003:癒しの宿

 小鳥の鳴き声が小さく聞こえる。

 コツコツと何かが窓を叩くような音も聞こえていた……窓?

 

「うぅ……あれ? 此処は、何処だ?」


 ゆっくりと瞼を開ける。

 知らない綺麗な木の天井が目の前にあった。

 ふかふかのベッドの上で寝ており、コツコツと叩くような音の発生源に目を向けた。

 すると、ガラスの窓を小鳥がくちばしでつついていた。


 記憶が不確かだ。

 何故、俺はこんな上等な部屋で眠っているのか。

 窓らしきものを見れば、薄いガラスのようなものがつけられていた。

 不純物は無さそうであり、綺麗な外の景色が見えていた。

 教会くらいでしか見た事がないようなもので、俺は少し驚く。

 これほどに綺麗なガラスともなればかなりの額になるだろう。

 そして、今俺が眠っているベッドもかなり高価なものな気がする。


 藁でも無ければ、羊などの毛でもない。

 ほどよい弾力であり、掛けられていた毛布もすごく綺麗だ。

 枕もふかふかであり、匂いを嗅いでみればほのかに花の匂いがした。


 何から何まで上等な品々だ。

 俺は自らの待遇の良さに嬉しさよりも不気味さを感じていた。

 一体、俺は何でこんな上等な部屋で寝泊まりしているのか。

 両腕を組みながら考えて……ん?


 扉をノックする音が聞こえた。

 誰なのかは分からなかったが、入っても良いと声を掛ける。

 すると、ガチャリと扉を開けて女性が入って来た。


 身なりの良い黒髪の乙女だ。

 給仕係のような恰好をしたその子はにこりと微笑む。


「お食事のご用意が出来ています。準備が整いましたら下へお越しくださいませ」

「あ、はい……いや、待ってくれ!」

「……? 何でしょうか」


 少女は首を傾げる。

 俺は自分が何でこんな上等な部屋に泊まっているのかが分からないと伝えた。

 もしも、俺が自分の意思でチェックインしたのならば幾らくらいするのかも聞いておく。

 すると、彼女はにやりと笑った。


「……高いですよ。“スイート”ですから」

「す、すいーと?」

「えぇ一番良い部屋と言う事です……それはもうかなりの額ですね」

「そ、それは……っ!」


 俺は自分の荷物を探す。

 そうして、ベッドの横に置かれた鞄を見つけた。

 俺はそれを手繰り寄せてから中身を急いで確認した。

 すると、ちゃんと金が入った袋があって安心した。


 俺が胸を撫でおろしていれば、少女はくすりと笑う。

 俺が恐る恐る見れば、少女は頭を下げて謝罪をしてきた。


「申し訳ありません。少々、戯れが過ぎました……貴方様は、この宿の主人であるマーサ様のご指示によりこの部屋の宿泊を許可されておりますのでどうぞお金の方はご心配なく。それでは」

「え、あぁ、はい……? 主人の許可って……何だ?」


 給仕の少女は一礼し出ていく。

 俺は彼女が去った扉を見つめながら首を傾げた。


 分からないことだらけだが。

 主人が泊っても良いと言った上に金がいらないのであれば。

 これ以上は心配する事なんて無いのだろう。

 俺はそう考えてから、それならばとベッドから出て――


「あぁそれと、衣服の方はそちらに置かせていただきました。もしも入浴をご希望であればそちらの扉の奥にバスルームがあるので……ふふ」

「……あ」


 ベッドから出てポーズを取っていれば。

 今度はノックも無しに少女が入って来た。

 彼女は俺の姿を見てくすりと笑っていた。

 俺は自らの格好を確認し、彼女が微笑んだ理由を察した。


 全身が高級な寝間着姿ではある。

 しかし、紐で縛るものだったのか。

 前の方がひらりとはだけてしまっていた。

 俺の鍛え上げられた腹筋や下半部がもろだしである。

 俺は笑みを浮かべながら急いで下を隠した。

 見慣れているのか彼女は「それでは今度こそ失礼致します」と言って去っていく……おのれぇ。


 身内以外に見られた事を恥じながら。

 俺はいそいそと寝間着を脱いで自分の服に着替えていく。

 青を基調としたチュニックに灰色のズボンと茶色のブーツ。

 革の鎧を着こんでからグローブなどをはめ込んで確認する……よし。


 洗濯したのだろうか。

 汚れが全て綺麗に洗い流されており、良い匂いがした。


 昨日の夜に訪れたとして、たった一夜で洗濯し乾かしたのか……どんな技だよ。


 宿屋の本気に恐れおののきながら俺は衣服を全て着終える。

 見れば鞄の他にも俺の愛用の剣が立てかけてあった。

 俺はそれを装備しながら、これで準備は万端だと思った。

 鞄を背負いながら、先ほどの少女の言葉を思い出し朝飯を食いに行く。

 思えば、昨日は何も食べていなかった気がする。

 腹ペコであり、腹が今もぐるぐるとなっていた。

 俺は腹を摩りながら、上等な部屋から出る為に扉を開けて外に出た。


 部屋の外に出れば、広い廊下があった。

 両隣には別に二つ扉がある。

 下へと続く階段を探せば、奥の方に設置されていた。


「……ん? 何か、香ばしい香りが」


 鼻を鳴らせば下から良い匂いが漂ってくる。

 俺は匂いにつられるようにふらふらと歩いて階段を下りて行った。

 この宿屋のものはどれも綺麗で高そうだ。

 階段に至っても一段一段が丁寧に作り込まれてピカピカだ。

 音もしない階段を下りて行けば、下にはそれなりに人がいた。

 ふかふかの長い椅子に座って談笑する奴らや受付らしきところで話をする奴もいる。

 中でも、香ばしい匂いが漂うところからは多くの人の声が聞こえてきた。


「此処か……おぉ!」


 その部屋の中を覗けば、多くの人がそこにはいた。

 布が掛けられたテーブルの前に座った客たち。

 美味しそうな料理を食べながら、彼らは朝の時間を優雅に過ごしている。

 部屋の中に入って周りを見れば、先ほどの少女のような装いの人たちが働いていた。

 皆、気持ちのいい声であり笑顔がさわやかだ。


「あんな笑顔見たら、最高の一日になるって思っちまうな」

「全く同感だよ」

「――うお!?」


 背後から声がして驚く。

 全く気配がしなかったからだ。

 視線を向ければ妙にガタイの良いおばさんが立っていた。

 赤毛の髪を生やして頭に白い頭巾を巻いていた。

 鋭い目は青色であり、彼女は丸太のように太い腕を組みながらにやりと笑う。


「昨日はうちの馬鹿旦那が世話になったね。アンタのお陰で儲けたって言ってたよ」

「……昨日? 旦那……儲けたって……あぁ!!」


 俺は彼女の言葉で全てを思い出す。

 そういえば、昨日は酔っぱらいの男を助けて飲み比べの勝負をしたんだ。

 そうして、俺は見事に初めての飲み比べで勝利してそのまま眠った。


「ってことは、アンタはあの小太りのおっさんの」

「あぁ私はアイツの奥さんってやつさ……たく、酒癖の悪さは結婚しても治らない。挙句に若者に迷惑を掛けるなんてね。アイツに代わって謝るよ。詫びと言っては何だが。今日は好きなだけ食べていきな」

「あ、あぁ。ありがとうございます……で、旦那さんは?」

「ん? アイツなら今頃はせっせと料理を作ってるだろうさ。大金が稼げてね。浴びるほど酒を飲んできたって言うのに、珍しく頭が冴えているらしいよ。今日はお客も多かったから、アンタには本当に何度礼を言っても足りないよ。本当にありがとうね」


 彼女はにしりと笑い俺の肩を叩く。

 俺は頬を指で掻きながら、それなら良かったと思った。


「因みに、私はこの癒しの宿で主人をやってるマーサ・アドコックっていうんだ。旦那はビル・アドコック。旅人さんの名前は?」

「俺はルーク・ハガードです。よろしくお願いします……ところで一つ聞きたいんですけど良いですか?」

「あぁ別に構わないけど……ここじゃ他のお客の邪魔だ。席で話そうか」

「分かりました……じゃ、じゃあ」


 俺は彼女の案内の下に席へと移動する。

 俺が座る席は奥のようであり、他の客の席とは少し位が違う雰囲気だった。

 窓際の席であり、仕切りが立てかけられてあってそれなりのスペースが確保されている。

 席に座ろうとすればいつの間に立っていた給仕の女性に椅子を引かれた。

 俺は礼を言いつつ座り、彼女から渡されたメニュー表を見つめた。

 恐る恐る開いてみたが、内容が凄まじくて目が飛び出しそうだった。


「……“キングシャーク”のヒレスープに“悪魔貝”のステーキ……“百年草”のサラダに“女神の涙”と“国宝桃”のカクテル……あのぉ、マーサさん? どれもこれもかなりの高級食材のような気が……」

「ん? 当然さ。これはスイートを利用したお客様専用のメニュー表だからね。ま、値段は気にするんじゃないよ」

「そ、そうですか……じゃ、じゃ……」


 俺は腹ペコであったから、適当に腹に溜まりそうなものを注文する。

 朝だから無理をするのも良くないだろうが。

 生憎とこんな高級食材をたらふく食べられる機会なんて今後二度と無いだろう。

 だからこそ、後悔しないように今此処でたらふく食っておく必要がある。

 俺は此処で動けなくなろうとも食う覚悟を決める。


 マーサさんを見れば給仕の少女に「軽めのものと食後にコーヒーをね」と言っていた……こーひー?


 聞いたことの無いものだと感じた。

 そうして、給仕の女の子は一礼し去っていく。

 マーサさんは俺に視線を向けて「さ、質問ってのは何だい?」と聞いてきた。


「……実は俺、この近くの村から旅立ったばかりでして……天空庭園って知ってますか?」

「天空庭園? あぁそりゃ知ってるよ。有名な話だからね……まさか、アンタ、それを目指して?」

「えぇそうです。それで、もしも手がかりを知っていたのなら……知らないですよね」


 手掛かりを知っていれば教えて欲しい。

 そう言いたかったが、絶対に知らないと分かっていた。

 俺は苦笑いを浮かべながらマーサさんを見つめる。

 彼女は俺の話を聞いても一切笑わなかった。

 真剣な顔で何かを考えていて……ゆっくりと口を開く。


「悪いけど、天空庭園への行き方も、それを調べている奴も私は知らないよ」

「そ、そうですよね……まぁ当然だよな」

「ただ」

「……ただ?」


 彼女はただと言った。

 俺は何か知っているのかと聞く。

 すると、彼女は気まずそうな顔をしながら「いや、あてにはしないでおくれよ」と前置きを言う。


「……子供の頃にね。天空庭園について書かれた“本”を読んだ事がある。そこに行った人間の冒険譚だったか。まるで、本当に冒険していた人間が書いたような描き方だったのを覚えているよ。他の絵本や本とはまるで違う感じがしたね……ただ、肝心の天空庭園に着いた描写は無くてね。そこだけがページごと切り取られていて、願いが叶ったぁってラストだったことは覚えているよ……足跡でもいいっていうのなら、アレも手掛かりかもね。タイトルは覚えていないけどね……確か、“サボイア王国”の骨董店で見た気がするよ」

「サボイアの骨董店……えっと、サボイアの何処に? いや、そもそもそれってまだあるんですかね?」

「いや、分からないね。私自身はサボイアにいたのは三年くらいだったからね。それに幼い子供の頃の記憶だからねぇ……ただ、ここいらで金を出してまで本を買うような輩はそんなにいないんじゃないか? 本自体が貴重な上に、そこまで数だって出回っていないしね。魔導書ならいざ知らず、ただの本を高額な値段で買う奴も少ないと思うよ……ましてや、文字だけだしね。もしかしたら、まだそこにその本が残っているかもしれないよ。それに本を売っている店自体、珍しいだろう?」

「ま、まぁそれはそうですけど……手掛かりと言えば、手掛かりなのか?」


 俺はマーサさんから貰った情報を記憶に刻む。

 マーサさんはこんな事しか知らないですまないと言ったが。

 俺にとってはどんな情報であろうともありがたい。

 天空庭園の話を書いた本は確かに少なからず存在するだろう。

 しかし、どれもがそうだろうという空想でしかない。

 ましてや小説で書いたものであればリアリティが無ければ誰も読もうとはしないだろう。

 マーサさんほどの女性が子供の時に読んだのであれば、かなり信ぴょう性があったに違いない。


 俺は顎に手を当てて考える。


「……となると、先ずはサボイアを目指す事になるな……何処から入った方がいいか」

「もしも行くっていうのなら、“カシータ”から行くのはおすすめしないよ。あそこは隣国の“オーエトナー”と揉めてるからね。あまりよそ者は歓迎されないよ……そうだね。“ドニアカミア”からなら、比較的、安全に行けるんじゃないかい?」

「ドニアカミアですか……聞いたことはあるけど。行ったことが無いんですよねぇ」

「へぇそうなのか。だったら、一度は行っておきな。あそこはモルミア領内よりもずっと栄えているからね。飯も安くて美味いとことを知ってるよ。何なら、一筆書いておこうか?」

「え? 何を書くんですか?」

「宿だよ、宿……言っちゃ何だが。あまり安い宿に寝泊まりするのはおすすめしないよ。中には眠りについた旅人の荷物を漁るような輩もいるからね。どうせなら、安全に眠れる宿に泊まった方がいいよ。私の紹介って言えば、少なくともサボイアとドニアカミア領内の宿だったら、すぐに泊まれるよ」

「え!? 本当ですか! それは凄く助かりますけど……マーサさんって何者なんですか?」

 

 ただの宿屋の女主人にしては顔が広い気がする。

 ましてや、自分の店以外に伝手があるんだからな。

 俺が恐る恐る質問すれば、彼女はにやりと笑いながら「どう見える?」と聞いて来る。


「……実は名のある貴族様とか?」

「ははは、それは違うよ……私はここいらではそれなりに名の通った商人の娘でね。うちで扱っている高級食材も、親父の伝手で安く提供してもらっているんだよ。他の宿屋の奴らにもその恩恵を与えているからね。奴らにとっては私の親父には頭が上がらないんだ。その娘である私にもね。だからこそ、私の紹介って言えば、奴らも無下には出来ない……ま、あまり無茶な事は言わないけどね。お互い商売だからさ」

「へぇそうなんですねぇ……因みに、宿代ってかなりするんじゃ」

「あぁ、それは心配いらないよ。うちだって基本的には普通の宿屋としての適正価格を設定しているからね。払う金額によって泊まれる部屋の質やサービスは変わるけど。それでも、最低価格の部屋でも快適な睡眠がとれる保証はしてあるよ。他の店も同じさ。金に困っていないのなら、普通に銀貨三枚もあれば一泊できるだろうさ」


 マーサさんの説明に頷く。

 銀貨三枚なら無理なく支払える。

 それも、安全に泊まれるのであれば俺としても安心だ。

 俺はマーサさんに頭を下げながら、紹介状を頼んでおいた。

 彼女は任されたと言って……料理が来た。


「お待たせしました! “レッド・ブルの香草パン粉焼き”と“虹魚の刺身盛り合わせ”。それと、“紅玉の実のジュース”になります!」

「おぉ、おぉ!」


 運ばれてきた料理を見つめる。

 レッド・ブルとは非常に好戦的な牛のような見た目をした魔物で。

 血のように赤い体は生半可な攻撃を一切通さないらしい。

 一頭だけなら銅級の冒険者一人でも対処できるが。

 群れで襲い掛かられれば危険度は跳ね上がり、群れ一つで“四級危険種”に位置づけられる事もあるらしい。


 虹魚も海で獲れる魔物であるが。

 これは通常種に設定されてはいるが捕獲に関してはかなり難しいらしい。

 人の姿を見つければ、高速で海の中を動き回り。

 まるで砲弾のように体当たりをしては、簡易的な舟などを穴だらけにしてしまう。

 体当たりを続ければ魚は傷つき疲弊し、捕まえる事は出来るようになるが。

 その状態の虹魚の美味しさは半減してしまう。

 しかし、今目の前に並べられた更に盛られたそれはきらきらと輝いていて非常に綺麗な状態だ。

 味が落ちていれば輝きも失われると知っていたからこそ分かるが、これは無傷の状態で捌かれたのだろうな。


 そして、最後にガラスのコップに注がれたジュースだ。

 これは魔物では無いものの、栽培する事が難しい紅玉の実だ。

 高温多湿の地域を好み、少しでも適した場所でなければすぐに枯れてしまう特殊な食材で。

 運搬に関しても揺れに気を付けなければ、傷一つですぐに実が劣化し食べられなくなってしまう。

 真っ赤な皮に包まれた果実の下は黄金のようであり、それを絞ったジュースも黄金色だ。


 俺は並べられた食器を見つめる。

 ナイフとフォークは分かるが、これは銀製だ。

 何から何まで高級だと思いつつ手に取って……マーサさんを見る。


「あの、俺、マナーとかは……」

「ははは! 変なところで律儀じゃないか。遠慮せず食いな。別に此処は高級レストランじゃないからね」

「そ、そうですか! じゃ遠慮せず!」


 俺はそれを聞いて安心した。

 そうして、フォークを肉に刺しナイフで豪快にそれを切る。

 さくさくと音がして切られた肉の断面からふわりと湯気が上がる。

 香ばしい香草の香りを楽しみ、赤みが残された肉を見つめる。

 ゆっくりとそれを口へと運んで……!


「う、美味い!」

「だろ? ふふ」


 噛めばさくりとした食感を味わえる。

 そして、じゅわりと肉汁が溢れ出した。

 塩味と辛味が混じり合い、ジューシーな肉が出す肉の汁が唾液と混ぜる。

 やはり、レッド・ブルとだけあって噛み応えはあった。

 しかし、嚙み切れない程ではない。

 ほどよい硬さであり、噛めば噛むほどに肉の旨味が増していく気がした。

 ほどよい温かさの肉とそれに包まれたパンの粉。

 油で揚げたんだろうが、かなりいい油を使っているんだろう。全くくどく感じない。


 俺は肉を味わった。

 そうして、次に刺身に目を向ける。

 俺は漁村の出であり、新鮮な魚は嫌と言うほど味わってきた。

 刺身なんて飽きるほど食べて来たからこそ、こんなものを頼んでも意味は無いと思っていた。

 しかし、虹魚の味を知らないまま、漁村の出であるとは名乗れない。


「……これは?」

「“ギョショウ”ってやつだよ。魚を塩漬けにして発酵させて出来た液体だね……少しつけて食べてみな。美味いよ」


 小皿に広がる黒い液体。

 匂いを嗅いでみれば、濃い塩味を感じた。

 これ単体ではかなり辛そうであるが……物は試しだ。


 俺はマーサさんの勧め通りに、魚の切り身を摘みそれを少し液体につけた。

 ゆっくりと口へ運んで……おおぉぉ!!


「ふ、ふ、ふまい」

「ふふ」


 何だこれは。

 ただの刺身なんかじゅない。

 これほどまでに脂がのっているいるのに全くしつこくない。

 それどころか生魚特有の生臭さが消えているように感じる。

 ほのかな柑橘系の味がしている魚の刺身には気品すら感じた。

 それとギョショウなるものが合わさり、優しくありながら魚本来の旨味が多分に感じられた。

 噛もうとすれば歯が触れただけで身がほろほろと溶けていくようだ。

 唾液と混ざり合い、魚の旨味が口内を満たしていった。

 これは魚のジュースなのか。いや、違う。

 

 ギョショウなるものも凄い。

 虹魚だけでもかなりに美味さだが。

 この強い塩味を感じるこれを少しつけた事で、魚の味がより際立っていた。

 さっぱりとした魚にほどよい塩加減であり、絶妙な美味さだった。


 肉、魚、肉、魚。

 交互に食べていきながら、コップを握る。


「――! 冷たい」

「“保冷用の魔石”を使っていてね。キンキンに冷やしてあるんだよ」


 マーサさんの説明に頷く。

 そうして、コップに口をつけてジュースを飲む。

 大きく目を見開きながら、喉を鳴らして飲んでいく。


 ――凄い。凄いぞ!

 

 紅玉の実は本で何度も見た事があった。

 その味はまるで甘味の極致であり。

 一口齧っただけで、失った味覚が戻るほどとされていた。


 本で読んだ通り――いや、それ以上だ。


 甘い。凄く甘かった。

 しかし、しつこい甘さでは決してない。

 この甘さは丁度いいとすら感じるほどだ。

 濃厚でありながら、後味はすっきりとしている。

 肉と魚で満ちていた塩味と辛味がすぅっと消えて、口内がクリアになっていた。

 ただ先ほどまであった濃厚な甘みの記憶だけが残っていて。

 自然と口が緩みそうになっていた。


 強烈な甘みだった。

 しかし、それはまるで夢であったかのように一瞬で消える。

 残るのは幸せだった感覚で、体が失った水分が一瞬で補充されたように感じた。

 それほどまでに一切の拒否反応が無く、体内で溶け込んだような一杯だった。


 俺は全ての品を平らげていく。

 昨日は酒だけだったこともあってするすると胃の中に食事が入っていき……ふぅ。


 肉と魚を平らげた。

 ジュースを飲み干し、静かにコップを置く。

 美味かった。今まで食べて来たものを軽々と超えていくほどに美味かった。


「美味しかったです。本当に」

「そうかい。それは良かった……お代わり、したいだろ?」

「……! いいんですか?」

「はは、言っただろ。好きなだけ食べなって。さぁじゃんじゃん頼みな!」


 彼女が指を鳴らせば、俺の背後からぬるりと給仕の少女が現れた。

 彼女はにこにこと笑いながら俺を見ている。

 俺はごくりと喉を鳴らしながら、彼女から再びメニュー表を受け取って中を見る。

 そうして、自らの欲望のままに注文をしていった。


 冒険を始めてまだ日数は経っていないが。

 もうこの時点で、俺は旅に出て良かったと思っていた。

 美味い食事をただで堪能し、手掛かりらしきものも早々に見つけた。

 次の目的の場所は決まったようなものであり。

 今はただこの街で堪能できる食事を全力で味わうだけだ。


 俺は笑みを深めながら、幸先の良い事に満足する。

 この調子で天空庭園にまで至る事が出来れば最高なんだけどなぁ。

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