第2話 働いてきた!
「お疲れ様です。塾長」
「おや、お疲れ様。柳君」
教室の扉を開けると、大仰な仕事机が目に飛び込む。数年も働けば慣れてくるものだが、最初はやはり驚きが勝ってしまうだろう。
その奥にちょこんと座っている優しげな口調をした塾長は、中年ながらマスコットみのある風体で椅子に座っていた。
見えているか分からないタレた細い目と頭のバーコード。極めつけにギャップのあるスーツ。
この塾では男性は全員スーツ着用の義務がある上、大学生のうちから社会人のような業務量を任せられている。通常の教務に加え、電話応対は無論。成績管理とカリキュラム作成と日程調整まで各個人で処理しなければならない。
はっきり言ってアルバイトに任せる業務量ではないが…………、なんだかんだここにいる人達はこなしてしまうのだ。
ジャケットを授業部屋の適当な椅子にかけて、本日の担当を確認する。
『桜庭 結弦』……やはり彼女の名前が載っている。毎週のこと故に当然なのだが。
彼女は成績が悪い訳では無いが、特筆して良いわけでもない。高校三年生になったのだから、少しはやる気を見せてもらわないとだ。
――――――不意に、後方から呼び声。
「柳先生。お疲れ様です」
「あぁ黒舘先生。お疲れ様です」
振り返るとそこには女性。講師の
栗色の長髪を一つに結んでいて、華美ではないが綺麗な私服。絶世の、ほど誇張する気はないにしろ。十分モテそうな印象のある人物だ。
恐らく大学から直接来たのだろう。女性講師はスーツが不要で少し羨ましい。
小気味よく返答すると、そのまま授業部屋に戻っていった。その後、続々と授業準備に取り掛かっていた講師たちが現れる。
「ん、たかねんお疲れ様」
「柳先生。お疲れ様です!」
「あぁ、お疲れ様です」
大学四年生の俺より働いている先輩講師や一、二年の後輩達。講師の数は三〇人程度の塾だが、曜日によって来る人数はまちまち。今日は実際に来ているのは一〇人ぐらいだ。
かれこれ講師間で雑談を交わしながら授業準備をしていると、早くも生徒たちがやってくる。
基本は中高の現役生のみ。たまに小学生にも教えるくらいだ。
「やっほー先生!」
「…………桜庭さん。こんにちは」
昨日と違わず制服でバッグを下げて教室の扉から入ってくる桜庭は、ニコニコしながら俺のもとに来た。周囲の目からは今のところは良好なコミュニケーションの取れた講師と生徒の関係に見えるだろう。
塾長もあかべこのように首を上下させながら、うんうんと微笑ましげに頷いている。内心冷や汗を少し垂らしつつ、授業部屋の方へと案内していった。
「やっぱりスーツの先生の方がシャキッとしてるね」
「普段だって――――…………ってこら」
「あだっ」
頭をぽんと叩き、制止。幸い他の人には聞かれていない。プライベートを知っているような発言は控えてほしい。
軽く叩いただけなのに大袈裟な反応をして、からかっているのが容易に想像できる。
「あのなぁ……」
「でも事実だし」
「先生だって大学行くときとか人と会う時はもっとマシな格好して――――――」
「人と会うって女の人?」
急に凍てつくような発言でこちらを見る桜庭。
眼からハイライトが抜けている。怖い。
「男だよ。先生にそういった関係の人はいません。言ってて悲しくなるからこの話止めよう」
「へぇ〜♪」
私的に異性の誰かとどこかへ行くことなんて最近は滅多にない。同性と映画に行ったりカラオケに行ったりなどはよくするが、女性の影はまるでない。
その発言を聞いて今度はとても喜ばし気な表情でこちらを見る。早いとこ気持ちを切り替えて、勉強に臨んでほしい。
「じゃ、そろそろ始めていこうか。問題集、前回の続きの所開いて――――」
「はーい」
返事は素晴らしいが、やる気のなさだけは残念な所。どうにか興味の方向を俺ではなく勉強に向けられないものか。
「今日何やるの?」
「ここの数Ⅲの積分。一旦前回の復習からな」
「え〜ここ難しいから嫌なのに〜」
「そうは言ってられないだろう。試験でも出るし、何より受験に…………って。そうだ」
「?」
「志望校って決まってるっけか?」
「あー…………」
さっきまでまじまじと目を合わせてきていたのに、急に明後日の方向を向き始める。
しどろもどろになってあやふやに苦笑を浮かべていた。
「あはは…………」
「目を見て話せ〜。…………別に
「…………うん。まだ決まってない」
「桜庭は理系だよな? 俺は文系だから詳しくは分からないが…………」
「! 先生と同じ大学行く!」
「!? あそこは文系の学部しかないって」
「行きたいー!!!」
駄々をこねた子供のように小言を連ねる。この時期に文転だなんてのは頭の痛いことだから、あまり考えてほしくない。
「数学難しすぎるんだってー! てかなんで先生数Ⅲ分かるの!? 文系でしょ!? 習ってもないのに!」
「あー…………それは……はは……」
お茶を濁して話題を逸らす。
「ともかくだ。今学期中には決めるようにな。あくまで理系の所で」
「先生のとこは?」
「駄目。行きたい理由が不純なものや知り合いがいるからっていうのは一番してはいけない選択だ」
「…………ん、わかった」
珍しく決めつけた口調になってしまった。
人間関係なんていずれすぐ忘れてしまうものばかりなのだから、そんな一時の感情で決めるような真似は、誰もして欲しくない。
少なくとも、俺がそうであったように。
「…………先生」
しゅんとした表情の桜庭は、落ち着いたトーンで俺のことを呼ぶ。少し怖く言い過ぎたか、と反省した。
瞬間、そばで袖をつままれる。
無駄に吐息のかかった声で、こちらを見つめて……
「でも私、先生と一緒に(同じ大学に)いきたい」
「っ…………」
「柳先生? なにしてるんですか?」
突如、後方から女性の冷ややかな声。
焦って振り返ると、そこには黒舘先生が怪訝な顔で立っていた。
「くく、黒舘先生!? これはその」
「今、柳先生と一緒にどうのこうのと聞こえたんですが?」
冷徹な口調のまま、にこやかにこちらを見る黒舘先生。桜庭の表現にも問題あるが、これは言い逃れできない。
「これには事情があって……!」
「なんでもいいですけど、生徒に手を出したらいけませんからね」
「し、しませんよ!?」
「(…………む)」
どうにかその後黒舘先生に理由を話して、納得してもらった。終始桜庭はむっとした表情を作っていた。
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