第15話:独りよがりの善意(1)

夕日が射し込み、柔らかいオレンジ色に包まれた訓練場で、アポロはシャンスと向かい合っていた。今日も訓練場にはリップの姿がない。アポロはそのことに、言いようのない罪悪感と寂しさを感じ、胸がぎゅっと締め付けられる。


「アポロ、集中しろ!気が抜けてるぞ!」


シャンスの叱咤が響き、アポロはハッと現実に引き戻された。


「あ……ごめん、ちょっと考え事してた。」


「リップのことだろう?お前はわかりやすいな、まったく。」


シャンスは肩を竦め、軽く拳を振り上げて構え直した。アポロも体勢を整え、集中してパンチを繰り出す。その傍らでは、丸みを帯びた生き物、ファニーがアポロの動きを真似するかのように小さな拳を揺らし、まるで水面に浮かぶ波のようにぷるんと弾けていた。


「お、ファニーもやる気満々だな!」


シャンスが笑みを浮かべると、ファニーはその小さな体をさらに勢いよく揺らした。アポロはその可愛らしい動きに気を抜きそうになりながらも、拳をしっかりと握り直し、構えを再確認した。


アポロの拳が空を切るたび、ファニーも小さな拳を弾ませ、まるで応援しているかのように楽しげに飛び跳ねる。シャンスは軽やかにアポロの攻撃をかわしつつ、時折アドバイスを送りながらも真剣な眼差しを向けてくる。


「力を抜いて、相手の隙を感じろ!焦るな!」


シャンスの言葉がアポロを奮い立たせ、彼は冷静にシャンスの動きと呼吸を探り始めた。次第に周りの景色がぼやけ、シャンスの一挙手一投足だけがはっきりと映り込む。気づけば、アポロの拳はいつもよりも速く、重く突き出され、シャンスに向かって真っ直ぐ飛んでいった。シャンスは瞬時に身をかわすが間に合わずアポロの拳が彼をとらえた。シャンスはその一撃に驚いたように目を見開くと、誇らしげに笑みを浮かべた。


「それだ、アポロ!ようやく一人前の顔になってきたな!」


その言葉は、アポロの胸の奥に温かい灯火を灯した。ファニーも楽しげに揺れながら、その光景を見守っている。リップの不在による寂しさはまだ胸に残るものの、アポロは今ここで、自分にできる精一杯の力を振り絞りながら、少しずつ前へと歩み出していた。


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キッチンにはほんのりと立ちのぼる湯気が漂い、かすかな温かさが空間を包み込んでいた。テーブルには色鮮やかなシーザーサラダ、瑞々しいトマトパスタ、香ばしく焼き上げられたローストチキン、そしてカットされたフルーツが、まるで一幅の絵画のように並べられている。インスタントのコンソメスープもさりげなく添えられ、どこか家庭的な温もりを演出していた。シャンスとアポロは向かい合って席に着き、静かな時間の中でゆっくりと夕食を楽しんでいた。


ここ最近、シャンスと共にキッチンで食事をする機会が増えた。互いに同じ空間で過ごすこの時間が、少しずつ日常の一部となり、二人の生活に小さな落ち着きをもたらしていた。


「今日、ジーナと何を話したんだ?」


シャンスがフォークを止め、目を細めながらアポロに問いかけた。その口調は自然で、どこか優しさがにじんでいる。ふとした興味からの問いかけに、アポロは少し照れくさそうに笑みを浮かべた。


「都市伝説の話だよ。どうやら、俺が太陽の広場に降ってきたあの日の出来事に尾ひれがついて、街中に噂が広がっているらしいんだ。」


肩をすくめるアポロの表情に、無邪気さと気恥ずかしさが入り混じっている。シャンスはその言葉に思わず吹き出しながら、コンソメスープをひと口すする。


「なんだそれ。なんかすごく面白そうじゃないか。詳しく聞かせてくれよ。」


シャンスの笑顔に励まされるように、アポロは少しずつ言葉を紡ぎ始めた。自分が意識を失っていたあの日、何もない空間から突然この地に引き寄せられた感覚。太陽の広場に転げ落ちた瞬間の衝撃。頭が割れるような痛みと、混乱に包まれた中で気を失ったこと。アポロはその時の心細さを思い出しながらも、どこか懐かしそうに話していた。そして、目が覚めたとき、警察病院で親切な警察官ブルーノに助けられていたことを、目を細めてシャンスに語った。


「ブルーノさんは、俺が何もわからないことに気づくと、リトルガーデンのガイドブックをくれたんだ。街で迷わないようにって。生活に必要なものも揃えてくれて、あのとき本当に助かったよ。」


その時の温かい思い出が蘇り、アポロは自然と笑顔を浮かべた。


「もしブルーノさんに会ってなかったら、今の俺はいなかったかもしれないな。」


シャンスはアポロの話に目を輝かせ、まるで物語に聞き入る子供のように引き込まれていた。


「お前の話、すげえな。なんだか冒険小説みたいじゃないか。」


アポロもそれに応え、冗談めかして笑う。


「確かに、思い返せばここまで来るまでの道のりも大冒険の連続だったよ。」


二人の笑い声が食卓に響き、キッチンの空気がほんのりと温かさを増していった。しかし、その和やかなひとときを切り裂くように、リップが音もなく現れた。その姿を見た瞬間、まるで温かな空気が冷気に変わるように、キッチンの空間が張り詰める。


リップは誰にも視線を向けることなく冷蔵庫に歩み寄り、紙パックのプロテインドリンクを手に取ると、何事もなかったかのように出て行こうとした。その無表情な横顔に、アポロは思わず声を上げた。


「リップ!待って!」


リップは立ち止まりもせず、まるで無関心を装うように一瞬だけ身じろぎをした。しかしその背中からは冷ややかな拒絶が感じられた。アポロは彼女に視線を送り続けながら、自分の思いを必死に言葉に変えた。


「この前は……本当にごめん。俺、もっと役に立てるように頑張るから……」


不器用ながらも真摯に伝えようとするアポロの声が、キッチンに静かに響いた。しかしリップの返事は冷酷そのものだった。


「うざ。誰も最初からあんたに期待なんかしてないわよ。」


冷たい一言を残して、彼女はさっさとキッチンを出て行った。その冷淡な言葉は鋭い棘となり、アポロの心に突き刺さったまま離れない。彼の横顔を見たシャンスも、気まずそうに視線を逸らした。


「気にすんな、任務がうまくいかなくて荒れてるだけだ。」


そうぽつりと声をかけるシャンスだったが、アポロの心には響かなかった。リップの冷たい言葉が、胸の奥で鈍く痛み続けていた。


夕食の片づけを終えた後、アポロは爽やかな夜風に包まれるウッドデッキに出て、手にした日記帳を開いた。今日の出来事を思い出しながらペンを走らせていくうちに、彼の心は少しずつ落ち着きを取り戻していく。アポロはまっさらな日記帳に、ファニーが自分の動きを真似て、楽しそうに訓練に加わったことや、絵具や画材に興味津々で、思わずそれを掴もうとしていたことを書き記した。


日記帳を閉じると、アポロは深く息を吸い込んで伸びをした。ふと見やると、ファニーもその姿を見て、体を大きく伸ばしていた。彼の心の中に、わずかながらの安らぎが広がっていった。


そのまま部屋を出て廊下を歩いていると、偶然リップとすれ違った。彼女は相変わらず無表情で、まるで自分を避けるようにして通り過ぎようとしたが、アポロは思い切って声をかけた。


「あの、渡したいものがあって。」


その声に一瞬だけリップが反応するも、彼女は何も言わずそのまま自室のドアを閉めてしまった。その冷たい拒絶が再びアポロの胸に重くのしかかる。それでも、彼は諦めることなく自室へ戻ると、スマートフォンを手に取り、リップにファッションショーのオンラインチケットを送信した。


リップも少しは喜んでくれるかもしれない。淡い期待を抱きながらメッセージアプリの送信ボタンを押したが、画面に「既読」の表示が出るだけで、返信はなかった。


暗闇の中、スマートフォンの冷たい光が彼の指先を照らし続ける。何度か画面を確認してみるが、返答が来る気配はない。もう二度とリップの心を開かせることはできないかもしれないという不安がじわじわとアポロの心を蝕んでいった。アポロはスマートフォンを握りしめたまま、静かに眠りに落ちていった。


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深夜零時を回り、サラはようやく長い一日の終わりに家へたどり着いた。ファッションショーの打ち合わせが予想以上に白熱し、帰り道の寒さも相まって、彼女の体は疲労で重く、足取りもやや鈍い。だが、マンションのドアを開けると、優しいリビングの灯りが彼女を静かに出迎えた。室内にはしんとした静けさが漂い、安らぎが押し寄せる。それが、どれほど彼女にとって救いであるかをサラは改めて感じた。


リビングには、同居人のハビエルがソファに深く腰掛け、分厚い小説を静かに読みふけっていた。ページをめくる指先は丁寧で、彼の姿勢からはどこか品のある落ち着きが滲んでいる。彼女の足音に気付いたハビエルは顔を上げ、目元に柔らかな笑みを浮かべて彼女を見つめた。


「おかえり、サラ。遅くまでご苦労さま。」


その一言は、寒さと疲労でこわばっていた彼女の心を和らげる。彼の声には、いつもの穏やかで気遣いに満ちた響きがあった。サラは軽く頷きながら、頬に浮かぶ微笑みを抑えられなかった。


「ただいま、ハビエル。今日は大事な打ち合わせだったから、どうしても長引いちゃって。」


彼女の言葉を聞きながら、ハビエルはそっと本を閉じ、彼女の顔をじっと見つめた。その瞳の奥には、深い理解と優しさが湛えられている。


「連絡をくれれば迎えに行ったのに。夜道は、何かと危ないだろう?」


そのさりげない一言に、サラは胸がじんわりと温かくなるのを感じた。ハビエルの穏やかな言葉は、日々の忙しさで心が硬くなりかけている自分を解きほぐしてくれるようであり、彼女は心の底から彼の存在をありがたく思った。


「ありがとう。でも、今夜は冷たい空気が気持ち良くて、少し頭を整理しながら歩きたかったの。」


サラの返事にハビエルは少し眉を寄せ、彼女を気遣いながらも、その心を尊重するように「そっか。」と優しく頷いた。


「まだ何も食べてないだろう?スープでも飲んで、体を温めなよ。」


ハビエルの提案にサラは少し驚いたが、彼が常に彼女の体調を気遣っていることに改めて感謝の念がこみ上げた。彼のさりげない気遣いに、サラの心はじんわりと温かく包まれていく。


「じゃあ、少しだけもらおうかな。」


サラがキッチンへ向かおうとしたところ、ハビエルがさっと立ち上がり、彼女を制するように手を挙げた。


「座ってて、俺が持ってくるから。」


そう言って、ハビエルはキッチンへ向かい、手際よくスープを温め始めた。その姿を目で追いながら、サラは彼の頼もしさに胸がいっぱいになる。やがて、ハビエルが小さなカップに注がれた温かなスープを運んできて、テーブルにそっと置いた。ふわりと立ち上る野菜とベーコンの香りに、サラの肩からふっと一層の疲れが抜け落ちる気がした。


「ありがとう。」


サラは小さく呟いた。彼の支えがなければ、夢を追い続けるこの道はどれほど心細いものであったか。彼女はこの瞬間、心の底からの感謝と安堵を感じていた。


「明日のショーが終わったら、少しゆっくりできると思うから、また一緒に食事でもどう?」


「もちろんだよ。」


サラの言葉に、ハビエルは目を細めて優しく頷いた。


「ショーが成功して、君の実力がみんなに認められることを心から祈ってる。」


その言葉は、サラの胸にまっすぐに届いた。彼の温かな視線に、サラは思わず微笑む。ハビエルの支えがあるからこそ、彼女は今日も夢を追い続けることができるのだと、静かに実感する夜だった。


——————————


その夜、サラはどうにも眠れずにいた。ベッドに横たわり、目を閉じてもハビエルの「夜道は何かと危ないから」という言葉が何度も頭をよぎる。彼の何気ない優しさが、彼女の胸の奥に眠る、過去の忘れがたい記憶を呼び起こしたのだった。


それはまだ、彼女がファッションデザイナーとしての修行を始めたばかりで、夢を追いかけてひたむきに突き進んでいた頃のことだった。彼女はゴシックファッション専門誌の企画に参加しており、重厚な衣装や深紅のビロード、漆黒の刺繍に魅了され、理想のデザインを求めて寝食を惜しんで試行錯誤を繰り返していた。スタジオには同じく尖った個性を持つクリエイターたちが集まり、そこには張り詰めた空気が流れていた。


その企画で出会ったのが、ダニーという青年だった。彼はいわゆる読者モデルで、黒いレザージャケットに身を包み、痩身の体に耽美的なオーラを纏っていた。透き通るような青白い肌、まなざしにはどこか深い影が宿り、その微笑みは見る者を虜にするような、妖しい魅力を持っていた。サラは最初、彼に対して近寄りがたい印象を討を持っていた。しかし、仕事を通じて話をしてみると、彼はとても気さくで親しみやすい性格をしていた。ファッションに対してもこだわりと情熱を持っており、サラは彼と話をしていくうちに、彼をよき理解者のように感じ始めていた。


しかし、彼の存在は初めこそ人懐こいものに感じられたが、次第にサラは彼の言動に奇妙な変化を感じるようになった。時折発せられる彼の冷たい言葉や、機嫌を悪くして思い通りに進めようとする態度に、少しずつ彼女の中で不安が膨らんでいったのだ。


サラはその思い出を振り払うように頭を振り、ハビエルのそばで守られている今の生活が、どれほど満たされたものかを改めて噛みしめた。サラは深く息をつき、安堵のうちにゆっくりと目を閉じた。

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