惑いの城
真木
惑いの城
迷うように雪が積もる音がする。
私がその夢に迷い込んだのは、とめどなく子どもの頃の夢を見た後だった。
赤子のぐずる声で意識を呼び戻されて目を開いたつもりが、そこはまだ夢の中だった。
起き上がると、暖炉が明々と燃えていた。真夜中の冷気が立ち込める部屋の至るところに明かりがともされ、食べ物の匂いが漂う。
寝台の紗の向こうのテーブルいっぱいに、血のしたたる肉料理やワイン、生クリームがたっぷり乗ったケーキと、胸やけするほどの料理の数々が並んでいた。
誰かの身じろぎの気配で振り向くと、すぐ隣に一人の女性が横たわっていた。
彼女の頬を涙がつたう。彼女は涙を拭わないまま、愛おしそうに傍らの赤子の手に自分の頬を寄せていた。
まだ出産を終えてまもないのか、髪は乱れ、白い夜着に透ける肌は汗ばんでいた。眠れないほど疲れ切っているのだとわかった。
紗の向こうを人が行き交う。お食事を、せめてお水をとしきりに女性に勧める。
彼女は横たわったまま動かない。壊れたように涙だけがシーツに染み込んでいく。
「何か食べた方がいい」
私もそう言わずにはいられなかったが、女性は赤子の存在だけが救いのように、泣きながら赤子の手を繰り返しさすっていた。
そのとき、花の香りと共に誰かがやって来た。
人々が私の知らない言葉で寿ぎらしいことを告げている。足音が寝台に近づいてくる。
その香りは何の花なのか、むせかえるように濃密なものだった。意識が冴えすぎて、頭が痛かった。
誰かの、限りなく私に近い声が警鐘を鳴らす。
逃げなさい。それは禁忌だと言う。
寝台の紗をかきわけて、手が差し込まれる。その向こうにその人は立っていた。
「愛しているよ。よく私の子を産んでくれたね」
からめとるような言葉から逃げるように、私は寝台の奥から外に飛び出した。
悪夢を見ている自覚はあった。けれどこの悪夢はどこかに迷い込み、何かに足を取られたとき、二度と覚めない予感がした。
背後から質量を持った花の香りが迫って来る。それは私を押しつぶすように、息の根を止めるように思えた。
呼吸を求めてあえぐようにして、私はどこかの扉を開いた。
すぅっと足元が消えて、明るい闇に落ちていった。
また子どもの頃の夢に帰っていた。
誰しも子どもの頃は必ずしも良い思い出ばかりではないが、思い返すと暖色に囲まれた世界だったように感じる。
私が生まれ育ち、そして一生出ることがないその城は、年中空ろな雪が降り積もる音がしていた。
城にはある高貴な一族が住んでいた。私は一族の不義の子として生を受けた。
私の出生は母に私を厭わせたが、同時に退屈を嫌う一族を喜ばせた。私は一種希少な動物であるかのように、どの扉を開けてどこに立ち入ったとしても歓迎される子ども時代を送った。
私はそんな自由を愛してはいなかった。私は幼くとも一族の子で、自由などより冷酷な愛で私をつないでくれる主人を探していた。
私が彼の君に初めてお会いしたのは、指先がしびれるほど冷え切った夜のことだった。
いつものように気まぐれに廊下を歩く内、私は一つの部屋に入り込んだ。こともあろうに、そこが王の部屋だということをまだ幼い私は知らなかった。
洞窟のような奥深い闇の先に、小さな明かりが灯っていた。興味を引かれて近づくと、壁に絵がかかっていた。
長椅子に横たわり、真珠のネックレスを手探りで外している裸の少女の絵だった。顔色が青白く、伏せた目をまつげの暗い影が覆う。
隣の絵も同じ少女の絵だった。この雪の城では水は氷に近い温度だが、水の張った盆で無心に足を洗っていた。その腕も足も骸骨のように細く、果たして歩くことができるのかも確かでなかった。
生気を消し去ったその姿に渇望のような衝動を感じたのは、たぶん私だけではなかったのだろう。
見渡せば、少女の裸姿の絵ばかりだった。首筋のねじれたこぼれ髪、冷淡そうな薄い唇を豪奢な額縁が囲んでいる。
私はみつめるだけでは終わらなかった。絵を追って部屋の奥に足を進めた。
横顔だけの肖像画、骨ばった後ろ姿、次第に静物も飾りも取り払い、原始的な絵へと変わっていく。
私が追い求めた最後の絵と、私の抱いた衝動の行きつく先は、ともに部屋の奥にあった。
牢獄のように四方を覆われた寝室に、ちょうどその頃の私の身長ほどの絵が立てかけてあった。
それはカンバスを黒炭で塗りつぶし、肌の輪郭だけを白く浮き上がらせたものだった。その最小限の線は、彼女を今までで一番美しく彩っていた。
黒いシーツの中に彼女は閉じ込められているようで、王者のように堂々と四肢を伸ばしていた。
シーツに溶けるような真っ黒な長い髪が背を滑り、細くなって途絶えた先に、私は描き手がずっと描くのを抑えていたものが何かを知った。
それを描いてしまったのか。まだその欲望の意味を知らない私も、思わず目を逸らしていた。
抵抗は敗北に終わった。目を逸らしたつもりが、私は彼の君のまなざしに囚われていた。
カンバスの立てかけられた寝台に座して、彼の君は私を見下ろしていた。
絵の中から抜け出てきたように、彼女がまとっていたのは黒いシーツだけだった。足が床に届かないほど小柄で、赤ん坊が初めて見るものを不思議そうに眺めるように、あどけなく私を見つめていた。
その胸に絵の具をぽつんと落としたような二つの房がなければ、幼子と変わりがなかったかもしれない。けれどその小さなふくらみは彼の君に少女のしるしを与えていて、後から思えば不幸の果実のようにも見えていた。
私は彼の君から目を逸らすことができないまま、彼女が手慰みにしているものに気づいた。
黒いシーツの中、彼女にからまるようにしてもう一人、誰かが埋もれていた。彼女はその誰かのつむじをかき分けて、指に髪を巻いて遊んでいた。
閉め切った部屋の空気は淀んでいた。暖炉の火が錆のような灰を吐き出していて、息がつまりそうだった。
自分の首を汗がつたった感触を鮮明に覚えている。彼の君が最初に私にかけた言葉のように、私の首をつっと締めた。
「君が女の子でよかった」
彼の君は花のように笑って言った。
「今日は帰してあげよう。私は女の子には優しいんだ」
おやすみ、いつか女の子でなくなる君。彼の君の声を最後に、私は後ずさって必死で逃げうせた。
降り積もる雪の音が、何かを訴えるように意識の膜を叩いていた。
王が永遠の眠りについた日、私の母もまた毒杯をあおって覚めない眠りについた。
母が生前私を厭っていたことは、そのときに許さざるをえなかった。母は私の出生にまつわる不義を自らの死によって薄い黒で塗りつぶし、一方で私に生きるすべを残してくれた。
母は厳格な教育者だった。それに反発するように、私にはいびつな構想力と、不完全さゆえにそれを必ず形にしようとする決意が備わっていた。
私が書き散らしたものを次に王となった方が目に留めてしまったのは、それからまもなくのことだった。
「妹に絵本を作ってやってくれないか」
王が私の部屋を訪れて言ったとき、私はとんでもないことをしてしまったと思った。
「妹は目が不自由なんだ。どうか綺麗な夢を見せてやってくれ」
王は言葉を切って、静かに頭を下げた。私は氷の上に裸足で立っているような心地で、到底断ることなどできなかった。
彼の君に再会したときは、昼下がりの陽射しがじゅうたんに転々としるべを作っていた。
彼女は若葉色の紗と赤茶色の灯りに囲まれた寝台で眠っていた。枕元で、氷水で冷やされた銀の水差しと粉砂糖のまぶした焼き菓子が彼女の目覚めを待っていた。
兄王は彼の君の側に屈んで、内緒話をするように名前を呼んだようだった。
彼の君は横たわったまま、ちょっとだけ首を傾けて私を見た。私はそのまなざしに見覚えがあったが、あの冷えた夜に絵から抜け出てきた少女と同一人物とは思わなかった。
ありていに言えば私はあのときのことを夢だと思っていて、彼の君もそれに触れず、だから私は逃げることができなかった。
来て、小さな絵描きさん。彼の君が差し伸べた手に呼ばれて、私はおずおずと進み出た。
それから私が子どものときを終えるまで、私は起きているほとんどの時を彼の君と共に過ごした。
彼の君は出歩くのがおっくうなのか、一日の多くの時間を寝台の上で気ままに過ごしていた。私は彼の君の寝台に上るのを許され、彼の君に私が作った絵本を見せる名誉を与えられた。
私は彼の君を、私がお守りしなければならない弱い御方だと思ったことはない。彼の君は王に次ぐ誇りと自覚を持ち、寝台の中にいながら私よりはるかに広い世界を知っていた。
私は母のような教育者の資質はなかったが、良き生徒ではあったようだ。数学も地質学も行儀作法も、彼の君の教えるものをすべてそのまま飲み込み、彼の君に可愛がられた。
一方で一日が必ず終わるように、彼の君と私が共に過ごすときは毎日終わりがあった。兄王の訪れだった。
日が落ち、彼の君と私が共に食事を終える頃、王は夜の訪れそのもののように現れた。
王が彼の君から数えていくつ年上であったのか、実は今も知らない。見た目には二、三歳も離れていないように思えた。少し神経質なところはあったが、物静かで美しい青年王だった。
王は、まるで幼子にするように彼の君に接していた。易しく、棘を取り去ったものだけを彼の君に見せていた。
王は常に彼の君の枕元に粉砂糖をまぶした菓子とはちみつを溶かした水を用意させていた。それらがそろっていないときは彼の君の見ていないところで侍女たちをひどく叱り、罰を与えた。
なぜ彼の君は王の用意した菓子と水に一切手をつけないのだろう。王はなぜ目の不自由な彼の君に見えるはずのない絵本を見せようとしているのだろう。疑問を抱いていたうちは、まだ私が子どもだった証だった。
王が私をここに連れてきた理由だけはかろうじて知っていた。私が疑問を口にしない子どもだったからだ。
いつも王が夜と共に現れ、寝台の紗をかきわけて彼の君に手を伸ばす前に、私は何も言わずに寝台の奥から外へ出ていった。
色鮮やかな版画で羊皮紙の上を飾って、私は彼の君に絵本を贈っていた。
私が描いていたのは、この雪の城に伝わる神話だった。花の神とそれに愛されて狂った娘の物語だ。
娘が泉で水浴びをしているうち、服が消えてしまう。裸の娘が花の神に助けを求めると、彼は娘を抱き寄せて暖かく包み込む。花の神が娘の背に回した腕には、彼が糸束に変えてしまった娘の服がある。
またあるときは、娘は花の神の弟神に恋をしていた。木陰で弟神の袖をつかみながら、娘はうたたねをする。
その恋はじきに終わる。花の神は弟神に毒の花を差し出し、弟神はそれをうやうやしく受け取ろうとしている。
あるとき娘は嫁ぐことになる。娘は相手を知ることのないまま、花の神が代わりに婚姻の書面にサインする。
古い時代から続く風習で、娘は目隠しをされたまま白いドレスをまとって従者たちに運ばれて、寝台の紗の前で自ら着衣を解く。一糸まとわぬ姿になった娘は、花の神に手をからめとられて寝台に引きずり込まれる。
迷走するような物語は、教訓らしいものも正義の味方の登場もなく進み続ける。
娘が出産したことを暗に示すように、娘の影が映る寝台の紗の前に豪勢な肉や魚の料理が並ぶ。薄い紗から手を差し込んで、花の神が娘の手を取る。
花の神は娘に何事かささやく。おそらくそれが最後の場面だが、確かな終幕かどうかはわからない。
私は彼の君の前で絵本を開いて、切れ端のように少しずつ神話を語った。物語自体は一族なら誰しも知っている。凹凸のない版画では彼の君には何の余興にもならなかったはずだが、彼の君は愛おしそうにうなずいていた。
降り続ける雪の音を聞きながら彼の君と過ごすうち、私が気づかないまま時は流れていた。
時に追いつかれて肩を叩かれたのは、吹雪が窓を叩く真夜中のことだった。
自室の机でいつものように彼の君に見せる絵本を作っていて、私は少し寝入っていたらしい。気がつけば私は寝台に運ばれていて、枕元に王が座っていた。
慌てて体を起こそうとした私に、王はそのままにと私の口に指で触れて合図を送った。
この頃、王は書面上私の養父となっていた。王と臣下という立場上温かな親子関係とはいえなかったが、私は王を尊敬していたし王が私に父として与えてやれるものは何であろうと探しているのは知っていた。
王はささやくように問いかけた。そろそろそなたも大人だ。想う者はあるか。
瞬間、脳裏に浮かんだのは幼い日に見た少女の絵だった。黒いカンバスに浮かび上がった白い四肢に抱いた、抗いがたい衝動を思った。
一拍の後、夢から覚めるように自分を恥じた。私は育ててくださった尊い姫を汚す願望を抱いているのか。ましてや私は男でもないというのに。
笑いとばすこともできない感情とそれを留めようとする理性は、私の肩を叩いて事実を見せた。
王の言葉のとおりだった。私は彼の君を想っている。そしてそろそろ大人なのだ。
見上げた王の瞳は、私が抱いた衝動を見透かしているようだった。いつになくそのまなざしは温かく、無礼かもしれないが王に親近感さえ抱いた。
私は身を起こして王の頬に手を当てる。王は私に口づけて、冷たい声でささやいた。
ありがとう。お前は優しい子だ。王はまるで長い間離れていた恋人にするように私を引き寄せた。
その一晩だけ、私は雪の降る音を忘れた。風が吹き荒れる音だけが遠いところで聞こえていて、死に似た深い眠りの中で夢も見ることはなかった。
数日の後、王は私の婚姻を決めた。私は相手を知らされなかったが、私は何も問い返さずに受け入れた。それが私の王に対する今までの感謝の気持ちだった。
私は慣習のとおり白いドレスをまとい目隠しをされて従者たちに運ばれた。
白は花の神の嫌う雪の色、目隠しはひとめで娘を魅了してしまう花の神の目を見ないためだった。花の神を拒むためのこの慣習は神話ではむしろ花の神の腕の中に娘を誘ったが、雪の城では脈々と受け継がれていた。
私はどこかの部屋に残された。従者たちが去っていった気配を確かめると、私は手探りで歩み始めた。
人は目だけでものをとらえているわけではない。音や匂い、気配でも、私はすぐにそこが王の部屋であるのに気付いた。
暖炉に薪木をくべすぎているのか、空気が淀んでいて息苦しい。錆に似た灰の匂いが部屋中に立ち込めていた。
意識をねじふせるような暑さの中で、私は神話を思い返していた。
花の神とそれに愛されて狂った娘。一族は花の神を恐れながら、神話を語るのをやめない。
私たちは神話に冷たく絶対の愛を感じて、誰も逃れられないと思う。私たちは一族で、神話は一族の一部であるから。
「大人になったね」
暗闇の中、彼の君の声が聞こえた。
「おいで。一族の歴史を見せよう」
氷のような手が私の手を取って、私を紗の中へと導いた。
ここに立ち入れば、二度と帰れなくなる。一瞬だけ、私は彼の君の手を振り払って逃げることを考えた。
物心ついた頃から聞いていた、雪の降る音を思った。私は迷うようなその音が好きでなかった。少しずつ命を奪われるように冷えていくくらいなら、いっそ凍り付くような嵐になればいいのにと厭っていた。
だが同時に、やっと立ち入れるのだとも思った。かつて彼の君が私を逃がしてくれた寝台に、ようやく招かれるときが来る。
抗い切れない誘惑に酔って、私は自ら目隠しを外した。
それが私の選んだ運命だった。
彼の君に手を引かれて紗の中へ入った私は、体がしびれるほどの花の香りに襲われた。
意識は冴え渡るというのに、体は指一本動かなくなった。私は人形のように寝台に倒れ、そこで今夜婚姻を成すはずだった方を見た。
王の顔にもう色はなく、呼吸も途絶えていた。食べかけの焼き菓子が片手に残っていて、シーツに水差しが染みを作っていた。
王は子どもが手慰みに菓子をつまみ、そのまま眠ってしまったようにしか見えなかった。私は夢を見ているような心地で、ずいぶん長いこと王をみつめたまま横たわっていた。
「兄上は愛情深い方なんだよ」
彼の君は王の髪に指をからめて言った。
「私の枕元にいつも毒を用意しながら、私が小さな風邪をひいただけで夜中起きて看病してくれた」
彼の君と同じ色をした黒髪は、幼い頃にも見た覚えがあった。
「君も知っているね。見えない絵本を何冊も作らせながら、私が何も見なくていいようにいつも部屋を閉ざして鍵をかけていた」
彼の君はひととき話すのをやめた。その間、私は記憶の糸をたぐるように子どもの頃に戻っていった。
やがて彼の君が口にした言葉は、私の記憶の鍵を開いたように思えた。
「父上によく似ておられた。禁忌を求めながら、禁忌に耐えられない方なんだ」
彼の君が優しくため息をついたとき、私は幼い日に夢と封じ込めた記憶を思った。
冷えた夜、黒いシーツの中で彼の君に寄り添い、眠りについていた方。決して誰にも触れさせないように、黒いカンバスに彼の君の裸姿を閉じ込めた。
あの日私は知ったはずだった。あの方が真に描きたかったのは、公然の愛妾であった私の母の肖像画ではなかったのだと。
私は事実を夢に替えた。喉元に迫っていた事実を前に惑い、見ないふりをした。
長じて私は同じことを繰り返し、また事実から目を逸らした。おそらく限りなく私と近い方と、知らないふりをして婚姻を成そうとした。
彼の君は私のドレスを解き、私を見下ろした。外気にさらされた私の肩に触れて、内緒話をするように耳に口を寄せる。
「花の神と愛された娘は、実の父娘だったね」
一族なら誰しも知っている秘密は、彼の君の口から告げられると美しい永遠に聞こえた。
「君はいつか禁忌に染まると思っていたが、そのとおりになったね」
私の髪をかきあげて、彼の君は額に口づけて言う。
「君と一つになれる日を夢見ていたよ」
最後の力を振り絞って泣いた私を抱きしめて、彼の君は愛をささやいた。
雪は今日も降り続け、きっとやむ日など来ない。
「長く恐ろしい夢を見ていました」
明け方、私は泣きながら目覚めて彼の君にすがった。
子どものようだねと彼の君は笑い、私の背をさすった。寝台の中で二人、温かいミルクを飲む。
窓の外の薄い闇に、光が少しずつ命を吹き込む。火を入れたばかりの暖炉がぬくもりを漂わせていて、夜のうちになくしていた体温を返していく。
私は不死身の神々にはなれないが、一日の終わりにもう無いと絶望した気力を取り戻すのを繰り返し、なお生きている。
私は陶器から顔を上げて、どうにも情けなく口の端を下げた。
「緊張しているのかもしれません」
彼の君は手を伸ばし、私の首に触れた。私の髪を梳いて、背に流しながら言う。
「私がついているよ」
今日は一族が集まり茶会が開かれる。今頃温室から花を運んで飾り、菓子を焼いているのだろう。
「楽しみにしておいで」
「まさか、私が主役ではないのですから」
私が恐れて言うと、彼の君は可笑しそうに笑った。
「王を産んだ女性が何を言うの」
日が昇り、雪の城に朝が訪れる。彼の君は私の手を取って寝台から降りた。
侍女を呼び、支度を整える。彼の君の方が少しだけ早く準備を終えた。私を待つ間、彼の君はゆりかごに歩み寄る。
彼の君はゆりかごから赤子を抱き上げてあやしながら、目を細める。
「ごきげんいかが? 花の君」
彼の君は私の子をそのように呼び、慈しんで口づけるのをやめない。
「待ちきれない。早く言葉を聞かせて。父君とお話しよう」
彼の君の弾んだ声を聞いて、私はひととき時の流れを忘れた。
私はまだ幼子で、彼の君もまたあどけない少女であるような錯覚を覚える。
時は不可逆だろうか。私たちは何度も戻り、同じことをしているように思える。
小さな子どものように、彼の君に真実を口にしてしまいそうになる。
あなたは女性です。私との間に子が授かるはずがないのです。
私のささいな訴えは、瞳に現れたのだろうか。彼の君はふいに振り向いて笑った。
「愛しているよ。よく私の子を産んでくれたね」
私は胸がいっぱいになって立ちすくむ。
いったい真実にどれほどの価値があるというのだろう。
彼の君は心にしかない、形なきもので私を縛ってくれた。それを冷酷な愛などと、また欲望の結晶などと、わざわざ言葉にして自分を貶める必要はない。
私は心からの敬愛をこめて、彼の君の前で膝をついた。
「私も。我が君から御子を授かったのが、この上ない幸せです」
私は狂った一族の一人として、神話の時代から少しずつ掛け違えながら歴史をつむいでいく。
彼の君はうなずいて、私の手を取って立ち上がらせた。
雪が迷うように積もる音がする。
私は伴侶と腕をからめ、花の香りのする方へ歩き出した。
惑いの城 真木 @narumi_mochiyama
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