第4話

 僕が磯に棲む生き物の生態を解説するのを、湖波ちゃんは小さなノートにメモしながら真剣に聞いてくれた。ふと、雷の音が聞こえて顔を上げる。いつの間にか燃えるような柿色に染まった西の空に、重そうな入道雲がそびえ立っている。夏だな、と思った。夕立が来るかもしれない。

「そろそろお開きにしようか。宇海は深夜までシフトが入ってるらしいから、どっかで一緒に夕飯食べる?」

「私、行きたいお店があって。ガイドブックで調べて来たんです。お魚料理のお店なんですけど」

「じゃ、そこにしよっか」

 立ち上がって歩き出そうとした僕の左手を、湖波ちゃんが取った。

「血、めっちゃ出てます」

「え?」

 湖波ちゃんの白くほっそりとした手に、赤黒い液体が伝って、ぽたぽたと雨粒のように落ちた。その美しいコントラストに、目を奪われる。

「手のひらがざっくり切れてます。すごく痛そう……」

 言われて初めて、自分の怪我に気付く。

「岩か何かで切ったんだね。大丈夫、痛くないから」

 ハンカチで傷を押さえる。この近くに水道の蛇口はあったかな、と考えていると、湖波ちゃんの両手がふわりと僕の手を包み込んだ。

「強がらなくても良いんですよ?」

 傷は、本当に全く痛くない。だけど、彼女と会ってから自分の感情を隠して演技し続けて来たのは本当だ。どうしてこの子は、そのことが分かったのだろう。僕の下手な演技なんて全部見透かされているのだろうか?

 パニックになる。はは、と笑い声が漏れた。何が可笑しいのか自分でも全く分からなかったけれど、動揺を笑ってごまかすしかなかった。

「大丈夫、大丈夫。海でフィールドワークしてるとこれくらいの傷、よくあるんだよ。公園の水道で洗うからちょっと待っててくれる?」

「分かりました」

 湖波ちゃんがほっとしたような表情になる。僕もだんだん落ち着いてきた。

 不思議な子だな、と思う。彼女の前だと、僕は幼い子どものようになってしまう。

 姉である宇海よりよっぽど大人だ。


 和食屋のカウンター席に並んで座り、僕たちはテンプラ定食を食べた。お刺身もついている。

「お姉ちゃんは昔から、自分の感情を大切にしない人なんです」

 箸を持つ手をとめて、湖波ちゃんがぽつりと言った。天井の灯りを映した刺身醤油の小皿に、波紋が広がる。

「ずっと親の言うとおりに勉強し続けて来て、友だちも趣味も全く作らず、親から決められた大学に入学して……そんなお姉ちゃんが初めて自分で決めた道が、お魚の研究者になることだったから」

 彼女はすうっと息を呑んで、吐いた。

「だから私は応援したいし、お姉ちゃんを惹きつけたものがどんなものなのかを知りたい。だから、ここに来ました」

 そう言って、にっこりと微笑む。エビのテンプラに、幸せそうにかじりつく。

「そうなんだ……」

 僕の胸に、どんよりと濁ったもやがわき上がった。

 海や魚が好きだからうちの研究所に就職した宇海が、今どんなことをさせられているかなんて、湖波ちゃんには絶対に言えない。

 魂を人為的に製造する研究のために、生きながらに人の脳を解剖しているなんてことは、絶対に――

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