないだろ。」
ダニーは諦めることなく、彼の肩に手を置き、静かに語りかける。
「アガタが本当に愛されてたんなら、彼女はきっと分かってくれる。だけど、伝えなけりゃ、その後悔は一生消えないぞ。」
その言葉にアガタは深く頷き、心の中に去りゆく人影が浮かんでは消えていった。
「ありがとうな、ダニー。」
「いいってことよ。」
沈黙が室内に重く漂う。アガタはゆっくりと立ち上がり、窓の外を見つめた。街灯がぼんやりとしたオレンジの光を放ち、夜の静寂に溶け込むように輝いている。その光景を、アビゲイルもどこかで同じように見ているのだろうか?それとも、もう彼のことなどすっかり忘れてしまったのだろうか。
胸の奥に微かに疼くものを抱え、彼は唇を震わせて呟いた。
「俺は……もう一度、彼女に会いたい。」
その言葉を聞いたダニーが、にやりと意味深な笑みを浮かべた。気の利いた返答をする代わりに、彼は一歩踏み出し、アガタの肩に手を置く。力強いその手が、彼を現実に引き戻すかのように感じられた。
「そうこなくっちゃな、アガタ。シャバは最高だぜ、何だってできるんだから。」
ダニーの声は心なしか少し浮き立っているように聞こえた。彼もまた何かを期待しているかのように、目を輝かせていた。やがて彼は少し得意げな様子で顔を綻ばせながら続けた。
「かくいう僕も、明日は好きな子に会いに行く予定なんだ。」
アガタは驚いたように顔を向けたが、ダニーは構わず語り続ける。その表情はどこか恍惚としていて、遠い過去に浸っているかのようだった。彼の視線は虚空をさまよい、そこにしかない幻影を追いかけているかのようだ。その様子に、アガタは一瞬、微かな違和感を覚えたが、言葉にはせずにただ耳を傾けた。
「彼女は、本当に素晴らしい人だった。綺麗で気さくだけど、仕事には真剣で、誰からも尊敬される、そんな女性さ。僕が彼女と初めて出会ったとき、ああ、これは運命だって、心の底から思ったよ。」
ダニーの瞳には、まるで今彼女が目の前に立っているかのような生き生きとした輝きが宿っていた。しかし、その輝きはどこか不安定で、心の奥に沈む闇を無理に隠しているようにも見える。アガタは言いようのない緊張感に襲われながらも、黙ってダニーの言葉を追った。
「彼女とただ話すだけで、俺の人生が変わる気がした。仕事が終わった後、ほんの短い間でも一緒に食事に行けたら、それだけで世界が色づくようだったんだ。でも……彼女は忙しい人で、僕たちの時間はいつもあっという間に終わってしまった。」
ダニーは寂しそうに目を伏せて笑う。アガタは、かつての彼がどれだけ彼女に執着していたかを想像して、眉間にしわを寄せた。
「それでもさ、彼女が返事をくれないと、どうしても気になってしょうがなかった。なんで返信が来ないんだろう?今、彼女は何をしているんだろう?もしかしたら、別の誰かと一緒にいるんじゃないかって、そう考え始めると止まらなくてさ……。」
彼はその当時の自分を思い返し、頭を抱えていた。アガタはその言動に潜んでいる狂気を噛みしめて黙っていた。
「返事が来るのを待つのは苦痛でさ。気づいてほしい一心で、朝昼晩、何度もメッセージを送ってた。何でもいい、彼女の注意を引ける話題を探して……挨拶や日常の話、彼女の興味ありそうなニュースも、ことあるごとに送ってたんだ。」
ダニーの目が、過去の彼女への執着に狂気を伴って輝きを増していく。アガタは微かに身を震わせた。彼は、ダニーの心の闇が自分の手に余るものだと感じ始める。
「それでも、彼女は時折しか返事をくれなかった。彼女の生活が、僕の想像をはるかに超えて忙しかったのか、それとも……僕からのメッセージを、ただ迷惑に感じていただけなのか。いずれにせよ、僕はその事実に耐えられなかった。だんだんと、彼女に会いたいという気持ちが募り、やがて……彼女の家の前まで行くようになった。だって、僕が待ってたら嬉しいだろ?」
アガタの胸に冷たい不安が広がる。その言葉はあまりに無防備で、無謀で、常軌を逸している。しかし、ダニーはそんな自分の言葉の異様さに気づく様子もなく、語り続けた。
「ある日、彼女が別の男と楽しげに話しているのを見たんだ。背広を着た、金回りの良さそうな男さ。僕にはないものをたくさん持っている奴だって、そう思った。その瞬間、僕は自分が彼女にとってただの邪魔者なんじゃないかって……自分がこの世で一番の間抜けに思えてきてさ。」
ダニーの表情が苦痛に歪み、瞳に鋭い光が宿る。まるで心の奥底に押し込めていた憎悪が表に現れる瞬間だった。アガタは思わず息を呑み、ダニーの姿に隠された暗い渦に引き込まれそうな気がして身構えた。
「だから、彼女を一人占めしたくなったんだよ。僕と彼女だけの場所に閉じ込めて、誰にも邪魔させず、永遠に一緒にいられたら……彼女も僕を受け入れてくれるはずだって、信じていたんだ。」
アガタの胸が重くなる。その狂気じみた言葉は、まるで底知れない深い奈落を覗き込むようだった。だが、ダニーはまるで過去に囚われたままのように続けた。
「それで……俺は、彼女と心中することで永遠に一緒にいられるんじゃないかって考えたんだ。」
その言葉は耳を刺すように重く響き、アガタは思わず言葉を失った。ダニーが話すその一言一言には、病的な執着が染み込んでいて、聞いているだけで背筋が凍るようだった。ダニーはそんなアガタの反応に気づかぬまま、虚ろな笑みを浮かべながら過去の記憶を紡いでいく。
「でも結局、あの男に邪魔された。僕はその場で……。最後に見た彼女の恐怖に満ちた瞳が、今でも頭から離れないんだよ。まるで、僕を拒絶するかのように、怯えた目だった。」
ダニーはしばし口を閉ざし、深い後悔の色を浮かべたようにも見えた。その視線は虚空を彷徨い、そこにいない彼女を探し続けているかのようだった。
「それでも、俺は……彼女を忘れられないんだ。俺の頭の中には彼女の笑顔が焼き付いて、消えない。」
その声には、深い孤独と痛みが宿っていた。アガタはダニーのその表情を見つめながら、何かを言おうとしたが、適切な言葉が見つからなかった。
ダニーは虚ろな笑顔を浮かべながら、ふと彼の視線が未来に向いたように呟いた。
「だからさ、会いに行くんだ。明日、また彼女に会いに行って……今度こそ、二人きりの時間を取り戻すんだ。」
その言葉に、アガタは無言で立ち尽くした。
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