9
誰が扉を叩いたとしても、決して開けてやるものかと思う。十八にもなってガキみたいだとは自分でも思うけれど、知ったことか。
寮の自室で、扉に背をもたれて体育座りしながら、私は膝の間に顔をうずめる。
もう、その姿勢のまま何十時間も経っているんじゃないかと思う。
昨日、医務室のベッドで目覚めた私は、アシュたちの声を振り切って半ば逃げるみたいにテストフィールドを後にした。夕食も食べずシャワーも浴びず、ベッドに潜り込んでずっと一人で丸くなっていた。一睡もしないでずっとずっと床の一点を見つめていた。カーテンの隙間から差し込む光が明るくなってきても、どこか遠くから登校中であろう学生たちの喧騒が聞こえてきても、私はまるで親に叱られるのを恐れる子供みたいにじっと息を潜めていた。授業を無断で休むのなんて初めてだった。
NISはまだ身につけたままだ。昨日の汚れが付着したままだし汗が染み込んでいる気がして不快だったけれど、着替える気は起きなかった。
────分かってたんだ。
四年前のストライダー適性試験でも全く同じことが起こった。アーコスに乗り込もうとする瞬間、私は七歳のカレン・カザミに巻き戻る。戦地から回収された大破したアーコスに、周囲の大人の静止も聞かずに駆け寄ったあの小さな子供に。当然、実地試験は続行不可能となり、私は試験資格を失った。
なんてことのない、つまらない話だ。この四年間で、私の本質は何一つ変わっていなかったのだ。どれだけシミュレーションで仮想の敵を殺しても、医学資料や臨床実習で惨たらしく破壊された人体を目の当たりにしてきても、そんなのは精神の表皮を多少分厚くしただけで、中身の私はあの日から一歩も前に進んでいなかった。
情けない。
よりにもよって、あのアシュ・レンベルクにそんな姿を見られたという事実が、特に重く響いていた。両親の死も身体の欠損も憧れの【スレッド】の死も、ぜんぶ乗り越えて歩み続けたあの少年の前で、こんな体たらくを見せてしまったことが余計に堪えた。
視界が揺れる。やばい、また涙出てきた。ぎゅっと目をつむって両手で擦る。何度もそんなことをしてきたせいか、目の周りがひりひりと染みる。きっと顔中真っ赤に腫れてる。今日はもう、人前には出られない。
いや、もう人前になんて出なくてもいいか──と思う。
ちょっと持て囃されただけで浮足立って、自分を過大評価して、できもしないことをできるような気がして調子に乗って人前でゲロ吐いて気絶するようなどうしようもない人間、それが私だ。今はまだ大丈夫でも、そのうち専攻している学問の分野でも似たようなことをやらかすに決まってる。そんな人間に、人類の希望を背負うUDFアカデミーは相応しくない。さっさと退学届でも書いて、この太平洋に浮かぶ人工島から出て、放浪の果てに野垂れ死ねばいい。それが私に最もお似合いな最期なんだ、と思う。ネガティブ思考が暴走している。
ノックの音がした。
心臓がきゅっとなる。私はさらに息を潜める。怖かった。もしも教授が授業を欠席したことを咎めに来たらどうしよう。あるいは他の学生かもしれない。理由を聞かれたとして、上手く嘘がつけるだろうか。声が震えてしまわないだろうか。
唯一の安心材料は、今絶対に会いたくないあの少年である可能性がゼロなことだけだった。なぜならここはバイオメディカルコース生用の女子寮。いかなる理由があろうとも、男子学生は入館時のオートロックに阻まれる。
ありえないことが起こった。
「──大丈夫?」
もう一度吐きそうになる。
「…………なんであんたがここにいるのよ」
思わずそう毒づかずにはいられなかった。この声変わりを途中で諦めたみたいなやたら透き通った声は、ここ数日で一番聴いた他人の声だ。間違いない。アシュ・レンベルクが扉の外にいる。
「部屋の中にいる……よね?」
私は無視する。
「みんな心配してるよ。無遅刻無欠席だったカレン・カザミを今日は誰も見ていないって。一応、教務課に体調が悪いみたいだって話は伝えといたけど」
無視。
「……ごめん。こっちの我儘に付き合わせたせいで、あなたには辛い思いをさせてしまった」
無視。
「怒ってる……よね?」
「怒ってない。あなたは何も悪くない」
思わず返事が口をついて出た。
私がアシュに怒る理由なんて一つもない。ただ、自分の情けなさに打ちひしがれているだけだ。
「そ、そっか」
心なしかホッとしたような声が扉越しに聞こえてくる。
「あのテストフィールドは一週間契約で借りてるんだ。だからまだ数日は、アーコスはそのままだし、」
「──私はアーコスには乗れない」
私は吐き捨てるように言った。
「うん、でも」
「でももヘチマもない。乗らないんじゃなくて乗れないの。あなたも見たでしょ」
「──そうだね、分かってる。だから無理にとは言わない。気が向いたらでいい。会場の借用期間中は、ずっと待ってるから」
唇を噛み締める。そんな期待を背負って歩けるほど、今の私は強くない。
「どうして私なのよ──私なんかにこだわるのよ。まともにアーコスにも乗れない奴なんてさっさと見捨てて、他のストライダー候補生を探しなさいよ。あんたの大事な研究なんでしょ」
「それは──」
アシュは口ごもる。
やっぱり合理的な理由なんてないんだ。ほの暗い安心感が、胸の中に広がる。本当はアシュだって、内心では私に期待なんてしていない。さっきまでの言葉は私を慰めるための方便でしかなくて、頭の中では次に声を掛けるストライダー候補生のことを考えているに違いない。
「──パイルバンカー」
「……え?」
聞き間違いかと思った。
「パイルバンカーを使ってたよね、シミュレーションのとき」
「……そうだけど」
「一般的にはあまり評価の高い兵装じゃないはずだ。戦闘シナリオに最適化されていたとも言えない。なのに、どうしてパイルバンカーなんて使ったの?」
「それは、」
今度は私が口ごもる番だった。そんなのに合理的な理由なんて一個もない。非合理な理由なら何個かあるがそれを口にするのは恥ずかしい。咄嗟にでっち上げた理由をそのまま口にする。
「……しゅ、瞬間火力は優れているし……射撃兵装と違って弾数に制限がなくて、無補給での長期戦が可能で、それで……」
私の言い訳めいた言葉の羅列に、アシュは簡潔に返した。
「両手にバーストライフル担いで引き撃ちでもした方が強い──んじゃ、なかったの?」
凍りついた。
どうしてそんな言葉がアシュから出たのか、わからなかった。
混乱して思わず振り返る。扉一枚隔てた向こう側にいるであろう少年に視線を向ける。もちろんそんなことをしても、目の前にはチタン合金製のセキュリティドアがあるだけだ。なんの答えも得られない。
ありえないはずだった。
──かっこよくても実用性がないわ。両手にバーストライフル担いで引き撃ちでもした方が安定して強いもの。
それはもうすぐ八つになる私が、生意気にものたまった戦術理論だ。最期の出撃前の姉に言った言葉だ。
「十年前、倒壊した建物の中から【スレッド】に救われた」アシュがぽつぽつと話し始める。「これ、『【スレッド】のいた戦場でUDFに救われた』って意味じゃないよ。サクラ・カザミ大佐に、直接その手で救われたんだ。そして──たぶん重傷の子どもを安心させようとしてくれただけだと思うんだけど──そこで彼女の妹のことを聞いた」
それが本当なら、彼は最期の出撃中の姉と会っていることになる。
私は無意識に息を止めて、アシュの声に耳を傾けていた。
「【スレッド】は──妹は将来、自分よりも強いストライダーになるって言ったんだ」
世界中からあらゆる音が消えた。
アシュが言う。
「だから、あなたに声をかけた」
致命的だった。
アシュが口にしたのは、サクラ・カザミの言葉だ。
それは十年前、どことも知れない戦場で、誰とも知らない子供に話した、なんてことのない言葉だったはずだ。それはきっと、
それが今、十年の時を一足で跳躍して、チタン合金製のセキュリティドアなんか易々と貫いて、私の魂の一番奥まで突き刺さった。
なにか熱いものが、胸の底から一気に溢れ出す。
「────────、」
言わなきゃ、と思う。なんでもいいから言葉を絞り出さなきゃと思う。けれど一つでも声を出したら、ぜんぶこぼれてしまいそうで、私は必死に口を開閉させるだけで、なにも言えなかった。
アシュはその沈黙をどう受け取ったのか、しばらく経ってから扉の向こうで立ち上がる音がして、
「──とにかく、今日は夜までテストフィールドでアーコスの調整してるから」
それだけ言って、アシュは去っていった。
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