橘未来

第3話 ある女の死

 閑静な住宅街に建つ高級マンション。その一室で、たちばな早苗さなえは鏡の前で身支度を整えていた。窓の外には沈みゆく夕日が街路樹を赤く染め、部屋の中にも薄いオレンジの影を落としている。


 約束の時間が迫っていた。村上隆司たかしとの約束——その内容が何であれ、早苗にとって遅れることは絶対に避けたいものだった。彼から「大事な話がある」と告げられたときから、胸の内に焦りが募っていた。理由は自分でもはっきりとはわからない。ただ、今日の約束だけは守らなければならない。そんな衝動に突き動かされていた。


「ママ、行っちゃダメ!」


 支度を終えて玄関へ向かおうとしたその時、娘のミクがリビングから飛び出してきた。ミクは早苗の脚にしがみつくと、泣き叫んだ。


「ママ、行かないで!」

 

 突然のことに早苗は目を見開いた。ミクがこれほど取り乱すのを見たのは初めてだった。彼女の声は悲鳴に近く、その表情は恐怖に歪んでいる。思わず、遠い記憶がフラッシュバックした——燃え盛る建物の中で泣き叫ぶ少女。記憶の中のその顔が、目の前のミクと重なった。


「なんなのよ、いったい……」


 背筋に冷たいものが走る。だが、時間がない。早苗はミクを引きはがそうとしたが、その力は五歳の子供とは思えないほど強く、手応えがない。それどころか、ミクの抵抗はますます激しくなっていく。泣き叫ぶ声が耳をつんざき、不穏な感覚が胸の奥から湧き上がった。


「わかったよ、ミク。ママ、出かけるのやめるから……ね?」


 努めて優しい声でそう言いながら、ミクの頭をなでる。これで大人しくなるはずだ——いつも通りなら。早苗は心の中で祈った。このままミクを部屋に連れていき、外から鍵をかけてしまえば、邪魔されずにすむ。お願いだから、いい子に戻って。


だが、ミクはいつもと明らかに違っていた。泣き腫らした瞳でじっと早苗を見つめるその眼差しには、子供離れした知性と鋭さが宿っていた。


——嫌な目つき。あんたのその目、ほんと、あの男にそっくり。


「どうしたの? 放してよ。ママ、ここにいるって言ってるじゃない」


汗ばむ額を拭いながら、早苗は言った。だがミクは怯えた声でつぶやいた。


「どうして嘘つくの? 行っちゃダメなのに……お外に行ったら……ママが——」


 その言葉が早苗の中で何かを引き裂いた。気づいたときには、ミクの首根っこをつかみ、壁に叩きつけていた。子供の小さな体が鈍い音を立てて崩れ落ちる。衝撃で息ができなくなったミクは、声もだせず、まるでゴミでも捨てるように自室に投げ込まれた。


「そこで静かにしてなさい!」


 早苗はバッグを手に取ると、ミクを押し込んだ部屋のドアを閉め、外から鍵をかけた。泣き叫ぶ声がドア越しに響く。ミクは絶望的に叫び続けたが、早苗はそれを振り払うように家を出た。


 マンションのエントランスにたどり着く頃、早苗は息が切れていた。ミクの泣き声はもう聞こえない。しかし、その耳に残る残響が不気味に心を蝕む。振り返ることなく足を踏み出した彼女には、わずかな後悔の影すらなかった。


 だが、その背後で、ミクはなおも泣き叫んでいた——恐怖に焼かれるような声で、全身全霊をかけて。


「ママ……おねがい、もどってきて……ママ……!」


 最後の力を振り絞った叫び声が途絶えるとき、ミクの目に視えていた二つの世界線が一つに統合された。それが何を意味するかを、聡明なミクは悟った。母の死。もう避けることのできない、確定した未来だった。


 ミクは目を閉じた。全身を覆う痛みの中で、最後の祈りを捧げた。


——ママ、もう一度だけ、ママに会いたい。


 静寂が部屋を包み込む頃、少女の小さな体は床に沈黙したままだった。



つづく

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