第2話「堕落」
『1年A組3番、市原一誠です。風景画が得意です』
眞城先輩はどんな事でも優秀だった。美術部のエースという異名が付いた程に絵が上手く、勉強も運動もそれなりに出来て、誰とでも親しく話すコミュニケーション能力も兼ね備え、そしてスタイルの良い美人。しかし勉強ばかりの日々だったかというとそうではなく、彼女の高校生活はイマドキのJKのように充実しきったもので、勉強や部活を両立させつつも、放課後は高校の近くのショッピングモールで期間限定の飲み物を飲んだり、プリクラを撮ったりしていた。その上、美術部副部長と生徒会副部長を兼任していた時期もある。当然、生徒の間でも教員の間でも彼女の優秀さは噂になり、特に生徒の間では「最強ギャル」と、教員の間では「将来有望」と言われていた。きっと彼女は、どんな世界に放り投げられても生き延びることができるだろうと、僕もよく思っていた。先輩は、普段の教室では彼女と同等に美人な女子と話で盛り上がり、放課後の美術室では相手を選ばずオタクでも男でも会話ができる。先輩を嫌う人は見たことがないし、先輩に敵う人もいないと思っていた。それ程眞城先輩を慕っていたが、当時の僕は眞城先輩に対してそれ以上の感情など無かった。
『アイ君の風景画、上手~!こういう絵描けるの羨ましいなぁ……』
高校を卒業してはやくも5年と半年が過ぎた今、例年と比べ僕らの代は同期や先輩と仲が良かったのに、僕は美術部の同期や先輩後輩とはもう会わなくなってしまった。大学に進学して関わる人が変わったのだろうが、そんな言い訳も虚しく、彼ら彼女らと会わなくなったことは堕落したことを僕に自覚させる。重ねて、当時僕が好きだった先輩とではなく、先輩の中で一番美人で優秀だった眞城先輩と贅沢にも今こんな関係であることは、堕落したというその自覚を更に強めた。もし美術部の人達が今の自分を見たらどう思うだろう。想像しただけで、罪悪感に似た虚しさが僕の胸に穴を開ける。いや、もしかしたら見られること自体が怖いのかもしれない。美術部の人達が僕らを見て何も思わなかったとしても、きっと僕の胸に穴は開くだろうから。
美術部と会わなくなったことは、当時しっかりと周りと仲良くなろうとしなかったからと自己反省が出来るが、それで終わりならまだ良かった。堕落によって出来た胸の穴をもっと広げるように、絵ももう描かなくなってしまったのだ。あの頃は周りと関わることも忘れて、熱心に風景画を描いていたというのに、大学に上がってからは一気に気力を失ってしまった。同期や先輩、後輩達は現在も絵を描くことを趣味にしているだろうし、大学で美術同好会に入った人や、眞城先輩のように絵を描く機会がある仕事に就いた人だってもちろんいるだろう。美術部での経験をしっかりと活かす彼らと自分を比べると、途端に彼らの存在が輝かしくなってきて、自分はそんな彼らの影でしかないような気がしてきた。
『ん?アイ君、私の絵が気になるの?』
美術部には好きな人もいた。その人は美人でも眞城先輩ほど出来た人間じゃなかったが、男好きで個性の強い人だった。僕はそんな好きな彼女にどこか魅力を感じた。彼女は眞城先輩のように優秀ではなく、周囲からの評価がとても高い人ではなかったが、彼女は僕にとっての高嶺の花だった。彼氏を探す彼女に振り向いてもらえるよう、アプローチもしていた。眞城先輩も僕はその人が好きなことを知っていて、たまに協力もしてくれたが、卒業するとそれ以降は好きな人に対する気持ちが嘘のように消え去ってしまった。まだ現役で美術部にいた時、彼女が僕に振り向いてくれることは結局なかったからか、無意識に潔く諦めたのかもしれない。または、馬鹿馬鹿しくなって冷めたのかもしれない。過去に、今日のように遊んだ後の眞城先輩から「好きな人のことはまだ好きなの?」と訊かれたことがあった。当時の僕は、あやふやに答えた記憶があれば、きっぱりと「冷めました」と言った記憶もある。しかし今の自分に何か言えることがあるとするならば、好きな人を想う気持ちがまだほんの少しでもあれば、僕は眞城先輩とこんなことはしていないだろう。
『アイ先輩、ご卒業おめでとうございます……!』
眞城先輩の顔や体は、高校の時とあまり変わりがない。だからこそあの頃のことを鮮明に思い出し、懐かしむことができる。もうこれ以外に思い出す方法がないかのように。
気付けばキスマークを結構付けてしまっていた。これ以上付けているとなんだか不味いことになりそうな気がしたので、顔を鎖骨から離す。代わりに先輩の顔をよく見つめながら、彼女の太ももから頬までを撫でまわした。気持ち悪いのは自覚する。このすべすべでつやつやな肌はずっと手で触れてたいとどうしても思ってしまうのだ。さっきから先輩の脚や、腹部、肩にずっと僕は触れていた。現に今もずっと先輩の頬に手を当てている。先輩は僕の手に自分の手を重ねて、赤面しながらも微笑みかけてくれた。先輩は頬にある僕の手から腕を伝い、僕の肌にずっと触れていながら僕のうなじに手をかける。そして僕を少し引き寄せ、頬と頬をくっつけ合った。先輩の耳が辛うじて見える。この耳を唇で挟んだり甘噛みしたら、喜んでくれるだろうか。僕は躊躇せずに先輩の耳を軽く噛み、調子に乗って舐めた。先輩はちょっとだけ、声にならない声を漏らしていた。これは自分のためではなく、あくまで先輩のためであることを忘れてしまいそうだった。
最後に、僕は眞城先輩と長い時間、唇と唇のキスをした。段々と舌を使う深いキスに変わっていった。ただ先輩を触るよりもずっと、明確に先輩の息遣いや心の状態を感じ取れた。目の前に僕とキスをして心音を速め、息を荒くしていく先輩がいる。そして僕は妙に落ち着いていた。ただ先輩のことを、可愛いと思うだけだからだった。
「ありがと……」
先輩は弱った声でそう言った。
もう十分かなと、僕は眞城先輩の隣で横になるが、先輩はまだ足りないのか、僕の腰に手を回してもっと僕を求めてくる。僕は横になってからまた先輩に応え、先輩を抱き締めながら掛け布団で自分達を包み、先輩の頭に手を置いて優しく撫でる。眞城先輩の髪の良い匂いがしてきた。
「アイ君……手、繋いで」
僕は頭をなでるのをやめて望み通りに先輩の手を握った。なんだか更に気分が乗ってきてしまい、指も絡ませてあげる。
アイ君と呼ばれて思い出す。そういえば、このあだ名は眞城先輩が付けてくれたものだったか。市原一誠という、イニシャルがi・iの名前だから
アイというのは、僕が苗字で呼ばれるのを嫌っていたから出来たあだ名だ。市原や市原君と呼ばれるのがどうも気に入らず、少し気分が悪くなる。だが恋人はお互いを名前で呼び合うことを考えると、一誠と名前で呼んで欲しいとは絶妙に頼みにくく、結局部活内ではあだ名で呼ばれることになり、それで出来たのがアイだった。
「先輩、もう大丈夫ですか?」
「うん、ありがと」
気付けば眞城先輩はシャツを全て脱いでいた。先輩の身体と僕の腕が密着していて、肌と肌がくっつく感覚がなんとも気持ち良い。
眞城先輩と合流する前はこれからすることに興味はないと言ったが、僕も少し楽しんでいたのかもしれない。
「明日は土曜日ですね」
「今日はこのまま一泊だ。週末だしデートでも
する?」
「すいません、明日も明後日も予定あるんです」
「そっか。残念」
「といっても明日は午後からなんで、朝はゆっくり支度できますけどね」
眞城先輩はふふっと笑う。
「ごめんね。私がもっとしっかりしていれば、アイ君にわざわざこんなことしてもらう必要もなかったのに」
「いや、そんなこ……」
「ううん、普通の人はこんなことしてもらわなくても頑張れているのに、私はアイ君に何度も助けられてる。他の人より劣ってるんだよ。私」
「他の人だって、何かのモチベーションがあるから頑張ってるんです。皆同じですよ。何に助けられてるかが違うだけで」
「でも、人の助けがいることをモチベにしちゃ、その人の迷惑なのに」
「良いから」
僕は眞城先輩をもっと自分の胸に抱き込んだ。
「こんな変な頼み事を快く引き受けてくれるなんて、アイ君、優しすぎるよ……」
「それが彼氏の役目です」
僕は僕の腕の中にいるこの人の肌で感じながら、堕落したなと心の中で呟く。もしかしたら、声に出ていたかもしれない程に大きく、心の中で。
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