第3話「朝」

 窓から部屋へ入り込む日光が、瞼越しで目を軽く刺激する。光が眩しくて、眠りから目が覚めてしまった。目の前には眞城先輩の寝顔がある。安らかに眠るその顔を見て昨日の夜のことを思い出した。僕は先輩に求められ、そのまま一晩過ごしていたのだ。そうして朝になり、時計を見ると午前8時。土曜日に起きる時間にしては早すぎる。

 二度寝するほど眠くはないので起き上がろうと思ったが、眞城先輩の寝顔をまだ見ていたいという気持ちもあり、今はとりあえず動かないでおく。それに、僕は良くても先輩は疲れていたから、僕が動いて先輩を起こしてしまうのは申し訳ない。とりあえず、なかなかお目にかかれないであろう眞城先輩の寝顔をじっくりと観察し、相変わらず可愛いな、それにしても無防備だな、そんなことをちょっと思いながら、先輩が自然に起きるのを待った。


「ん……」


 そのまま5分ほど時間が経ったか。眞城先輩も目を覚ます。こんなに早く起きるとは思わなかった僕は、ずっと顔を見ていたことに対してどう言い訳しようか迷ったまま、先輩に「おはようございます」とだけ言った。


「ふふ……おはよ。今何時?」

「8時6分ですね。まだ寝ててもいいですよ」

「うーん……せっかくだしもう起きようかな。アイ君、起きたまま動かないでくれてたんでしょ?」


 図星を突かれたので、ありがたく僕はベッドから起き上がろうとしたが、先輩が僕を離さないので起き上がることが出来ない。僕はそんな可愛い先輩にちょっと呆れつつも、また先輩に近づいて彼女の脇腹をくすぐった。先輩は布団の中で、もぞもぞと僕のくすぐりに抵抗する。少しだけ笑い声も聞こえた。先輩はくすぐりでとっくに僕を放したが、なんだか気分が乗ったので更にくすぐる。そんなイチャイチャが少し続いた後、眞城先輩の「もうやめてよ~」という声で、僕らはベッドから起き上がった。


「今日は暇だなー」


 帰る支度をしながら、眞城先輩が言う。

 

「昨日も言った気がしますけど、今日は予定あるんで僕は無理ですよ」

「あぁ、遠回しに誘ってるわけじゃないよ?本当に暇だから声に出ちゃった。んー、高校の友達誘おうかなー」 

「高校の友達、ですか……」


 高校の友達という言葉を聞いて、ふと美術部の同期達と全く会っていないことを思い出してしまい、心が痛む。また、眞城先輩は今でも美術部の人達と交流があるらしいので、心の痛みは更に酷くなった。


「アイ君は、元美術部と会ったりしないの?ほら、美玖ちゃんとか、純奈ちゃんとか」

「なんで美術部の女子ばっか挙げるんですか。男もいたでしょ。まぁでも、佐川とも野口とも全く会ってないですね」


 佐川美玖、野口純奈。懐かしい響きの名前だ。本当に自分は美術部と会っていないことを改めて思い知らされる。それどころか、今僕は美術部の知り合いの名前を聞いて懐かしいと感じてしまったのだ。ひょっとしたら眞城先輩以外の美術部の人達のことを、忘れていたんじゃないかとも感づいてしまう。

 支度を終え、受付で料金を払う。料金は眞城先輩が誘ったからと眞城先輩が全額払うと言うが、奢ると言われると無性に申し訳なくなってきたので、無理やり説得して割り勘にした。そしてホテルを出る。

 先輩も僕も一度家に帰る予定だったが、方向が全く違うので池袋駅で解散にした。


「じゃあ、今日はありがとうございました」

「ありがとうはこっち。本当にいつも助かってるよ」


 僕はコクリと頷く。


「では、また」


 そういって僕は内回りの山手線が通る六番ホームのほうへ歩いていく。眞城先輩がこっちへ手を振っているのが見えたが、軽い会釈を返すだけにしておいた。

 先輩と別れた途端に身の回りが静かになる。さっきまでとても楽しい時間を過ごしていたというのに、一人になった瞬間にここまで落ち着けるのかと、自分の無意識な一面に思わず驚く。また、楽しい時間から静かな時間に急に切り替わるせいか、妙な寂しさを感じてしまった。


 僕の家は葛西駅にある。このまま山手線に乗り、高田馬場駅で東西線に乗り換えてしばらく乗っていればすぐに着く。駅からはあまり距離がないので、歩く必要もあまりない。我ながら立地の良い家に住めていると思う。

 眞城先輩を見て、あそこまで高校の頃を思い出す事は中々なかった。いつもなら、眞城先輩を見てもただただ「あの頃は楽しかったな」と思うか、もしくは何も思わないかだった。数ある思い出の中で少しずつ印象が薄れていく高校の頃の事を、久しぶりに鮮明に思い出すと、ただ頭の中で記憶を伝って思い返すだけでは足りなくなった。家に帰った僕はすぐさま収納ロッカーから段ボールを取り出し、高校の卒業アルバムを引っ張り出す。アルバムのページを急いで捲っていき、各部活ごとの記念写真のページを見つけ、その中から美術部を探す。サッカー部やバスケ部といった運動部は無視し、軽音楽部や演劇部といった文化部の写真が集まるところを重点的に見ていると、美術部はページの下のほうにあった。


「あ、懐かしい……」


 かつての自分の容姿、毎日顔を見合わせていた同期、顧問の先生、そして美術室。美術部の記念写真に写っている何もかもが、僕に涙を流すことを促した。


 懐かしくてにやけてしまう。懐かしくて声が出てしまう。懐かしくて虚しくなってしまう。懐かしくて、泣いてしまう……。


 ふと気付くと、卒業アルバムに大粒の涙が落ちていた。懐かしさ故の涙と、今の自分の情けなさ故の涙が混ざり合い、頬を伝って涙は止まらなくなる。卒業アルバムを拭っても、涙が一滴また一滴と落ちてくるのだ。

 大声で泣いても良かった。家には一人しかいないし、隣に聞かれることもない。しかし何故か僕は声を殺し、鼻をすするように泣いた。静かな嗚咽が1kの我が家の隅々にまでかすかに響く。惨めというのはこのことだろう。近くに誰もいなくても、むしろ慰めてくれる誰かがいないせいで、僕はここで静かに泣いているのが恥ずかしく感じてきた。


『1年1組3番、市原一誠です。風景画が得意です』

『アイ君の風景画、上手~!こういう絵描けるの羨ましいなぁ……』

『ん?アイ君、私の絵が気になるの?』

『アイ先輩、ご卒業おめでとうございます……!』


 僕は知らず知らずのうちに、眞城先輩に「助けて欲しい」と思ってしまっていた。

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