024:心を変えてくれる人(side:イルザ)
「……」
ベッドで横たわり、穏やかな寝息を立てる男を見つめる。
顔には私が煎じた薬を塗りたくり、苦しくないように優しく布を巻いていた。
治癒師にも見てもらって治療を施して貰ったが……まぁひどいものだ。
鼻の骨は折れていて。
顔面は大きく腫れあがっていた。
歯も何本か折れていて、元に戻すのに金が掛かった。
この事はハガードには秘密にしておくが。
治癒師曰く、よく生きていたと褒められた。
「……まさか、本当に殺す気で殴るとはな」
それだけ、ハガードのやる気が伝わったんだろう。
アイツはハガードの為に治療費を出して、そのままの足で組合へと行ってしまった。
アイツが何をしに行ったのかは分かる。
アイツも私も理解していたんだ。
どの道、私と手を組んだところでドラゴンを討伐する事は出来ないと。
頭では分かっていた。
しかし、アイツの英雄になる願いと銀級冒険者としてのプライドが邪魔をしていた。
間違いなく、ハガードが何とかしていなければアイツは一人で無謀な挑戦をしただろう。
私は此処で眠る男の事を誇りに思う。
世界を救った訳でも、多くの人を幸せにした訳でもない。
縁も所縁も無いたった一人の男を救っただけだ。
しかし、私にとってもエイマーズにとってもこいつは立派な英雄だ。
『……俺は助けを求める奴を見捨てない。いや、見捨てたくない』
「……ふふ」
故郷で聞いた物語。
そこに登場する勇者と呼ばれたヒューマンの男。
全ての人々の救世主にして、世界を救った大英雄。
邪神龍を打ち倒した伝説のパーティのリーダーで……不思議だな。
話で聞いていただけの存在と目の前で眠るボロボロの男が。
何故か、私には重なったように見えていた。
話を聞かせてくれた母も言っていた。
勇者は世界を救ったが、知らないところでも多くの人々を救っていたと。
『困っている人、助けを求める人……きっと勇者様はそんな人たちを放っておけなかったのね』
『優しい人なんだねぇ!』
『ふふ、そうね。貴方も勇者様みたいに、困っている人がいたら――』
「……」
記憶がフラッシュバックした。
思い出の中の母は子供の私に優しかったが。
掟に厳格な父には逆らえなかった。
困っている人を助けてやれ、そう言ったんだろう。
それなのにあの人は、私の事は助けてくれなかった。
だからこそ、私は里を出て出来るだけ遠くを目指して歩き続けた。
気づけば、何十年も経っていて。
私は遥か南東の地に流れ着いていた。
何がいけなかったのか……いや、悪い事なんて何も無かった。
父は掟を守ろうとしただけだ。
そして、母も父の立場を考えて何も言えなかっただけだ。
悪かったのならば……それは私だろう。
全てが嫌になった。
何もかもが嫌いになった。
だから、私は里を飛び出して国から離れて……駄目だな。
「……お前は眩しすぎるよ……私はお前を直視できない」
ハガードはまるで夜空に輝く星のようだ。
道に迷う人々を優しく照らし、道を示す存在のようで。
短い間であったが、こいつの人となりは何となく分かった。
こいつは馬鹿でスケベで、鈍感で……でも、真っすぐだ。
自分に正直で相手にも誠実で。
嘘をつけないような奴で、誰であろうとも助けようとする。
利益なんて求めていない。いや、そもそも考えてすらない。
ただ助けてほしそうにしていたから、それだけでこいつは行動を起こせる。
眩しいよ。自分の我が儘で現実から逃げて来た私とはまるで違う。
ルーク・ハガードは英雄になる器を持っている。
それは才能でも、単純な力があるからでもない。
勇者のように困っている人を助けられるのだから。
こいつの周りにはきっとこの先の冒険で多くの仲間が集まってくる。
……だからこそ、私なんかがこいつの傍にいてはいけない……私はお前の旅には相応しくない。
私は怖いんだ。
逃げて来た里が、忘れようとした国が近づくほどに不安になる。
お前が楽しみだと思う旅の先が、私は堪らなく怖いんだ。
美味しいものを食べて、見た事も無い景色を見て。
ハガードは一喜一憂をして、旅の思い出を子供たちに聞かせてやるんだろう。
そんな奴の旅に私が同行してしまえば、折角の冒険も楽しめない。
……目覚めたら、伝えよう。次の国でお別れだと。
そんな事を考えれば、胸がちくりと痛みを発した。
別れなんて何度も経験してきた。
これが初めてでは無いと言うのに。
何故か、私はこの男に別れを告げるのが溜まらなく嫌に感じた。
考える事は出来るのにな……言葉に出して言えない気がする。
眠っているお前は静かで。
何も考えていなさそうで。
でも、お前はきっと今も私の声を聞いているんだろう。
そう考えれば、こんな時でもお前に言葉を伝える事が出来ない。
「……私は臆病者だ……お前に笑われてしまうな」
眠る彼の頭を優しく撫でる。
彼は少しくぐもった声を出した。
私はハッとして彼から手を離して、小さく謝った。
「……ぅぅ……めしぃぃ……ぅぅ」
「……ぷ……こんな時も、食事の事か……?」
彼の声を聞いて、不安が嘘のように消えていく。
何故か、心がとても温かい。
私は彼の言動一つで簡単に変わる心に疑問を抱いた。
これは何だ……この揺れは……?
胸を押さえて考えようとすれば、扉の外に気配を感じた。
ノックをしない事から迷いがあるんだろう。
足音は消していたが、殺気は感じない。
私はゆっくりと立ち上がってから、扉の前に立つ。
「……誰だ」
「……俺だ」
名を名乗らなかった。
しかし、その声で誰なのかは分かった。
こんな夜更けに尋ねて来るんだ。
何かを決心したのだろう。
私は扉の鍵を解除してから、ゆっくりと扉を開けた。
そこには笑みを浮かべて片手を上げるクライド・エイマーズがいた。
私は扉の外に出て、静かに扉を閉める。
どうしたのかと尋ねれば、彼は手にしていた何かを私に渡してきた。
それを受け取って見れば手紙である。
「……手紙とは豪勢だな……ハガードにか?」
「あぁ、目覚めたら渡してくれ……その時には俺はもう王都にはいないからよ」
「……どういう意味だ。まさか、討伐に」
「ちげぇよ……依頼の件は破棄してもらった。組合にいた奴らには謝った」
「……大丈夫か?」
「あぁ? あぁ……まぁ馬鹿にされたし、茶化されたし、金返せって言われたけど……何でかな。すげぇいい気分だぜ」
エイマーズはにかりと笑う。
初めて会った時のような野心に満ちた危険な笑みじゃない。
腫物が落ちたようなすっきりとした笑みで。
私はハガードがこの男の心を変えたんだと改めて分かった。
「アイツには改めて礼を伝えてくれ。ありがとうってな……俺はまた一から出直しだ。ドラゴンの討伐は諦めてねぇけど。今は心から信じられる仲間を探しに行くよ。金や利益で繋がる関係はもうこりごりだからな、はは……それに、ハガードみてぇな奴がいるって分かったしな」
「……ふふ、それはどうかな。アイツは特別だ。アレほどの奴はそうはいないぞ?」
「はは、違いねぇ! でも、まぁ。何とかなるさ……それじゃ、俺は行くぜ」
「あぁ達者でな」
「おう……と、それとな」
奴は鞄を肩に掛けて去っていこうとした。
しかし、足を止めてから振り返って言葉を発した。
「アイツの事、絶対に逃がすなよ。あんなに気持ちの良い馬鹿は早々いねぇ」
「……ふっ、そうだな」
「あぁ、目を離した隙に他の女に盗られるなよ!」
「――なっ!? おま、何を勘違いして!」
「ははは、初心だねぇ! けど、気持ちは早めに伝えろよ! これは俺の最後のアドバイスだ。あばよ、不器用なエルフ女!」
「おい、待て――くそ、逃げ足は速いな」
奴は風のように去っていった。
残された私は行き場の無い手を静かに下ろす。
そうして、奴の言葉を思い出しながら静かに自分の掌を見つめた。
……私とハガードはそんな関係じゃない……だが……。
逃がしたくはない。
叶う事ならもっと先へと行ってみたい。
私にとっては来た道を戻るようなものだが。
あの時は何も考える事無く、ただ足を動かしていた。
周りの景色に心が躍る事も、食べた食事に感動する事も無かった。
まるで、記憶がごっそりと抜き取られているようであり……楽しいだろうな。
ハガードの隣でいられたのなら。
きっと二度目であろうとも楽しめる筈だ。
アイツは馬鹿みたいに笑って、子供のように目を輝かせるんだ。
そして、私はそんなアイツを嗜めて、人生の先輩としてアイツを……何だ。
「……やっぱり、別れたくないんじゃないか……はは」
まだまだ、一緒に旅がしたいんだ。
これからもアイツの知らない事を教えてやりたいんだ。
アイツが目指す場所へと私も行きたいんだ。
『そうだ! 叶えたい夢がある……それと、師匠との約束もあるからな!』
「夢、か……私には、そんなものは……」
もしも、夢があったのなら私は迷わなかったのか。
夢があって叶えようと思えば、過去の過ちも乗り越えられたのか。
「……」
私はゆっくりと片手を下ろす。
考えたって答えは出ない。
答えを出してくれるような存在だって此処にはいない。
私はどうしたいのか。
私はどうすればいいのか……焦らなくてもいい。
今は答えが出ないだけだ。
次の国へと行って、アイツがその先へ行くまではまだ時間がある。
その時になるまでに答えを出せばいい。
不安や恐怖はある。
自分自身で出した答えに後悔するかもしれない。
でも、それはその時にならなければ分からない。
今はただアイツとの短い旅を続けよう。
この先でどうな事になるのかは分からない。
でも、何故だろうか……ハガードといれば何かが変わるかもしれない。
予感では無い。
単純にそんな気がするだけだが。
アイツは人の心を確かに変えて見せたんだ。
私はそんなアイツの事が……?
「……温かい……不思議だな」
また、心が温かくなった気がした。
一瞬、脳裏にアイツの笑みが見えた気がした。
それだけで、心がぽかぽかしてきた。
私は片手で胸を押さえながら、小さく笑う。
……悩むのは終わりだ。今はただ、アイツが安心して眠れるように……。
私は手紙を大切に持ちながら、扉を開けて中に入る。
そこには変わらず寝息を立てるハガードがいた。
彼はまた何かを呟いていて、私は何を言っているのかと椅子に座って――
「え、えへへ……おっぱい、いっぱい……ぐひ、ひひひ」
「……」
何の夢を見ているのか分かった。
私は静かに殺気を上げながら、奴の頬を人差し指で軽く突く。
ハガードはうめき声を上げながら、うなされていた。
私は指を放してから、反省しろと呟いた。
「全く……いや、関係ないだろ……どんな夢を見たって……っ」
またおかしな気持ちになった。
ハガードの夢が分かって、心がムカムカした。
普段なら無視しているのに、何かせずにはいられなかった。
私は自分の心が変であると思っていた。
ハガードと会ってから、私の心にも変化が出ているのか……本当に不思議な奴だ。
私は眠っている男を見つめながら。
手紙をそっと近くの台に置いた。
今はただ穏やかに眠れ。
そして、傷が癒えれば次の場所へ行こう。
その次はあるかは分からないが。
私はお前の旅が幸福である事を心から願っている。
ズレていた布団をかけ直してやりながら、私は微笑みながら眠っている男を静かに見守っていた。
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