試験管の中のあなた

紫陽花 雨希

第1話

 試験管の中に誰かがいる。

 そのことに気付いてしまって以来、僕はどうしようもない焦燥感に常に支配されており、一日に吸う煙草の本数が二倍になった。

 その日の夜も、海辺に建つ安アパートの二階のベランダで、煙草を吸いながら水平線を眺めていた。初夏の風はかすかに雨の匂いを含んでいる。生地の薄くなったTシャツとトレパンというあまり人様に見せられないような服装だが、この先には海しかない。まだ海開きもしていない海水浴場に、こんな深夜に来る人間なんてめったにいないだろう。――人ではないものは、よく見かけるが。

 柑橘類のような苦みのある煙草の煙を思い切り吸い込み、肺の焼ける感覚に浸っていると、隣の部屋の窓がガラリと開いた。

「保味、あんた、喫煙もほどほどにしときよし。糖尿病になってしまうで?」

 隣人であり、同じ海洋研究所で働く同僚でもある小口宇海(おぐちうみ)が、紺色のシャツワンピース一枚でベランダに出て来た。明るい茶色に染めた長い髪が、さらさらと夜の風に揺れる。僕と違ってきちんと毛を処理した彼女の皮膚は白く透き通っていて、月のない夜なのにぼんやりと発光しているように見える。しばらく彼女のすらりとした足を眺め、ハッと我に帰って慌てて視線を外した。自分のはしたなさが嫌になる。

「最近の煙草は希少糖を使ってるから大丈夫」

 ふーん、と宇海は興味なさそうに呟くと、僕のそばに寄って柵にもたれかかった。組んだ腕の上に顎をのせ、遠い目をする。

「うち、妹がおるんやけどな」

「前に言ってたね」

「今度、シラハマに遊びに来るみたいやわ。夏休みの宿題で論文を一本書かなあかんらしくて、うちの研究室を見学させて欲しいって頼んできた」

 僕はカラリと笑う。

「高校生に見せられるものなんてないと思うけど」

「そうなんよなー、どうしよ」

 宇海は腕に顔をうずめ、深く息を吐いた。僕は彼女のことをけっこう好いているので、困っているときには助けたいと思う。

「それなら、僕が妹さんを磯にでも連れて行ってあげるよ。生物の観察でもすれば良い」

「ありがとー、保味! お礼にニノミヤの白玉クリームあんみつおごったるわ」

「んー、ちょっと足りないな」

「ほんなら、それにプラスしていそべ餅も」

「それじゃ多すぎる」

 可笑しくなって、僕は思わず笑い声を漏らした。宇海もあははと楽しそうに笑う。

 気の置けない友人である彼女のことを、僕はかなり好いている。けれどこれは多分、恋ではない。時々思う。同性愛者であることを自覚する僕にとって、恋と友情の線引きはどこにあるのか。

 試験管の中の誰かは、そんな煮え切らない僕をいつも責めている。

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