第6話「アイマスク」

 19時55分、西日暮里駅。

 一年前までは降りる機会はない駅だったが、眞城先輩と付き合い始めた後はもう何度降りただろう。それだけではない。西日暮里駅は眞城先輩の家が近くにある駅という強い印象まで植え付けられてしまった。それを悪いとは思わないが、こういうどうでもいい小さなことからでも、高校の時と比べると感じる物がある。

 千代田線を降り、眞城先輩の家から一番近い駅の出入り口に行く。眞城先輩はその出入り口付近に立っていた。


「お、やっと来た」


 先輩の姿を見て声を聞いた時、僕は安堵して、人の目など気にせずに先輩に抱き着いた。涙が出てきてしゃっくりが止まらない。そんな僕の背中を先輩は優しくさすってくれて、安堵で涙が止まるような、更に涙が出るような、そんな状態だった。少しの間抱き締めていると、先輩は僕を身体から離し、僕の手を取って歩き始める。歩く道には見覚えがあった。これから眞城先輩の家に行くのだ。

 先輩は賃貸マンションの部屋を借りていて、そこで暮らしているのを思い出す。僕と同じ一人暮らしのはずだ。

 先輩の家は駅からそこそこ近く、着くまでに10分ほどの時間を要した。その間、僕らの間に会話はほとんどなかった。先輩の部屋はマンションの2階にあり、1DKという一人暮らしに最適な広さの部屋だ。僕は先輩に促され、お邪魔しますと一言言って部屋に入る。相変わらず、リビングから玄関まで全てがお洒落で整っていた。ほとんどが白色の家具で統一されており、それが清潔感を際立たせている。そして、僕はもう何度この部屋に入ったことか。いつ数えるのをやめたのかすら覚えていない。


「なんか、すいません。わざわざ」

「良いの良いの。アイ君には普段からお世話になってるから、そのお礼でもあるんだ」


 先輩は自分のベッドに座る。その隣をぽんぽんと叩いた。座っていいよの合図だった。僕はそこに腰掛けると、先輩は僕の肩にもたれ寄り添う。


「先輩。僕は、諦めたはずなんです。だけど、本当は未練がタラッタラで、そのことに今まで気付かないから、今日改めて気付いた時にこんな惨めなことになっていて……」


 自分以外の女に惹かれることは、少なくともいい気分ではないだろう。眞城先輩は僕の話をただ無言で聞いていた。

 それ以上言葉を続けるのが気まずくなって、僕は何か喋ろうにも喋れずにいた。それがしばらく続いていると、眞城先輩は立ち上がった。それは物を取りに行くだけだったが、僕にはそれが僕から関係の上でも離れていくように見えて、思わず眞城先輩に声をかけて呼び止めてしまう。眞城先輩は、それでも笑みを絶やさないでいた。


「心配しないで。少し待っててくれない?今、アイ君に魔法をかけてあげるから」


 そう言うと、先輩は机の上にある黒いアイマスクを取って、僕に着けさせる。


「今から、アイ君は自分で動いたら駄目だよ?」


 僕は何が何だか分からず、返事すらできなかった。

 耳を澄ますと、洋服の音が聞こえてくる。着替えているのだろうか。アイマスクで視界を奪われているので、それを確認する術がない。混乱しつつもじっとしていると、僕の着ている服と肌着を先輩に脱がされた。上半身が裸になり、そのまま先輩は僕をベッドに寝かす。

 突然、僕の胸に感触があった。やわらかい。次に、腹に肌と肌が直接触れる時の感触を覚える。僕は視界を奪われていて、自分の身体に何が当たっているのかを確かめることは出来ない。だが、アイマスクで視覚を奪われている代わりに、他の触覚や聴覚、嗅覚が敏感になっているのが分かる。それらを頼りにしていると、なんとなくだが、今はどんな状況なのかが分かる気がした。きっと、眞城先輩は服を脱いで僕の身体の上に身体を密着させている。僕の胸に、下着越しのふくらみある胸が重なり、僕の腹には先輩の腹も重なっている。先輩の身体と距離が近く、嗅ごうと思わずとも先輩の体の香りがする。そして、僕の顔の間近に先輩の顔があることもなんとなく分かる。先輩の息がよく聞こえるのだ。それが聞こえるのは、やわらかい胸を押し当てられている事もあるからか、一言で言えばエロかった。先輩は僕と指を絡ませて手を繋いできた。もう片方の手は、僕の上半身に舐めるように触れていた。まだズボンを履いている僕の足に、先輩は足を絡ませてきた。今度は眞城先輩が僕の唇や鎖骨にキスをしてきた。いつもと違うそんなスキンシップは、長い時間ずっと続いた。


「開ちゃんの事、忘れたいなら忘れさせてあげる。でもその代わりに、私だけを見て、私の事だけ考えて?」

「……はい、喜んで」


 僕の言葉で、先輩は僕のアイマスクを取った。目の前にいた眞城先輩の僕を可愛いと思うような笑顔を見て、気付いたことがあった。堕落の正体だ。ずっと思い悩んでいた堕落は、僕の先輩に対する気持ちの問題、自覚の問題でしかなかった。本来、誰かと恋仲になることは尊い物であり、そこに悲観的な言葉や感情があってはならない。しかし僕はこの関係に堕落という言葉を持ち込んだ。それは、自分は眞城先輩に悩みを抱える一人の女性という印象しか抱かず、今までのスキンシップはその悩みにやられたところに付け込んでしていたと思い込んでいたからだ。絵を描かなくなったことや、眞城先輩の美術部の人達と会わなくなったことも付随し、抱く必要すらなかったであろう堕落という勘違いを膨らませていた。

 アイマスクで視界が覆われた時の暗闇は、今自分がいる場所に似ていた。暗闇の中で、風船のように膨らむ堕落という思いがどんどん膨らんでいた。眞城先輩がアイマスクを取ると、目の前の眞城先輩は女神が放つ希望らしい光になって、それは堕落に対してだけ針のようだった。光が堕落に穴をあけて、ぶーっと萎ませた。萎む感覚は、自分の間違いに気付いた時の感覚、そして眞城先輩が僕を救ってくれる感覚と同じだった。

 僕は眞城先輩の相談相手ではない。れっきとした恋人である。そのことを胸に刻んで眞城先輩の、いや、聖花さんの顔を見た。どうやら、お互い考えていることは同じ様子だった。


「私、アイ君とならなんでもできる。アイ君は?」

「……僕もですって、言っても良いですか」

「うん、良いよ」 


 それ以降の僕らの行動は更に過激だった。快感を感じた。聖花さんを感じた。僕と聖花さんの間に距離はなかった。聖花さんの声を聞いた。聖花さんの声は初めて聞くものだった。どう具体的に言い表せば伝わりやすいのか、それすらも分からない。用意すべきものも事前に用意していた。超えてはならないところを今日初めて超えた。何もかも忘れて、聖花さんに夢中になっていた。ただただ聖花さんと愛を確かめ合い、分かち合う時間だった。


「聖花さん、好きです……!」

 

 初めて彼女を名前で呼んだ。もう付き合って1年が経とうとしているのに、名前で呼んだのは初めてだった。聖花さんは自分の名前を呼ばれたとき、少し恥ずかしそうに喜んでくれた。


「一誠君、私も好きだよ。大好きだよ……!」


 僕もちょっと恥ずかしがりながら、名前で呼んでくれたことを嬉しく思った。

 聖花さんの魅力に魅了された今、何故あの頃から聖花さんのことを好きにならなかったのだろうと、何故開のような女性を好きになったのだろうと、自分に対して嫌悪感と混ざる疑問を2つ抱く。ずっと自分以外の誰かを見続ける人を追いかけ続けることは、無駄でしかなかったと思う自分がいる。僕があの頃から聖花さんのことを好きになっていれば、もっと早くこんな時間を過ごせて、過ごす機会も多かったはずだ。大学生と大学生なら、大学院生と社会人よりも自分達のために使える時間は多かっただろう。僕は聖花さんと今を過ごしている反面、心では後悔という2文字をぐっと押し当てられていた。でも、今こうやって聖花さんと時間を一緒に過ごせていることに、僕は大きな幸せを感じていることに変わりはなかった。

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