第2話

 僕の勤める海洋研究所は小さな水族館が併設しており、海のすぐそばに建っている。日曜日の午前七時、中型バイクを走らせて、守衛さん以外はまだ誰もいないであろう研究室へと向かう。天気が悪かった。ざわめき立つ青銅色の海の上に、灰色と紺色の入り混じった雨雲がどんよりと垂れ込み、冷たく湿った空気が肌にまとわりつく。こんな日はなぜか、いつもより世界が立体的で広々として感じられる。バイクを停めて水平線にみとれる僕の頬に、ぽつりとひとつ雨粒が落ちた。

 カードキーを使って研究所の玄関を開け、天井も壁も白い、掃除の行き届いた廊下を行く。一階の突き当たりにあるがっしりした鉄製のドアには物理的な錠がかかっており、鍵は研究所の職員の中でも限られたメンバーしか持っていない。鍵を回すと、カーンと高い音がした。全体重をかけるようにして押し開き、中に入る。内側から鍵をかけ直すのは忘れない。目の前には扉が三つあり、どれも指紋認証をしないと開かない。しかも、二つの扉はダミーだ。それらを開けてしまうと、正しい扉の認証が下りなくなる上に、入り口の鉄製の扉にも電子ロックがかかって内側から開けられなくなる。真ん中の扉を開けると、らせん階段が続いている。階段の途中には等間隔で十二個の扉があり、正しい順番で開け閉めを繰り返すと、一番下から二番目の扉のロックが解除されて研究室に入ることができる。

 一体誰がこんなややこしいシステムを作ったのかは不明だ。正直、面白半分だったんじゃないかと思ってしまう。ダンジョン攻略系のゲームが好きだったのかもしれない。

 研究所に着いてから一時間が経過していた。ようやく最後の扉をくぐり抜けると、ぱっと視界が明るくなった。キムワイプやピペット、ガスクロマトグラフなどが並ぶ、ごくありふれた生命科学系の実験室がそこにはある。僕は丸椅子に腰掛け、ため息をついた。気分転換のため、インターネットに繋がっていないタブレットでテトリスをしばらくプレイし、そろそろ仕事をするかと立ち上がる。

 そのとき、ジジジと耳障りな音が鳴った。電波状況の悪い場所でアナログラジオのスイッチを入れたような雑音だった。デスクの上に置かれた試験管立てに差しっぱなしになっている試験管の底に、何かもやもやしたものが溜まっている。それは古いゲーム機の目の粗いドット絵がバグったような、あるいはテレビの砂嵐のような、電子的なノイズの塊に見える。ジジジと不快な音を立てながら明滅するそれの中に、やがて人間の唇のようなものが浮かび上がる。上唇と下唇の間にぱっくりと薄い闇が現れ、

「……はしたなし、はしたなし……」

と、掠れた甲高い声が漏れた。

 僕はしばらくその唇を見つめ、

「自分でも分かってる。好きな人の妹に会うのが楽しみなんてはしたないよね。しかも、まだ高校生だし」

と、一人言のように呟いた。それ、と会話をしているわけではない。そもそもこいつには口しかなく、耳がないので僕の声が聞こえるわけもない。

「……はしたなし、この魂の、はしたなし……足らぬものの多きこと」

「ん?」

 思わず耳をすませたが、それっきり唇はノイズの中に埋もれ区別が付かなくなってしまった。

「はしたなし、って中途半端とかそういう意味だったわけ?」

 首をかしげるが、答える者はいない。

 この奇妙な生き物が試験管の中に住み着いたのは、数ヶ月前のことだ。恐らく何らかの原始生物だと思われるが、これまで報告された例は僕の知る限りない。新種かもしれないのに上司に報告できないのは、こいつが僕の心の一番弱い部分に触れるような発言ばかりするからだ。

 絶対に他人に知られたくない秘密を、握られてしまっている。


 午前中で仕事を切り上げ、アパートの自室に戻った。天井まで届く本棚に占拠された部屋の中、わずかに残ったスペースに寝転がる。ラジオにイヤホンを繋いで、マイナーな邦楽ばかりを紹介する番組を聞き流す。

 ふと、目が覚めた。ラジオのひび割れた音楽に重なって、ドンドンと玄関の扉を激しく叩く音がする。こんなことをするのは、宇海しかいない。

 ドアが壊れる前になるべく早く出たかったけれど、中途半端にうたた寝をしたせいで体が重い。ひきずるように玄関を開けると、宇海の少し苛立ったような声が飛んできた。

「保味、寝てたん?」

「ごめん、約束は覚えてたんだけど……」

 宇海がため息をつく。

 視線を横にずらし、宇海より頭一つ分背の低い女の子が不安そうに僕を見上げているのを認める。彼女の目は僕の顔ではなく、胸の辺りに注がれていた。自分でもその辺りを見て、心の中で苦笑いする。てきとうにはおっていたジャージの胸が少しはだけていて、古傷があらわになっていた。ケロイドになりやすい体質のせいもあって、普段は服に隠れている皮膚のあちこちに浮き上がった傷跡が這っている。

 最悪な出会いだな、と思った。この傷の理由を、彼女はなんと想像しただろう。

「はじめまして、僕は保味」

「湖波(このは)です、よろしくお願いします」

 宇海の妹は、ぺこりと可愛らしくお辞儀をした。

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