(17)犬笛を鳴らして

 出刃包丁を向けられながら歩くというのは、かなり精神的にも辛かった。何時いつその刃が飛んで来るか分からなかったので、気が気ではない。


──ガサッ!


 茂みから物音がしたが、気にはならなかった。

 何故なぜならすでに恐怖の対象である人物が、姿を現して背後に居るからである。

 熊や狼などが出て来たら驚くだろうが──恐ろしくは感じなかった。


 とは言え──。

 シソクは立ち止まって、後ろを振り向いた。


 唐突とうとつに立ち止まったシソクに、レージョは警戒の目を向ける。

「おかしな気は起こさないことですわね」


「……いや、違うさ」

 シソクはそう言って犬笛を取り出すと口にくわえた。そして、思い切りそれに息を吹き込む。


「何ですの、それ?」

「犬笛だよ」

 不思議そうにしているレージョに、シソクは説明してやった。

「猟師のおじさんに貰ったんだよ。獣よけに効果があるんだってさ」

 すると、その効果を証明するかのように草むらの気配は消えた。何か小動物などが潜んで居たようだが、何処どこかへ逃げて行ったのだろう。物音はしなくなった。


「音の鳴らない代物に、そんな効果があるものなんですわね」

 感心したようにレージョは言ったものだ。

「人の耳には聴こえない音が鳴ってるらしいよ。猟師さん曰く、超高音が出てるんだって」

「へー」とレージョは興味津々といった具合に目をまたたいた。

 その表情はシソクが知っている、いつもの無邪気なレージョだ。

 一瞬、元のレージョに戻ったような感じがして──シソクの表情もやわらいだものだ。


 ところが──。

「……そんなことを言って、本当は助けを呼ぼうって言うんじゃありませんよねぇ?」

 レージョはナジーを抱き寄せると、その首元に出刃包丁を突き付けて威嚇いかくした。


 油断していただけに、予想外の事態にシソクは焦ったものだ。

「そんな気はないよ! 獣を追い払おうとしただけさ! それに……ほら、助けを呼ぼうにも音は出てないでしょ!」

 シソクは犬笛を吹いてみせた。

 いくら犬笛を鳴らしたところで、発せられる音は人間の耳には捉えることが出来ないのだから救難を要請する手段にはならないだろう。


「……確かに、そうですわね」

 シソクの主張に、レージョも納得してくれたらしい。

 レージョは出刃包丁を下ろすと、ナジーを突き飛ばして距離を取った。

「いいでしょう。他の獣も寄って来ないように、犬笛の使用だけは許可してあげますわ。……でも、それ以外におかしな行動をしようというなら、分かってますわよね?」

「そんなつもりはないさ」

 威圧してくるレージョの脅しに、シソクは素直に頷いてみせた。

 下手に彼女を刺激すれば、再びナジーに刃が向けられることとなってしまうだろう。

 そうならないために、シソクは慎重に行動することにした。


 その後もシソクは森の中を進みながら、物音が聞こえるたびに犬笛を吹きながら歩いた。

 すべては──レージョも含めてみんなが安全に森の中を進めるようにである。そんなシソクの思いが伝わることなく、レージョは出刃包丁の刃を向け続けた。


 そして、いよいよ──二つの死体横たわる場所が、目の前に現れたのであった。

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