第4話

彼女との出逢いは、小さな教会であった。佐原が通っていた、千葉市の片隅にある、控えめな装いの教会であった。

 佐原はミッション系の大学を卒業していたが、熱心なクリスチャンという訳では決して無かった。そんな佐原が、教会へ通うようになったのは、ただ単に、家庭からの逃げ場所を望んでのことであった。

 佐原には当時、妻子がいた。関係は良好とはいえず、些細なことできつく面罵してくる妻に、辟易していた。休みの日にも家にいる事が苦痛になった彼が、逃避場所のひとつとして選んだのが、その教会であった。

 毎週日曜に定例の礼拝があり、その後に、教会内にある談話室にて、茶会が開かれる事が多かった。信徒の人々が惣菜や、菓子を持ち寄り、会議用テーブルを囲んで談笑するのであった。佐原は毎回、その場に出席していた。ただ何の気無しに、取り止めのない話をするだけであるが、家に帰ることをあまり望まない彼には、ありがたいくつろぎの空間であった。そしてその場所に、鳥谷美羽がいた。 

 彼女とは、よく席がとなりになった。何度か話すうちに、佐原と彼女は、懇意となった。彼女は美術に興味があり、佐原と気が合った。佐原も絵を見るのは好きであった。教会ということもあり、宗教画のことについて、多く語り合った。彼女はカラヴァッジョが好きであった。

 鳥谷は、以前までは小さな食品会社の、事務員をしていたそうであった。陰気で険悪な職場の雰囲気に心が病み、現在は花見川にある実家にて療養をしているということであった。彼女が教会に通うようになったのも、仕事を辞めてからの事であるようであった。

 彼女は、佐原にだけ気を許しているようであった。他の教会内の人々は、ほとんどが高齢であった。二人は教会に行くたびに、ますます話をするようになった。ある時、教会の帰りに、彼女は車に乗り込もうとする佐原を呼び止めた。彼女は、上野にある西洋美術館のチケットを佐原に差し出した。印象派の展覧会が近日中に行われるらしく、それを見に行くためのチケットであった。鳥谷は、佐原とともに、その場所へ行きたいと望んでいるようであった。佐原は頷いた。そして、その美術館の帰りから、佐原は彼女との関係を持つようになった。

「ねえ、結婚してよ」

 彼女との関係がいくらか続いた頃からであった。濡れごとの後に、彼女は佐原の裸体を抱きしめながら、閨の上でそう囁くようになった。消えいりそうな声ではあったが、強い所望が、あつい息の中にこめられていた。しかし、佐原は現在の家庭生活を放擲してまで、彼女と婚姻をすることを望んでいなかった。煮え切らない佐原の態度に、時期に彼女の情念は余計に燃えたぎった。彼女はますます、佐原へ結婚に対する所望を、強く剥き出しとした。

 佐原は、危機感を持った。鳥谷を好いてはいたが、ゆきづりの愛以上の感情を、彼女に対してかんじていなかった。熱い鍾愛からもれる彼女の言葉は、かえって佐原の心を重くした。そして、一時の浮薄な熱情に浮かされ、不貞をはたらいたみずからに対して、佐原はつよく後悔した。

 やがて鳥谷は、自らの想いに、佐原がこたえてくれる気がないという事を悟った。彼女の佐原に対する依存は、その時には、膨大にふくれあがっていた。絶望した彼女は、ある時、自死を図った。それは突然の死であった。

 場所は茨城の笠間にある、結婚式場の廃墟であった。なぜ彼女がそのような場所を自死の場へ選んだのか、わからなかった。田園に囲まれた、色褪せた場所であった。しかし、結婚式上の跡地というものが、佐原には嫌に、因縁めいたものを感じさせた。

 その結婚式場の披露宴を行う、大ホールへと続く階段には、未だ真紅の絨毯がひかれている。そしてその紅の道が伸びる階段の踊り場に、はめ殺しのステンドグラスが二枚並んで、今もまだ残存している。彼女は、そこにあるステンドグラスの前で、死に絶えていたようであった。その二枚の硝子には、空を跳ぶペガサスの背に跨った裸体の男が、左側の窓から弓矢の弦を張り、隣の窓の右上に描かれた、これまた裸体でペガサスに跨った女に狙いを定めている絵が描かれていた。 

 かつて、幸福の最中にいる花嫁が、何度も踏みしめたそのヴァージンロードの途上にあるステンドグラスの前で、彼女は、自らの胸にナイフを突き刺し、息たえたのである。佐原は何度も、彼女の遺体が横たわるその光景を、脳裏の中に描いた。 

 その想像の中では、彼女はひどく汚れた真紅の絨毯の上に、仰臥していた。苦悶に歪んだ二つの目は、きつく閉じられていた。ナイフが刺さり、引き裂かれた彼女の胸の皮膚の間からは、さらさらとした血が滲み出ていた。シャツを透過したその血の滴は、周りのバージンロードよりも、床を真紅に染めあげている。外からの弱光に煌めく二つの硝子絵の前で伏せた彼女は、その絵の結末を体現したかのように、いつまで経っても、その真紅の道の上で、静かに微動だにしない。

 佐原が頭の中にえがく彼女の死に際の姿は、いつもそのようなものであった。

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