第5話「記憶が僕を」

 あれから約一週間。思い出すと、卒業アルバムを見てこみ上げてきた悲しみや、眞城先輩との交際の始まりを思い出して感じた眞城先輩への想いを抑えるのには、意外と時間をかけていたような気がする。あの日は予定があったのだが、おかげでその予定にも身が入らなかった始末。そんな自分を思い返すと、もはや悲しみを通り越して呆れを感じてしまう。

 今日は土曜日でありながら大学で勉強をし、たった今それが終わって帰りの電車の中央・総武線に乗っているところ。大学院生になってから、勉強や研究をする時間が跳ね上がり、毎日8時間以上は研究しているだろう。おかげで帰宅時間も遅くなった。今日は朝早くから大学に行ったが、それでも今は18時34分。これですら普段より帰る時間が早い。僕は時刻を確認し、ワイヤレスイヤホンを付けて音楽を聴く。


「まもなく、葛西、葛西」


 車内アナウンスがイヤホンからの音楽に邪魔されつつも耳に入ってくる。僕はそのタイミングでドアから目を離さないようにした。

 葛西に着いて、僕は電車を降りる。だが今日はこのまま家に直行ではなく、ハンバーガー店に寄る。僕はまだ夕飯を食べていない。


「いらっしゃいませ~。ご注文をお伺いします」

「エッグバーガーのセット、ドリンクはコーラでお願いします。以上で」

「かしこまりました。630円になります」


 バーコード決済でお釣りを出さずに支払い、番号札を取って空いてる席を見つける。平日のこの時間は人が少ないようで、席はたくさん空いていた。だから簡単に席を見つけられる。僕は適当に、店内の端っこにある席に座った。

 耳を澄ますと懐かしさを帯びた声が聞こえてくるのは、そんな時だった……。

 

「今日はありがとう。急にデートしたいって言ったのに、連れて行ってくれて」

「大丈夫だよ。でも、夕飯はここで良いのかい?美味しいレストランでも良かったのにさ」


 開が、開奏穂ひらきかなほが、高校の頃の好きな人が、彼氏を作ってこの店に来ていた。何故ここにいるんだと疑問を持つ前に、開の家は東西線が通る駅にあることを思い出す。

 動揺が隠せない。端っこの席を選んでおいて本当に良かったと思う。これでもし僕が2人が座っている席の隣などに座っていたら、本当に気まずかっただろうなと、もしものことを考えて心を無理やり落ち着かせる。だが効果は薄く、心臓の鼓動が早くなり、息も荒くなっているのが動揺している状態の自分でも分かる。出来る限り開とその彼氏を見ないようにしたりした。スマホをいじったり、意味もなく財布のお金を数えたりもした。でも、どうしても脳の片隅に開がいる。必死に気を紛らわせても、開のことを想像せずにはいられず、開の姿が目の前にあるような感覚になる。


『ん?アイ君、私の絵が気になるの?』

 

 開があの頃僕に向けて言っていたことが、頭の中で何度も再生される。

 髪型はショートの恋愛に飢えた性格で、どんな季節でも制服にベストを着ていて、可愛い女の子の絵をよく描いていた。容姿が全く異なっている今の開をちらりと見て、あの頃の開が思わず脳裏に浮かぶ。目の前にいる開は、髪を伸ばしてインナーカラーをピンク色にしていた。だがベストを好んで着用する癖は健在で、今もなお私服で模様付きのベストを着ていた。

 2人は壁沿いの席に座っており、彼氏は開を壁側のソファ席に座らせて彼自身は通路側の席に座っている。そして2人はテーブルの上で手を重ねながら、仲良く談笑していた。これは、2人はカップルではない可能性のほうが低いだろう。


「おまたせしました~。番号札回収しま~す」


 店員が注文した商品を持って席に来る。しかし僕は声が出ず、会釈だけをしてしまった。このセットも、気を紛らわせるのに利用せざるを得ない。ポテトを口に運び、ジュースを飲み、ハンバーガーを食べる。動揺のし過ぎで、味も食感もしっかりとは分からない。気を紛らわせようとする気持ちと、一刻も早く開から離れたいという気持ちの2つだけが自分の中にあった。

 もう諦めた人にここまで動揺させられるとは、少し自分に呆れてしまう。見かけたところでなんだと、彼氏ができて良かったねと、そう心で呟きながらご飯を食べてさっさと店を出るのが理想だっただろう。今の自分は既にそんな理想から遠く、愚かにも心臓をバクバク言わせていた。

 ハンバーガー達を急いで食べきる。感じようと思っても邪魔される味や食感にはもう関係ない。今はただ食べることだけに集中した。


「奏穂ちゃん、次行きたいとこはある?」


 彼氏のちゃん付けに名前呼びが、心に釘が刺されるような痛みになって僕を襲った。それでも僕は手を止めずにご飯を食べ終える。席を立ち、荷物を持ってゴミ箱でゴミを片し、ジュースを持って急いで店を出た。よく見えなかったが、開が僕に気付いてはいなかっただろう。

 外に出たら、僕は全力疾走で店から離れた。真っ直ぐ家に帰宅する。でも、ここ最近研究ばかりで運動を全くしていなかったせいで体力が落ち、すぐに息を切らせてしまった。しかしその頃にはもう店からは離れている。あの2人だってご飯を注文しているわけだし、今すぐここに2人が来ることはないはずだ。

 はぁ……はぁ……と、疲労と安心と動悸の3つが混ざり合った息切れをしながら、僕は歩いて家に向かった。


 ◆


『え!?開ちゃんがいたの?』

「そうなんです。いたんですよ……」


 さっきまであったことを話すと、電話越しの眞城先輩は大層びっくりしていた。

 帰った後は、とにかくこのどうしようもない焦りを抑えるにはどうすれば良いかのを考えていた。誰かに電話して相談するのが良いのかもしれない。そう考えた僕は、僕の開に対する気持ちを知っている眞城先輩に電話した。

 彼女を持つ男が別の女に気を取られるなど言語道断だろうが、開はそんな冗談を言ってられるような相手ではなかった。高校の時の自分を知っている眞城先輩は、それも承知だった。


『そっかー。そりゃあアイ君もご乱心だね』

「ご乱心どころじゃないですよ。気をそらすために逃げたというのに、まだ頭から開が離れなくて……」

『分かるよ。よく頑張りました』


 電話越しに、眞城先輩の優しい声が聞こえる。おかげで今、少しだけ気持ちが落ち着いたかもしれない。

 自分の気持ちが落ち着いたのを確認すると、このまま眞城先輩と通話で繋がっているのも申し訳なく思えてきて、先輩のためにも今すぐ通話を切りたくなった。


「……すいません。気持ち落ち着いたんで、いつでも切って良いですよ。わざわざありがとうございました」

『え、はや。もういいの?』

「はい、助かりました。もう大丈夫です」

『本当に?無理してない?』

「……」


 本心を言えば、もっと眞城先輩に助けを求めたい。だが、普段から眞城先輩の頼りになっている自分がここで弱みを出してどうすると、厳しく己を責める自分が心にいる。先輩を求めるべきか、我慢するべきか、その2択で迷っていた。だが、先輩は迷う時間すらくれず、僕に言う。


『アイ君の大丈夫、声が震えてたよ?』


 先輩の優しさに触れて先輩の声を聞いた僕は、先輩に助けを求めたくて仕方なくなった。


「……まだちょっと、無理してるかもです」

『謝らなくてもいいんだぞー』


 場を和ますように言ってくれた一言が、嬉しいような気持ちで胸を埋める。僕がずっと黙っていると、先輩は更に僕に言った。


『アイ君さ、この後時間ある?』

「はい、空いてますけど」


『西日暮里来て。8時集合』


「は、え……?」

『空いてるんでしょ。良いこと思い付いたから、来て?』


 突然のことでなにがなんだかよく分からず、困惑しながらも「はい」と答えてしまった。ただそんな中でも、西日暮里駅には眞城先輩の家があることを思い出し、今先輩は僕を家に呼んだのだと分かった。疲れているんだけどなぁと、ちょっとの文句を心の中で呟きながらも、僕は笑ってまた家を出る準備をする。池袋の時と同じようなことをする可能性のためにも、歯を磨いたり髪を直したりなどの用意もしておく。


 そして、僕は一目散に最寄り駅の葛西駅へ向かった。

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