第2話 三重螺旋

 陽が沈み、辺りは静かな暗闇に包まれつつあった。

龍二と加奈は、沈みかけた夕焼けに照らされたコスモス畑を見つめていた。花々は風に揺られ、微かな音を立ててさざ波のように揺れている。


「どうしてわたしを治してくれたの?」


 加奈の問いかけは静かで、夕焼けの空気に溶け込むようだった。


「君を選んだ理由は、俺にもわからない。しいて言うなら、直感みたいなものかな。この人にしようって」


「そうなんだ」


 加奈は小さく呟いた。


「君は、どうしてこんなことができるの? あっ、ごめんなさい、質問ばかりで」


「大丈夫。みんな同じ質問をするから、慣れてる」


 龍二はそう言いながら、どこか遠くを見るような表情を浮かべた。だが、その目が次第に緊張を帯びていく。


「俺が病気を治せるのは――」


 そこで言葉を切り、彼の表情が一変した。


「わからない。ただ……気づいたらできるようになってた感じ? ごめん、俺、もう行かなきゃ」


 龍二は立ち上がり、突然背を向ける。加奈も慌てて立ち上がり、その背中に声をかけた。


「あの……どうしても、名前だけでも訊いちゃダメ?」


 龍二は立ち止まり、振り返ることなく短く答えた。


「うん。そのほうがいいんだ」


 偽名を使うくらいなら、名前なんていらない。


「ただ――約束を忘れないで」


「新しい人生を、思う存分楽しむ?」


「そう。この世界を、めいっぱい楽しんで」


 加奈は少しだけ息を呑んで、力強く頷いた。


「うん。約束する」


「じゃあね」


 足早に去っていく龍二の背中に向けて、加奈は深々と頭を下げた。


「ありがとう! 本当に、ありがとう!」


 その声は夕焼けの空に溶け、遠く響いていく。彼女は龍二の姿が見えなくなるまで、必死に手を振り続けた。




✢✢✢✢✢




 汗が止まらない。走り過ぎたせいだろうか。

 心臓の鼓動が正常に戻るまで、龍二はしばらく電柱にもたれかかった。


――彼女は無事に家にたどり着いただろうか?


 突然目が見えるようになった彼女を見て、周囲の人々はどんな反応をするだろう。大騒ぎになるのは間違いない。それでも、彼女はきっと口止めした約束を守ってくれる。


 龍二は目を治した瞬間の彼女の顔を思い出す。涙を湛えた瞳、驚きに満ちた表情、子供のように泣き崩れた姿、そして笑顔――どれもが鮮やかで、心に刻み込まれていた。


――あの瞬間を見るためなら、俺はどうなってもかまわない。


 そう思った瞬間、腹がぐぅっと鳴った。間抜けな音に思わず笑う。


――腹も減ったし、そろそろ帰ろう。


 龍二は自宅に向かって歩き出した。日が完全に沈み、街灯が点灯し始めた道を進む。そのとき、道の向こうから誰かが歩いてくるのが見えた。


 龍二は足を止めた。


 道の向こうから、セーラー服を着た少女が歩いてくるのが見える。紺色の上下に赤いスカーフ。今どきの高校生には見えない、どこか古風な制服だった。


――コスプレ? いや……


 遠目に目を凝らしながら、違和感が胸にじわりと広がる。龍二の意識に引っかかったのは、彼女の存在そのものだった。普通の通行人とは違う――説明のつかない何か。


 歩幅はゆっくりだが、その足取りには妙な正確さがある。薄暗い街灯の光に照らされるたび、黒髪が艶やかにきらめき、まるで光をまとっているように見えた。


――なんだ、この感覚。


 龍二の視界に、普段なら意識的に遮断している遺伝子情報が自然と浮かび上がってきた。少女を取り巻く空間に、無数の幾何学模様が展開している。それはいつものような淡い青や白ではない。金色――眩いばかりの金色だった。幾何学模様はゆっくりと回転しながら、彼女の周囲で螺旋を描いている。


「……嘘だろ」


 思わず声が漏れる。胸の鼓動が高鳴り、手のひらに汗が滲む。少女は徐々に距離を詰め、ついには龍二の目の前に迫った。ほんの数歩先。息遣いが届きそうなほどの近さだ。


――三重螺旋……!?


 龍二の頭の中で、その言葉が形を成した。

 普通、人間の遺伝子は二重螺旋構造を成す。しかし、目の前の少女の遺伝子は、それを超えた異質な形――三重螺旋の構造を持っていた。螺旋はゆっくりと黄金の輝きを放ちながら回転し、その光はまるで空間そのものをねじ曲げるかのように龍二の知覚を侵食してくる。


「そんな、ありえない!」


 声がかすれた。龍二は一歩、いや半歩、無意識に後ずさる。


 少女はその場で立ち尽くしていた。

 均整の取れた顔立ち。滑らかな肌。街灯の下で光を反射する瞳――その美しさは現実感を伴わない。まるで彫刻か、虚構の世界から抜け出してきた存在のようだった。


「君はいったい、何者なんだ……」


 龍二の声は震え、喉から自然と漏れ出た。目の前には金色の幾何学模様が渦を巻き、三重螺旋の形状を成している。そんな遺伝子構造は、いまだかつて目にしたことがない。彼女は本当に同じ人類なのだろうか? あるいは……異星人?


 金色の光に包まれた謎の少女は、街灯の明かりすら霞ませるような美しさを放っている。黒髪は艶やかに揺れ、滑らかな肌はまるで陶器のように整っていた。


――これって、ほんとに現実なのか?


 龍二は混乱を抑えようと、呼吸を整えた。そして視界に映る金色の螺旋を意識的に遮断する。次の瞬間、感覚がわずかに戻り、思考が蘇る。


「あの、突然で申し訳ないんだけど――」


 話しかけた瞬間、少女は軽やかな身のこなしで龍二の横を走り抜けようとした。


「ちょっと待って!」


 反射的に手を伸ばした龍二の指が、彼女の手首を掴んだ。その瞬間、全身に電流のような感覚が駆け抜けた。熱くも冷たくもない、不思議な感触。体の奥底に直接触れられたような衝撃だった。


 少女の足が止まる。彼女も何かを感じたのか、怪訝そうに龍二を振り返った。その瞳は黒曜石のように澄み、底知れぬ深さを持っていた。


「放してください。わたし、急いでるんです」


 短く告げられ、龍二は慌てて手を離した。


「あっ、ごめん――」


 龍二の言葉を遮るように、少女は視線をそらし、小さなメモに目を落とした。額には汗が滲んでいる。よほど急いでいるのだろう。彼女はメモを握り直すと、再び駆け出し、夜の住宅街に消えていった。


――なんだったんだ、あの子……。


 龍二は思わずその背中を追いかけようと一歩踏み出したが、ためらった。しかし、あの金色の三重螺旋の光景が脳裏に焼き付き、引き返すことができない。


 気がつけば、彼女の後を追っていた。




✢✢✢✢✢




 少女は息を切らしながら、とある高級マンションの前で立ち止まった。目の前のマンションを見上げる視線は真剣だったが、どこか迷いも感じさせた。龍二は距離を取りつつ、様子を伺う。


 やがて、少女はエントランスの中に進み、オートロックの操作盤をじっと見つめた。だが、どうしたものか、彼女は何もせずにその場で立ち尽くしている。


――どうする気だ?


 龍二は意を決し、エントランスの中に入った。


「あの――」


 声をかけると、少女が弾かれたように振り返った。鋭い目が龍二を捉える。


「なんなんですか、あなた」


 その視線には警戒と拒絶がはっきりと浮かんでいた。追いかけてきた見知らぬ男に話しかけられれば、当然だろう。


「いや、あの、困ってるみたいだったから。もし手助けできるならと思って……」


 言い訳がましく聞こえたのか、少女はさらに険しい顔をする。龍二は内心後悔した。これじゃ不審者そのものだ。


 だが、彼女は唐突に呟いた。


「このマンションの803号室に行きたいんです。中に入る方法ありませんか?」


 予想外の言葉に、龍二は一瞬きょとんとした。


「そこの操作盤で部屋番号を押せば、家の人が開けてくれるんじゃないですか?」


「それじゃダメなんです!」


 少女は困惑した様子で肩を落とした。


「そんなに急ぎの用なの?」


 龍二の問いに、彼女は黙って小さく頷いた。


 その時だった。


「ニャーン」


 どこからか猫の鳴き声が聞こえてきた。少女が振り向くと、エントランスの自動ドアの外に三毛猫が座り込んでいる。白地に茶色と黒のまだら模様が光を反射して、どこか神秘的に見えた。


「ネコ?」


 龍二も同じ方向を見る。その瞬間、建物の影からブレザーの制服を着た少女とトレンチコートを着た中年の男が現れた。


「ちょっと茶太郎! 勝手に走り回らないでよ!」


 猫を追いかけてきたらしい二人は息を切らしている。三毛猫はそんな追跡者たちを尻目に開いた自動ドアをくぐり、少女と龍二の足元に歩み寄った。そして、まるで何かを伝えるかのように、もう一度「ニャーン」と鳴いた。


 セーラー服の少女がビクッと体をこわ張らせたのがわかった。


――これはいったい……?


 龍二の脳裏に、先ほど目にした金色の三重螺旋が再び蘇る。謎の美少女、三毛猫、そして新たに現れた少女(こちらも飛び抜けて可愛い)と中年男の二人。すべてが何かに繋がっているような、不思議な感覚が胸を満たしていく。



つづく

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