第4話「再会」

『ねえ』

『悩み、聞いてくれない?』


 思い返せば、眞城先輩からの2件のメッセージが、この関係の始まりだった。高校を卒業してから4年半という時間が経ち、僕が大学院一年生、いわゆるM1の時だった。その4年半の間、一度も会っていなかった眞城先輩から、久々にメールアプリで連絡が来たのだ。

 正直な所、驚いた。先輩に対する期待ととれるのかもしれないが、先輩のような優秀な人に悩みを相談されることは想定すらしていなかった。先輩に対し衝撃を受けつつも、僕は優秀な眞城先輩がどんな悩みを抱えているのか、心配なのはもちろん、しかし同時に気になりもした。悩みはメッセージ上では話されなかった。僕は2件のメッセージに『どうしましたか?』と返信すると、返ってきたメッセージは『メールじゃ嫌。明日会える?』と、更に僕の予想を上回るものだった。幸いにも翌日の夜は予定がなく、その時間に錦糸町で待ち合わせることになった。今思い返すと、ラブホテルが多く集まる錦糸町を集合場所にする時点で察するべきだったのかもしれない。当時の僕はそこまで器用なことは出来なかった。


『アイ君……』


 10月3日の、おそらく21時頃だろう。眞城先輩の声が聞こえて、僕はそのほうを向く。久々に眞城先輩を見た時の途轍もない懐かしさは、まるで高校の頃の思い出が僕の頭をこじ開けて入ってくるような感覚だった。眞城先輩は変わっていた。あの頃にはなかった大人の落ち着きとオーラを帯びていた。高校生なら出来なかったことをしてきて、一段と大人になったのだろう。大きく成長し、もっと高い場所へ変わっていく先輩が僕の目の前にあった。だが、彼女の顔は確かに眞城聖花の顔だった。

 眞城先輩は、僕を目の前にしていきなり涙を流し始めた。久しぶりに僕の姿を見て、思わず安心したのだろう。相談せずとも、ただあの頃の懐かしさに触れるだけで、どこか元気になったのだろう。先輩がその時流した涙はそれ故の涙だった。しかし、それでも僕は慌ててしまっていた。自分がこの瞬間に何かやらかしてしまったのかと、そう勘違いしたのを今でも憶えている。そして、勘違いはすぐに溶けたことも。眞城先輩は大粒の涙を流しながら僕の胸に顔を埋め、僕を抱き締めて少しずつ泣き声を大きくした。大人の雰囲気を纏いながらも、子どものように泣きじゃくる眞城先輩が可哀想で仕方がなく、僕は肘だけを動かして軽く先輩の背中に手を回した。眞城先輩が僕を放すまで、数十秒程そんな状態が続いた。先輩が僕から離れると、先輩は自分の頬を伝う涙を手で拭って、僕に笑顔を見せる。僕を抱き締めて少しでも苦しい気持ちが収まったのなら良かったと、その顔を見て僕も少し安心した。

 その後は、具体的に先輩の悩みを聞いてあげようと僕が『どこかに座りましょう』と提案し、眞城先輩は『着いてきて』とただ一言だけ返した。そうして連れてこられたのがラブホテルだった。僕は眞城先輩からメッセージが来る時と同じようにまた衝撃を受けたが、2人で話せる場所には最適なので、ただ自意識過剰になっているだけだと自分に言い聞かせ、なんとか心の平静を保っていた。


 簡潔に言えば、先輩が思い悩んだのは自分の価値だった。眞城先輩の勤め先はまさにブラックで、仕事をしても仕事が増え、仕事をしても仕事が増える。することをするだけの毎日で、それを誰かが褒めてくれることもない。自分の仕事で、誰かを笑顔に出来ているかも分からない。給料が渡された時でさえ、たとえその給料が高額でも、社会が「はいはいお疲れ」と適当な一言を言いながら頭をぽんぽんと撫でるような気がするだけと、眞城先輩は語った。


 まだ会社で働いたことがない僕に対し、眞城先輩はただ聞いてくれるだけで良いと言ってくれた。僕は大学院で研究ばかりしている学生なので、もう立派な成人だが、社会人ほど社会に進出しているわけではない。当時、就職活動をしているだけで、会社で働く感覚は持っていなかった。そんな僕でも先輩の悩みを聞いて何も思わない程、非常識ではない。入院する前、大学生の時にしていたバイトを思い出す。お金のために、やりたい仕事ではない仕事をした。僕はバイト代さえ貰えれば良いと思っていた。僕の働きがどう活用されようが気にしなかった。しかし、眞城先輩は違う。ブラック企業の仕事とはいえ、眞城先輩がしている仕事は自分がしたいと思った仕事だ。絵を描くことに少しでも関係する仕事だ。役に立ちたいという思いは人一倍強い。それを無下にされたなら、眞城先輩のような出来た人でも心を病むのは無理もない。

 ふと、あの頃のバイト終わりに言われた「今日もありがとう」という感謝の言葉に、何度も助けられたことを思い出す。相手が誰でも良い。とにかくその感謝に力があって、バイトや学校の終わりに言われたら、その一瞬だけはその日の疲労を全て忘れられたことを思い出した。今度は、僕がその「今日もありがとう」を人に言う番だと思った。

 ベッドに座る眞城先輩の隣に僕は座り、先輩の真横でこう言った。


『人の努力は決して無駄にはなりません。先輩の努力が人を助けたら、助かった人の努力がまた人を助けて、巡りめぐっていつかは身の回りの人や先輩自身を助けるんです。ですから先輩、いつもありがとうございます』


 頭に思い浮かんだ言葉を引っ張って、なんとか口から発した言葉だった。もしかしたら、薄っぺらい言葉だったかもしれない。

 駅で僕を見るなり泣いた眞城先輩だったが、その言葉を聞いてまた泣き出してしまった。だが今度は違い、初めから号泣だった。僕に抱き着いてベッドに倒れ、僕の服を濡らした。僕は駅での時と同じように先輩を抱き返し、背中をさすってあげた。今度はそれほど長い時間抱き合わなかった。眞城先輩は起き上がると、僕を起き上がらせ言った。


『アイ君、迷惑だったら断って良いんだけど……』

『なんですか?』

『そのありがとうって言葉、これからも私に言ってくれない?』


 それは、眞城先輩の遠回しな告白だった。僕は高校の頃、眞城先輩とは違う人を好きだったのにも関わらず。


『……仕方ないですね』

『ふふ、ありがと。お礼に……』


 眞城先輩は僕の唇を奪い、僕にをくれた。嫌ではなかった。あれから4年と半年が過ぎた今、あの頃好きだった人の事は完璧に忘れたつもりだった。初めての彼女、初めての相手が眞城先輩でも僕に後悔はなかった。

 それ以降は、その時と同じようなことをする夜が何度もあった。段々とスキンシップも激しくなっていった。普通のキスからディープキスへ。キスする時の手の位置は、背中から腰へ。少しずつ体の距離は近くなり、気付けば密着していた。それらは僕らが交際を始めてから一ヶ月も経たずに変わったことだった。それから1年近く経ち、今に至るのだ。きっと、そろそろ超えてはならないところも超えてしまうかもしれない。そして僕はそれに対して抵抗すら感じない。本当に堕落したものだ。


 僕は、卒業アルバムの写真に写っている眞城先輩の頭を指で撫でながら、僕らの関係の始まりを思い返していた。

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