緑陰の幻影

サロメの舞踏

第1話

 石段を下り終えた先に見える、御影石の埋め込まれた広い参道には、参拝客の通りが、隆盛であった。参道を歩く人はみな、どの人も、境内に咲きほこる淡い色付きの花弁の玉を見つめながら、ゆっくりと歩を進めているようであった。彼らが歩みをすすめる御影石を敷きつめたその道は、初夏の昼光をうけ、犀利に輝いており、そのつよいてり返しは、佐原恭輔の眸子を、まばゆく細めさせた。

 佐原は、端正に層が積みかさねられた、五重塔の朱色の入口を背後に立っていた。ここは松戸市にある、紫陽花の名所として有名な本土寺であった。佐原は今日、この寺院の境内にある、亡き母親の墓を、久々に訪れに来ていた。墓はこの塔の背後の敷地に、広がっていた。焼香をあげた後に、すぐに帰るつもりであったが、境内に咲く紫陽花の淡い色彩に、彼は気持ちが惹かれ始めていた。少し境内を見て回ろうと、彼は目の前の石段を下り始めた。

 その石段は、踏板のふち等に、欠けている部分が多く目立った。石段脇の傾斜には花圃がととのえてあり、そこにも紫陽花の葉が生い茂っていた。その葉の上に、水色の玉が、幾つも点在していた。それは小さな蝶がより集まったかのように、可愛らしい一枚一枚の花弁で出来上がっていた。吹かれた風に、さっと四散して、消失してしまいそうな程、繊弱に見える花弁の集まりであった。

 佐原は、石段を下り終えた。参道は左右に伸びていた。この参道は、仁王門から本堂までをつなぐ広い道であった。仁王門は、境内の入り口である朱色の高楼であり、そこから亭亭と伸びる木々の木陰を潜り、石畳の参道が、真っ直ぐに、伸びている。

 佐原は、弁天池の方へ行こうと思い、その参道を右へ向かって歩き始めた。本堂とは逆の、仁王門の方角であった。

 母の墓地があるだけに、佐原はこの神社を何度も訪れた事があった。その為、境内を歩くことにはなれていた。大抵は、母親の墓前へ、一人で焼香をあげにくるだけであった。しかし彼はただ一度だけ、当時交際をしていた女と、この場所へ訪れたことがあった。

 それは今と同じ梅雨時であった。紫陽花を見に行こうと、佐原の方から彼女を、この場所へ誘ったのであった。その思い出は、佐原にとって、忘れがたい記憶であった。紫陽花の咲くこの季節にこの場所を歩くと、その時の記憶が、嫌でも蘇ってくるものであった。

 前方から、多くの人々が歩いてきた。本堂の方へと歩みを進めていくその人々の中に、男の腕をとる若い女がいた。佐原はすれ違うと、後ろを振り返り、彼女の背中を見つめた。白い半袖のブラウスに、黒のキャミソールを着ていた。長く美しい栗色の毛が、細い背中の上で揺れていた。後ろ髪の毛先は軽い湾曲を描きながら、少しちぢれていた。寄り添う二人の姿は、幸福そうに佐原の目にうつった。

 佐原がこの場所を彼女と訪れてから、すでに三年の月日が経っていた。その時の自分も、あのような幸福を抱いたままに、この場所を歩いていたのであろうか。佐原は、今になって彼女のことを思いだし、胸が疼くのを感じた。それは深い罪悪感からくる、辛い感情の残痕であった。

 佐原はふと脚をとめて空を見上げた。ちぎれた綿の様な汚れをしらぬ白い雲が薫風にのり、軽妙に浮遊していた。その雲間からのぞく夏空は、皮肉なほどに澄んだ淡碧であった。

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