第2話

 仁王門から向かう参道門の途中、右に折れる小道がある。その小径の先に、弁天池はあった。弁天池は、水面にすいれんが浮かぶ、せまい池であった。中央には小さな浮島があり、その島の上にはいくつかの灌木に周囲をつつまれるように、小さな厨子が建てられていた。にごった色の水面から立ち上がる、しめり気のある空気とあわせて、どこか妖しく、霊妙な雰囲気のある場所であった。そして、その弁天池へとつづくこの小道の両端には、彩り豊かな花弁を掲げる紫陽花達が、溢れんばかりにうえられているのであった。

 新緑の葉を風にざわめかせる木々が真上に伸びており、紫陽花の花々はその緑陰の傘下に浸漬されていた。紫陽花の幹を、厚みのあるみずみずしい鮮緑の葉っぱ達が、数多く覆っていた。葉脈を彫りつける、それらの葉たちの表面に、紫陽花の花たちは、安らぐ様に咲き誇っていた。

 それらの花々はまだ咲きはじめたばかりで、一枚一枚の花弁に瑕疵がほとんど見当たらなかった。生々しさすらを感じさせるほどの艶美さが、あえかな色にやどっていた。水色や紫など、花々の多様な色彩のなす、彩り豊かな織り物が、そこに拡がっている様であった。中でも佐原の目を引いたのは、薄群青の色をした花弁たちであった。それらは、新緑の葉に破砕され、細かい粒子のように降り注いできた木洩れ日を身にうけ、白銀の艶を浮かべていた。その鉱物じみた玲瓏な姿は、冴出る蒼然とした月光の下で眺める、凝氷のようであった。

 佐原は、視線をあじさいの花弁からあげた。そして正面に伸びていく、石畳の道の先を眺めた。少し苔むし、木漏れ日が胞子のように細かく散らばるその道の先には、瑞鳳門と呼ばれる木組みの門があった。木々の梢の僅かな葉の間隙をすかして、檜皮葺の屋根の表面が視認できた。あそこの門を潜ると、弁天池の前へと出るのであった。

「美羽」

 佐原は、その女の名前をそっと呼んでいた。彼女の名前は鳥谷美羽といった。今はもう決して会うことの出来ない、亡き女であった。彼女は三年前、あの瑞鳳門の下で、佐原に写真を撮って欲しいとせがんできた。佐原と歩いていた彼女は、黒いブラウスの上から、紫や水色の色彩で布地が彩られたキャミソールを着ていた。よく見ると、それらは紫陽花を繚乱と描いた柄であった。彼女は、咲き乱れるあじさいの花々の色彩に似せて、服をあつらえてきたのであった。彼女は、その着飾ってきた自らの姿形を、佐原にカメラで撮影をして欲しかったのである。

 美羽は、その門の入り口の前に立った。白い初夏の陽射しが、彼女の真ん中で分けた髪の上に落ちた。薫風が吹き、肩の先まで落ちた毛先が、柔らかく靡いた。彼女は少しおどけて、エカーテをするように、折り目がついたキャミソールの裾を持ち上げた。頬が強張るように、線が斜めにくっきり浮かびあがっていた。いつも彼女が浮かべる、不器用な笑みであった。笑っているためか、朱色の唇の両端は柔らかくつり上がっていた。

 私はその瞬間を、構えたカメラのレンズの中へ、閉じ込めた。吹き抜けていく薫風は、両脇の道を彩るあじさいの花々と、彼女が持ち上げたスカートの裾に、微弱なゆらめきを与え続けていた。

 これが、美羽と共に来た、この場所での一断片の記憶であった。その次の年に、彼女は死没した。その死の要因には、佐原の存在が、重く関わっていた。できれば思い出したくないつらい記憶であった。今までは、それをあえて想起することはせず、無理に心の底へ沈殿させる努力をしてきた。しかし、今日この場所で、彼女との思い出のひとかけらが、思わぬ形で萌蘇してきてしまった。

 佐原は、瑞鳳門の方へと伸びる石畳の道の先を見つめた。細かい木洩れ日の光と、緑陰が忙しなく、互いの居場所を争い合うように蠢き合っていた。その光と影の明滅の中で、道の両端の紫陽花たちは、舞踊するように、夏風の中を靡いていた。その門の下には、誰の姿もなかった。ただ、過去の彼女の姿が、佐原の記憶の中にちらついた。

 佐原はおもむろに、スマートフォンを取り出すと、その景色をレンズの中へ収めた。短いシャッター音が、心地いい風のざわめきの中で、静かに鳴った。

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