2、その手を携えて


「伊織はどうした?」


 その日、将臣のもとに来たのは伊織ではなく、顔を合わせたこともない若い女中だった。


「い、伊織さんならもう辞めました」


 女中は露骨に将臣から視線を外しながら、怯えつつ答えた。


「…何だ、と」


 その言葉に将臣は愕然がくぜんとした。


「なぜだ?なぜ急に……!」


 将臣は女中の両肩を掴んで問いただした。


「さ、さるお方の…め、めかけになるそうで…それで辞めたと聞きました」


 将臣は言葉を失った。


「ここに来る前からあったお話だったようですが…伊織さんがその前にどうしてもここで働きたいと懇願したそうで…」


 以前聞いた時は働きたいとは言っていたが、妾になるとは一言も言っていなかった。

 妾とはあまり表立って言えることではない。

伊織は言いにくかったのだろうが、将臣は大きなショックを受けた。

女中の肩から力なく手を放し、将臣は思わず自身の顔を覆った。


(妾…?伊織が…?)


 伊織はとても美しい女だ。盲目でなければ何処ぞの良家に嫁いでもおかしくないほど。

例え妻にできずとも、妾としての手元に置きたい男はいくらでもいるだろう。


(嫌だ…)


 将臣は首を振った。


(伊織が傍からいなくなる…なんて…)


 伊織はずっと自分の側にいると思っていた。

辛く当たることがあっても、伊織は黙って側に寄り添ってくれる、かけがえのない人だった。

なのに、自分は何か一つでも伊織の支えになったことがあっただろうか。


(いや…伊織に何もしてやれなかった…いつも自分の事ばかりで…)


 こんな別れはあんまりだ。




「伊織は今どこにいる?」





 

  ◇ ◇ ◇   ◇ ◇ ◇






  伊織は白い着物を着て、椅子に座っていた。


 伊織を妾にすると言った男は、伊織の歳の一周り以上の年上だ。

 実はそれなりに名の知れた良家の娘であった伊織だが、盲目と言うハンデで嫁に貰いたいと言う男はこれまで一人も居なかった。

 良家の娘は同じような良家の子息や地位のある男の元に嫁ぎ、家同士の繋がりを強くして後世まで家名を残す務めがある。

伊織は、そんな偏った思考の両親に厳しく教え込まれて育った。

 しかし11歳の時、高熱を出したことが原因で伊織は視力をほぼ失った。

体裁にこだわる両親は娘がハンデを持っていることを何より恥じた。

そのため両親は伊織にきつく当たった。


 『役立たず』と何度も、何度も、伊織は両親から強く罵られてきた。

しかしある日、伊織にある良縁が舞い込んで来た。 


『妾でも、今のお前には贅沢すぎる程の幸せだろう』

『やっと、これでお前も鏑木かぶらぎ家の役に立つわね』


 縁談の話の折、両親は伊織にそう吐き捨てた。

邪魔でしかない伊織がこの家を出ていくことは、両親にとって手放しで喜ばしいことだったのだ。


「将臣様」


 伊織は俯きながら、彼の名を口にした。





 ◇ ◇ ◇   ◇ ◇ ◇





『どうした?そこに居ると路面電車が来て危ないぞ』

『あ、すみません!人とはぐれてしまって…目が悪いもので…教えていただきありがとうございました』

『…そうか』


 男はそう言って、不意に伊織の手を引いた。


『俺も、人を探すのを手伝ってやる』


 ぶっきらぼうでも優しい言葉に、その時の伊織は救われる思いだった。

そして無事に人を見つけることができ、男が去る間際に伊織は思い切って名を尋ねた。


土岐とき将臣まさおみだ』


彼はそう名乗って、去っていった。


 その後、将臣の事を人伝で聞いた。

記者をしていたが、逆恨みをされて、顔に大きなやけどを負ったこと。

今は、地元に帰っていること。


伊織は自分が他の男の妾になる前にどうしても将臣に会いたかった。

将臣は辛い思いをしているのではないだろうか。


ーあの時の恩返しがしたい

そして、なによりもう一度会いたい


 伊織は一大決心して両親に頼み込んで、将臣の家で働けるように懇願した。

何不自由ない暮らしを約束されている伊織だが、『相手に迷惑をかけないように家事や所作を学んでおきたい』と最もなことを言うと、両親は案外あっさりとその話を聞き入れてくれた。


(この日が来ることは、わかっていたのに……)


「将臣様…」


 伊織は、はらはらと泣き出した。

あの出会いから、伊織はずっと将臣のことを好いていた。 

再会して、ひどい言葉を言われたが、将臣の事を全く嫌いになれなかった。

短い時間だったが一緒に過ごすうちに、将臣への想いがより一層強くなっていった。


「貴方に会いたい…」


 別れの挨拶さえ、言えなかった。

他の男の妾になるなんて、将臣には知られたくなかったのだ。


 伊織は口元を抑えて、むすび泣く声を抑える。

将臣の事を思うと恋しくて、涙が止まらなかった。






『ーーまれ!』


 その時、ドア越しから誰かの怒号が聞こえ、伊織はハッと我に返った。

椅子に座ったまま、そっと耳を澄ませる。


『貴様、ここを誰の屋敷だと思ってる!止まれ!!』


 気になった伊織はゆっくり椅子から立ち上がると、覚束おぼつかない足取りでドアの方へと向かった。

そしてドアを薄く開けて、隙間から顔を覗かせた。


「伊織、何処に居る!?」


 将臣の声だった。


(嘘…幻聴…?)


 伊織は今起きている事が信じられなかった。


「どうして…将臣様がここに?」


 気づけば伊織は廊下に出ていた。

将臣が伊織の姿を見つける。

周りにいた男達の制止を振り切り、将臣は伊織の元に駆け寄ってきた。


「伊織!」


 将臣は伊織の手を強引に掴んで、有無を言わさずに駆け出した。

突然のことで、伊織の足はもつれそうになる。


「走れ!」

「!!」


 叱責する将臣の鋭い声に、伊織は弾かれたように駆け出した。





 ◇ ◇ ◇   ◇ ◇ ◇




「とりあえず…ここまでくれば、大丈夫だろう」


 河原の橋の下、将臣は息を切らしながら言った。


「将臣様…どうして?」


 伊織は息を整えながら、将臣に問いかけた。


「……別れの挨拶もしない薄情者に一言いってやりたくてな」


 将臣はねたように言う。


「そうですか…言いたい事とは何でしょうか?」


 伊織はおそるおそる尋ねた。


「……俺はこの通り。ああ…お前も知っていると思うが顔にひどい火傷の痕がある…そのせいで俺は人前に出ることが何よりも恐い」

「……はい」

「でもお前と一緒に居たら…ほかの奴らがどんな目で俺を見ようとまったく恐ろしくは感じないんだ」


 伊織を一人で迎えに行く時、2人でここまで逃げて来た道すがら、多くの人とすれ違った。

しかし不思議なことに、将臣は人の視線がまったく気にならなかった。

無我夢中だったから、気に留める余裕がなかっただけかもしれない。


しかしー


「伊織…」

「はい」


 伊織はまっすぐに将臣の顔を見上げた。

相変わらず光のない黒い瞳だった。


「だから……これからも、俺の側に居てくれないか?」


 将臣の言葉を聞いた途端、伊織は急に泣き始めた。


「ど、どうした…嫌だったか…?」


 将臣はおろおろし始めた。


「いいえ…違います」


 伊織は袖で涙を拭いながら告げた。


「私も将臣様が側に居てくださると、自分の目が見えなくても…全く引け目を感じないんです」


 伊織は泣きはらした目をしながら、微笑んだ。


「私もずっと将臣様と一緒に居たいです。互い側にいれば…何も恐くないですよね?」


 その言葉に将臣は一瞬驚いたが、すぐぎこちない笑みを浮かべる。


「そうだな…むしろ『無敵』じゃないか」

「はい!そうですね」


 伊織もまた笑みを深めた。




           ・

           ・

           ・



「くしゅん!」


 伊織がくしゃみをすると、将臣は慌てて着ていた羽織を脱いで彼女の肩にかけようとした。

すると伊織は将臣の耳元近くで“何か”を囁いた。

それを聞くや否や、将臣は苦笑したが大きく頷く。


 将臣と伊織は互いに身体を寄り添わせて、一つの羽織りを纏った。




その姿は、まるで雄雌1体の存在『比翼の鳥』そのものだった。

          

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