第3話

 その夜、佐原は自宅の寝室にいた。開け放った窓から、雨音が聞こえていた。柔らかで、耳を擽る心地であった。昼間はあれほど晴天であったのに、いつのまにか降りだした雨であった。夜風がそっと、薄墨色のカーテンを揺らした。昼の湿暑を忘れさせてくれる冷涼さを孕んだ空気が、剥き出しとなった佐原の腕をやわらかに包んだ。少し遅れて、雨に濡れたアスファルトの匂いが、薄あかりの室内へと立ち込め始めた。

 何もかもが静けさに満たされていた。かすかな雨音以外、耳にはいる音は無かった。妻子と暮らしていた頃は、この様な静けさを感じたことは無かった。しかし、離婚し、この場所で独り暮らすようになってから、彼は孤独と融和し、時が凍りついたような静寂の中で、夜を過ごす事が当たり前となっていた。

 彼は小さなストュールに腰掛け、机の天板へ顔を俯けていた。古家具が好きな友人から譲り受けた、小さな木製のデスクであった。天板の上には先ほど現像したばかりの写真たちが、並べられていた。彼は、そのデスクの上の写真を、静かに見つめていた。

 佐原は結局、あの後に、長い時間をかけて境内を歩きまわり、思うままに写真を撮り続けてきたのであった。その写真たちには、境内で撮影してきた、紫陽花達の姿がおさめられていた。どの写真に映る紫陽花も美しかったが、中でも佐原が一番気に入ったのは、あの一番初めに撮影をした、瑞鳳門へと続く石畳の道での写真であった。

 その写真が映し出すものは、昼に見た光景と同じであった。破砕された木洩れ日たちが、石畳の道や、道の両端に咲き誇る紫陽花の花々に振り撒かれていた。影になっている場所の花々と、落ちてきた木漏れ日にまとわれる花々の間の光の濃淡は、精巧なステンドグラスの様に、さまざまな輝きの深浅さを混淆させており、美しく見えた。写真の上部には、木々の梢にやどる緑葉の蝟集する姿が映し出されていた。葉と葉の僅かな隙穴から覗く淡い水色の空は、初夏の清々しさを、切なくなる程に感じさせていた。

 佐原は見つめていた写真から目を離し、琥珀色の液体が内包されたグラスを煽った。彼は、酔いがまわり、あつくなって来た目元をこすった。彼は目を閉じたままに、その写真の中に見つけた、ある異物の事について考えていた。気に入った写真であったが、その写真を見つめていると、ある奇異なものが写っていることに、彼は気づいた。昼間に見た光景と、なんら変わりのない景色をおさめた一枚である筈が、そのあるものが写っていることにより、何気ない写真は、佐原にとって強く不気味なものに変幻してしまった。

 佐原は目を見開き、もう一度、その写真を見つめた。佐原が抱く違和感の正体は、写真中央からまっすぐ伸びる、瑞鳳門をくぐった石畳の道の先にあった。佐原は、そこに誰かが立っているのを見つけたのだ。佐原はそれがすぐに、女の後ろ姿である事がわかった。

 佐原は最初、馬鹿な、と思った。写真を撮る直前に、彼はその門の方角を、見つめていた。しかし、その時には、門の先に誰かが立っている気配など、微塵もなかったのだ。しかし、その写真の石畳の道の先には、確かに人の後ろ姿が写っていた。その場所までの距離は遠く、写りもかなり小さくはあるが、スカートを履いた女の後ろの姿が、間違いなく、朧げに、浮かび上がっていた。

 佐原は、寒気をおぼえた。彼を慄然とさせたのは、その女が着ている洋服であった。その女は黒いブラウスの上に、キャミソールを身につけていた。下が折り目のついたスカートになっており、それは紫と水色の混じった柄をしていた。あの日、佐原とともにこの場所へ来た、鳥谷美羽の格好と、全く同じであった。

 佐原はさらに、その後ろ姿をよく見つめた。ひろひらとした黒い裳裾の下から、茶色のソックスを履いた脚が、下へ伸びていた。靴下の履き口と、キャミソールの黒い裾の合間を橋渡す白い素足の部分は女らしく、少し丸みを帯びた曲線であった。髪は肩先まで伸ばし、頭頂と毛先の方が、陽光を吸い込み、艶が出ていた。太ってはいないが、肩周りは少し、丸みを帯びて、柔らかみを感じさせるからだつきの女であった。その女は、スカートの裾を掴み、エカーテをする様に、左右に生地をひろげていた。佐原は息をのんだ。見れば見るほどに、その後ろ姿は、鳥谷美羽とよく似ているように感じられた。

 佐原は瓶の中にある琥珀の液体を、グラスへ注いだ。彼は再びそれを、一気に飲み干した。身体は熱く上気し、視界がぐらりと揺らいだ。

 佐原はひどく疲れを感じた。彼はおもむろにストュールから立ち上がった。そのまま天板の端へ置かれた、円筒型のデスクランプへ手を伸ばした。半透明の筒を通して、柑子色の灯りを浸潤させていた灯りは消え、室内は暗闇につつまれた。彼はテーブルのすぐ脇に置かれたベッドへ向かった。このまま何もせずに、眠ろうと思った。 

 鼠色のかけ布団を捲り、中に入った。布団の中は、嫌に湿気ているように感じた。しとしととした雨音が、体を横たえた佐原の耳に、聞こえてきた。先ほどまでは心地よく感じていた雨音であったが、今の佐原には、こちらを嘲る、不気味な囁き声のように聞こえた。

 佐原は目を閉じた。瞳にさえぎられ、外界との接触を封じられた視界の中に、またもや鳥谷美羽の顔が浮かんだ。思い出したく無い女であった。佐原は今日、あの場所へ行ったことをひどく後悔した。彼女の存在は、記憶の底へ沈めておくべきであったのだ。あのような思い出の染みつく場所に長居したことにより、彼女の記憶の残滓が蘇ってきてしまった事は、実に迂闊だった。そればかりでは無く、あの写真の中に、彼女の怨念を封じて、この場所まで持って帰って来てしまったのであろうか。

 佐原は不意に浮かんだその様な現実味の無い考えに、一瞬心の中で自嘲した。だがすぐに、そのような話も笑い事では無いと思い直した。それほどまでに、あの写真の後ろ姿は、彼女とよく似ていた。鳥谷との悲劇的な最後を鑑みれば、彼女は佐原の元に、怨霊となって化けて出てもおかしくはないと思えた。佐原の背筋は、また冷たくなった。きつく目を閉じ、他のことを考えようとした。しかしそうしようとすればする程に、彼女の生前の顔が鮮明に浮かんだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る