10
あれから何時間か経ったと思う。
はっとして目を開ける。どうやら寝落ちていたらしい。アシュが去ったあと、張り詰めていた気持ちが緩んだからか、眠気が一気に襲ってきたのはなんとなく覚えている。
睡眠の影響で、メンタルはかなり改善している気がした。私は立ち上がる。胃の底が気持ち悪い。妙な倦怠感。当たり前だ、昨日からなにも食べていない。それどころか、一度胃の中を空っぽにしてるのだ。
部屋の電気を点けるために手をかざそうとして、違和感に気づく。外がやけに騒々しい。甲高いサイレンのような音も聞こえてくる。時計を見れば、まだ午後の授業中のはずだ。避難訓練なんてあっただろうか。
様子を見に行った方がいいような気がした。
扉に手をかける。やっぱり少し抵抗はあった。けれどそれは、深呼吸一つで振り払える程度の軽微なもので、もはや足枷にはなりえない。
ロックを外し、扉を押す。
廊下は明らかに尋常な状況ではなかった。避難誘導用のグリーンライトがそこかしこで点滅している。これは訓練じゃないと直感的に理解する。一体なにが、
「──カレンちゃん!」
扉の前で戸惑っている私に、聞き覚えのある声がかけられた。
見ると、半脱ぎのつなぎにヘソ出しタンクトップの女性が、壁に手をついて肩で息をしている。
「シアン、先輩……?」
アシュの先輩、修士一年のシアン・イツキだ。全力で走ってきたようで、顔は上気して汗だくだった。明らかになにかあった感じだ。
シアンは数秒で息を整えて、
「アシュ、見てない?」
私は困惑する。
「さっきうちの部屋尋ねてきましたけど」
「いつ?」
「ええと……たぶんお昼よりは前……」
「その後どこ行った!?」
「え、えと、」シアンの剣幕に思わず圧される。「……たぶんテストフィールドに。今日は夜までアーコスの調整するって」
ここまで分かりやすく蒼白になる人の顔を、私は初めて見た。
「あのバカ……間が悪すぎんだろ……」
「……すみません、話が見えないんですが」
シアンが信じられないような顔でこちらを見る。
「……まさか聞いてないのさっきの避難警報!?」
「避難、警報……?」
聞いてない。だが頭の片隅を占めていた違和感は解消された。屋外の喧騒も鳴り響くサイレンも、それが理由か。
「【フォート・パシフィカ】にネミスが現れた。南東部第三観測エリアの外壁破って中央区画に向けて侵攻中だって──【インテグレーテッド・アリーナ】は、思いっきり奴らの通り道なんだよ!!」
心臓が鷲掴みにされた気分だった。
ネミスが現れた? 建設から四半世紀もの間、奴らの侵略を許さなかった鉄壁の要塞であるこの【フォート・パシフィカ】に? いやそれよりもアシュが危ない場所にいるという事実が心を強く掻きむしる──フライトロック症候群。あいつは走れない。
シアンは落ち着きを見せ始めていた。半ば自分の考えをまとめるみたいに早口で、
「……ストライダーは候補生も含めてみんなブリーフィングルームに招集されてる。
「私が行きます」
「……つってもあの辺避難シェルターないよな。一番近い安全区画も五ブロックは離れて今なんて言った?」
答える前に駆け出していた。
背後から叫び声がするがよく聞こえない。たぶん待てとかバカとかそんなんだろうが待たないしバカでもないから応える必要はないと判断した──いや、バカではあるのかも。感情を抑えて冷静に判断せよと前頭前野が喚き続けているのに、脚は止まる気配を見せない。空腹で衰弱していたはずの身体が嘘みたいに動く。夢を諦めきれずに早朝ランニングを欠かさなかった成果がここに出ている。すれ違う人たちの視線や声を振り切って走る。避難はもうほとんど終わっているみたいで、アカデミーの敷地に残った人はまばらだった。
アーコス部隊の発進待機区画より、アカデミーの方がテストフィールドにはわずかに近い。全力で走れば彼らより数分は早く到着するはずだ。以前、なにかのドキュメントで拾い読みした統計情報が脳裏をよぎる。ネミスの襲撃時には、救援が十分遅れるごとに生存確率が約二〇パーセントずつ低下するのだそうだ。前提条件が広範すぎて外的妥当性に欠ける統計である。政治家がUDF批判のプロパガンダに持ち出すために用意されたようなデータで、現実には何の役にも立たない──そんなふうに、その時の私は判断したんだった。けれど皮肉にも、今の私はそんな数字に背中を押されて疾走している。
はるか遠くから爆発音が聞こえてくる。断続的に響く砲声。どこかでアーコス部隊がネミスと接敵したらしい。テストフィールドとは別の方向だ。もっと島の中央部に近い方。つまり、ネミスはもうテストフィールドを通り過ぎている──
その予感を裏付けるように、倒壊しかけた【インテグレーテッド・アリーナ】が視界に入る。その外壁は大質量の物体が振り回された跡みたいに丸ごと削り取られていて、あたりに鉄骨やガラス片が散乱している。少し離れたところでは、黒々とした煙が幾筋も上がっていた。ネミスは都市部を攻撃する際に焼夷弾に近い特性の兵器を使う。火の手は今も広がり続けているのだろう。
瓦礫は多いが、抜けられないほどではなかった。幸いエントランス付近は無事で、私はそこから施設内へ入り込む。セキュリティゲートをハードルの要領で飛び越えて、メインドームに併設されたガレージに突入する。
ガレージ内は倒壊しかけていた。瓦礫の隙間をどうにか抜けて、奥へ進む。土煙がまだ収まっていない。整備用のコンソールがそこかしこに散らばっていて、断線したケーブルからは火花が散っている。
その奥に、仁王立ちしたままの真っ黒なアーコスがあった。
ここに来て足がすくむ。
心臓が痛いほど弾んでいて肋骨を突き破りそうだった。酸素の供給量が不足しているのか、視界がチカチカとブラックアウトしかけている。その場で座り込みそうになるのを、意思の力で必死に抑える。
──怖い。
アドレナリンが抑え込んでいた感情が、思い出したように頭蓋の中を暴れ回る。
わざわざこんなところに何しに来たんだ? ストライダーでもないのにアシュを助けるって? 私だってヒーローになれるだなんて思い上がっちゃった?
「うる、さい」
震え始めた膝を力任せに殴りつける。今更なに言ってんだ。もう目と鼻の先にアーコスがある。今からやっぱり帰ります、なんて選択肢は存在しない。
意を決して歩き出した途端、視界が大きく揺れた。
「あ────」
思いっきり尻餅をついた。
轟音と共に施設全体が揺れていた。アーコスによるものじゃない。攻撃兵器の炸裂というよりは、なにか巨大なものが近くに着地したような衝撃だ。ここからそう遠くない場所にネミスがいる。それも相当なデカブツが。
「────カレン?」
不意に声がした。私は目を凝らす。土煙の向こうに人影が見える。
アシュだ。
どうにか立ち上がる。全力疾走の反動で身体中のレスポンスが悪い。タスクを積みまくったCPUみたいに意思と動作にラグが生じる。しばらくはまともに歩けそうもなかった。私は脚を引きずりながらそちらへ向かう。
アシュは壁にもたれるようにして座っていた。そこかしこが擦りむいて出血しているみたいだったが、軽傷のようだ。少なくとも、生身の部分は。
「どうも脚を怪我する星の下に生まれちゃったみたいでね」
そう笑うアシュの義足は、膝から下を切れ味の悪い刃物で無理やり捩じ切られたみたいに失っていた。断面からは有機的に絡み合った無数の配線が飛び出している。
「瓦礫に挟まれて抜けそうになかったから、ボルトカッターで切断したんだ。あれは二度とやりたくないな。自分の脚を切り落としてるみたいでゾッとした。リアルすぎる義肢も考えものだね」
「……そう」
少し無理はしているみたいだったが、少なくとも、アシュ・レンベルクは生きている。
安心した。
「──良かった」
安心しすぎて、不意に脚の力が抜けた。そこからはスローモーションだった。まずは体重を主に支えていた左足がぐにゃりと曲がって身体がつんのめる。慌ててバランスを取ろうと踏み出した右足は想定以上に動作が鈍い。踏み出しきる前につま先が反対の足のかかとに引っかかって、そこから先は酷い有様だった。
「ゔぇっ」
潰れた小動物みたいな声を上げながら、私は頭からアシュに突っ込んだ。
「…………なんか前にもこんなことなかった?」
「……ごめんなさい」
私はアシュのお腹から胸の辺りに頭を押し付ける形でうずくまっていた。柔らかい感触の向こうから、鼓動が押し返してくるのをわずかに感じる。
……ふと疑問が生じる。
「ねえ、前から訊こうと思っていたんだけど」
「どうかした?」
「……いえ、今言うことでもないわね」
「そう?」
不意にアシュの手が背中に触れる。ずいぶん気安いと思ったけれど、不思議と嫌悪感はなかった。
「来てくれたんだね」
「──ええ」
「一人で来るのはちょっと無謀すぎない?」
「そうね」
「もうちょっと冷静な判断をすると思ってた」
「私も」
「でも、ありがと」
轟音。
先ほどのネミスだ。近い。
「──アーコスの整備、終わってるから。いつでも乗っていいよ」
「ありがとう」
アシュから離れる。
体力も少しは回復していた。今ならもう一度くらい走れるはずだ。
落ち着いた途端、自分の鼓動の速さに気が付いた。お腹の底が引っ張られるみたいに重たい。恐怖と緊張と、それからほんのちょっとの武者震い。私は意思に反して震え始めた両手を強く握り、大きく深呼吸をした。
「……大丈夫?」
アシュが心配そうに聞く。
「どうかしら」
立ち上がる。
「でも、やってみる」
幸い昇降式プラットフォームはまだ生きていた。電力系統は落ちているみたいだったが、予備電源に繋げば最低限は動作する。
リフトアップされた私の前で、胸部装甲が上下に開く。カプセル型のコックピットが、静かに私を待っている。
バイオメトリクス認証をクリア。
コックピットが滑らかに開く。
──肉の焼ける匂いがした。
血溜まりを踏みしめる水音がした。
そこには、半分炭化して血とはらわたを床にこぼす姉の姿が、変わらずあった。
「──お姉ちゃん」
もうすぐ八歳になる私が言う。
「どうして死んじゃったの。私がストライダーになるところ、見てて欲しかったのに」
返事はない。
「──お姉ちゃん」
十八歳の私が言う。
「ずっと考えてたの。もしかするとお姉ちゃんは、私にストライダーになんてなって欲しくないんじゃないかって。だからずっと
でも、それは違った。若きアーキニアが、姉が救った一つの命が、それを教えてくれた。
「お姉ちゃんは私がストライダーになるって信じてた──私が【スレッド】を超えるって信じてくれていた」
返事はない。
当たり前だ。
そこにいるのはサクラ・カザミじゃない。そこにはなにもない。
最初から私の心の中にしか、私を阻むものはなかったんだ。
正直、まだ寒気がするくらい怖かった。一歩間違えば奈落の底に真っ逆さまの細い道を歩いているみたいな気分。死ぬかもしれない。たぶん、死なないで戻ってこられる確率よりも、そっちの方がわずかに高い。シミュレーションみたいに上手くいく保証なんてどこにもない。今から尻尾巻いて全力で逃げたほうがずっとずっとマシな気がする。
それでも私は、アーコスに乗ることを選んだ。
これは、私の魂が決めたことだ。
瞼を強く閉じて、それからゆっくりと開く。
迷いはもう消えていた。
誰もいないコックピットに、私は乗り込む。
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