橘未来
第3話 ある女の死
閑静な住宅街に建つ高級マンション。その一室で、
約束の時間が迫っていた。
「ママ、行っちゃダメ!」
支度を終えて玄関へ向かおうとしたその時、娘のミクがリビングから飛び出してきた。ミクは早苗の脚にしがみつくと、泣き叫んだ。
「ママ、行かないで!」
突然のことに早苗は目を見開いた。ミクがこれほど取り乱すのを見たのは初めてだった。彼女の声は悲鳴に近く、その表情は恐怖に歪んでいる。思わず、遠い記憶がフラッシュバックした——燃え盛る建物の中で泣き叫ぶ少女。記憶の中のその顔が、目の前のミクと重なった。
「なんなのよ、いったい……」
背筋に冷たいものが走る。だが、時間がない。早苗はミクを引きはがそうとしたが、その力は五歳の子供とは思えないほど強く、手応えがない。それどころか、ミクの抵抗はますます激しくなっていく。泣き叫ぶ声が耳をつんざき、不穏な感覚が胸の奥から湧き上がった。
「わかったよ、ミク。ママ、出かけるのやめるから……ね?」
努めて優しい声でそう言いながら、ミクの頭をなでる。これで大人しくなるはずだ——いつも通りなら。早苗は心の中で祈った。このままミクを部屋に連れていき、外から鍵をかけてしまえば、邪魔されずにすむ。お願いだから、いい子に戻って。
だが、ミクはいつもと明らかに違っていた。泣き腫らした瞳でじっと早苗を見つめるその眼差しには、子供離れした知性と鋭さが宿っていた。
——嫌な目つき。あんたのその目、ほんと、あの男にそっくり。
「どうしたの? 放してよ。ママ、ここにいるって言ってるじゃない」
汗ばむ額を拭いながら、早苗は言った。だがミクは怯えた声でつぶやいた。
「どうして嘘つくの? 行っちゃダメなのに……お外に行ったら……ママが——」
その言葉が早苗の中で何かを引き裂いた。気づいたときには、ミクの首根っこをつかみ、壁に叩きつけていた。子供の小さな体が鈍い音を立てて崩れ落ちる。衝撃で息ができなくなったミクは、声もだせず、まるでゴミでも捨てるように自室に投げ込まれた。
「そこで静かにしてなさい!」
早苗はバッグを手に取ると、ミクを押し込んだ部屋のドアを閉め、外から鍵をかけた。泣き叫ぶ声がドア越しに響く。ミクは絶望的に叫び続けたが、早苗はそれを振り払うように家を出た。
マンションのエントランスにたどり着く頃、早苗は息が切れていた。ミクの泣き声はもう聞こえない。しかし、その耳に残る残響が不気味に心を蝕む。振り返ることなく足を踏み出した彼女には、わずかな後悔の影すらなかった。
だが、その背後で、ミクはなおも泣き叫んでいた——恐怖に焼かれるような声で、全身全霊をかけて。
「ママ……おねがい、もどってきて……ママ……!」
最後の力を振り絞った叫び声が途絶えるとき、ミクの目に視えていた二つの世界線が一つに統合された。それが何を意味するかを、聡明なミクは悟った。母の死。もう避けることのできない、確定した未来だった。
ミクは目を閉じた。全身を覆う痛みの中で、最後の祈りを捧げた。
——ママ、もう一度だけ、ママに会いたい。
静寂が部屋を包み込む頃、少女の小さな体は床に沈黙したままだった。
つづく
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