慕情

@Hitonosu

慕情

「慕うという字はね、相手を想う気持ちを隠すと書くのです。」

 彼はまだ幼さが僅かに残る顔の隅から隅までに恍惚とした表情を湛えて、何か大事なことをひとつ打ち明けるように、小さく呟きました。窓の向こうでは、彼の柔らかな所作に呼応して、プラタナスの木々が優美に枝葉を揺らしているのが目に入ります。

 混雑時間の過ぎた喫茶店には私達の他に客はおらず、聞き馴染みのあるゆったりとしたジャズ・ピアノのBGMが空調の稼働音と混ざって、ぽつぽつと途切れる会話の隙間を埋めてくれます。それは、あまり多くを進んで語りたがらない彼と言葉選びに時間がかかってしまう私にとって、有り難い存在でした。

 すっかり冷めきってしまった珈琲をちびちびと喫しながら話に耳を傾ける私の姿など、彼の瞳には一切映っていない様子で、それはまるで私の肉体を媒体として、紀元前の文明人が散りばめた残留思念を余すことなく汲み取らんとしているかのようでした。きっと彼は今まさに、生きた時代も過ごした土地も遠くかけ離れた異邦人と交信し、時空を超越した古代文明とのシンパシーに胸を踊らせている最中なのだと、なんとなく解釈しました。

 想い人に対する情熱や恋心というものは、決して外に漏らすでも打ち明けるでもなく、自らの胸の内に秘めておくからこそ美しく光彩を放つのだと説く彼に、私は何も言い添える言葉が浮かばないままでいました。普段であれば、彼の少し独特さを纏った語り口に深い感動と共感を覚え、拙いながらもその意を示すことができるのですが、今日に限っては胸がつかえて上手く形にできないのです。私はふかふかとした椅子の質感を確かめるように軽く身動ぎをして座り直しました。


「でも、私は」

 つい口から零れた「でも」という言葉に、後悔の念がじわりと滲むようでした。

 彼の思慮に水を差すようなことを言ってはいけないと、頭の中の私が遠慮がちに囁きます。彼は、少し異を唱えられたくらいで気を悪くして簡単に相手を嫌いになるような人ではないことぐらい頭ではわかっているけれど。彼の内側に構築された世界観は傍からみても痛感するほどに綿密な完成度で、私の付け焼き刃のように薄っぺらな言葉が未だかつて彼の心臓に一片の罅も与えた試しがないことは勿論自覚していました。それでも自らの心の底にひっそりと渦巻く感情をどうしても伝えなければならないと、さらにもう一人目の私が立ちはだかり声を枯らして叫ぶのです。私はティーカップに残った最後の一口で唇を湿らせ、小花柄があしらわれた白磁のソーサーに戻します。陶器と陶器の触れ合うカチリという小さな音に、二人の視線がほんの一瞬だけ集まりました。

「好きな人には、やっぱり自分の気持ちを知ってほしいと私は思う。」

 弱々しく発せられた覇気の無い私の声に、静かに耳を傾ける彼。深淵の黒と遜色ないほどに暗い色をしたその両目は、真っ直ぐに私を捉えていました。

 このとき、ふと自分の感性を推し量られているかのような感覚に陥り、少しの閉塞感に身が詰まりました。それでも、彼の視線に応えるためにも、この先に続く言葉を紡がなければならない。遅れてやってきた焦燥に背中を押されながら、脳内の靄を言語化する作業を急ぎます。ジリジリと低く唸る空調のモーター音が、やけに大きく聞こえました。

「自分の気持ちなんてものには形がなくて、私ひとりではふわふわとして何処かに飛び去ってしまいそうだから。誰かと共有して、一緒に手綱を握っていてもらいたいの。」

 これが私の精一杯でした。私の心中を表現するのに最も適切な言い回しでは無かったのではないかと反省するも、これ以上何か付け足すのも野暮な気がしたので口を噤むことにしました。

 私の言葉は、彼の心にどのような印象を与えたのでしょうか。反応を伺うも、さっきとは打って変わって能面のように表情を失った面持ちで窓の外を眺める姿からは、何も感じ取れませんでした。きっと彼が見ている景色はそよ風に吹かれる広葉樹の並木通りではなく、彼の住む未知の世界なのだと、何故か合点がいきました。

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