前田龍二

第1話 奇跡の力

 少女は出会ったばかりの、おそらく自分と同い年くらいの少年と一緒に電車を乗り継ぎ、見知らぬ土地の、見知らぬ公園にたどり着いた。その公園は小高い丘の頂上に位置し、ゆるやかな坂道を登り切った先にあった。知らない道をこんなに長く歩くのは、少女にとって久しぶりのことだった。


「いっぱい歩かせちゃってごめん」


 坂道を登りきると、少年が申し訳なさそうに呟いた。少女は額に浮かんだ汗を手の甲で拭いながら首を振る。


「ううん、大丈夫。それより――」


 少女は目を閉じ、ゆっくりと深呼吸をした。ほのかに甘く、爽やかな香りが鼻腔をくすぐる。その香りに誘われるように、少女の唇が自然とほころんだ。


「コスモスのいい匂いがする」


 風に乗って漂う香りの正体を確かめるように、少女はそっと顔を上げる。目の前には広大なコスモス畑が広がっていた。無数の花々が夏の陽射しを浴びて色とりどりに咲き誇り、柔らかな風に揺れている。淡いピンク、濃い紫、純白――それぞれの花びらがきらめく光をまとい、まるで生きているかのように畑全体が揺らめいていた。


 二人はその景色に吸い寄せられるようにして、近くのベンチに腰を下ろした。ほんの少し強い風が吹き抜け、コスモス畑をそよがせる。香りとともに、花々の優しいざわめきが耳に届いた。


「いまね、太陽に照らされてコスモスの花びらがキラキラ輝いてる。すごく綺麗だ」


 少年の声は穏やかで、どこか自信に満ちていた。その言葉はまるで、景色をそのまま少女の手元に届けようとするかのようだった。


「もうすぐ君も、この景色を見ることができるから」


 その一言に、少女は微かに戸惑いながらも微笑んだ。


「君ってほんと、不思議な人だね」


 優しい日差しの下、二人を包む空気はどこまでも穏やかで柔らかかった。少年の言葉に潜む意味を考えるよりも、少女は今、風に運ばれる香りと、どこか心地よい沈黙を楽しんでいた。






――1時間前――


 その日、藤崎ふじさき加奈かなは母に頼まれた花を買うため、いつもとは違う通りを歩いていた。点字ブロックのない歩道には慣れていたが、思いのほか人の往来が多く、喧騒に気を取られる。加奈は白杖を慎重に扱いながら、不慣れな道を一歩ずつ進んでいく。


 ほとんどの場合、前から来る人は気を使って避けてくれるのだが、この日に限って、背後から誰かがぶつかってきた。耳元で「チッ」という男の舌打ちが聞こえ、加奈は驚いて白杖を落としてしまった。


 焦らないよう、深呼吸してからゆっくりとしゃがみ、手探りする。すぐに見つかるだろうと思ったが、白杖はなかなか手に触れない。そのとき――


「大丈夫ですか?」


 突然、誰かが声をかけ、白杖を拾って手渡してくれた。声の感じから自分と同年代くらいの少年だとわかる。加奈は立ち上がり、軽くお辞儀をして礼を言った。


「ありがとうございます」


「怪我はないですか?」


「はい、大丈夫です」


「あの、ちょっと訊いてもいいですか?」


「はい?」


「あなたは、全盲ですか?」


 加奈は一瞬、言葉を失った。この人は、どうしてそんなことを訊くんだろう。


「は、はい」


「いつから見えないんですか? 病気ですか? それとも、事故や怪我で?」


 立て続けに質問され、戸惑う。


「えっと、病気ですけど……」


「いつ頃の話ですか?」


「二歳のときに感染症で。覚えてないけど、それまでは普通に見えてたらしいです」


「二歳か――じゃあ君は、この世界のほとんどの物を見たことがないんだ?」


 見ず知らずの人にここまで率直な質問をされたのは初めてだったが、不思議と嫌な気持ちはしなかった。


「そうですね。そういうことになります」


「見てみたいと思いませんか? 世界がどんな姿をしてるのか」


「見てみたい、ですか……?」


 思わず笑いがこみ上げた。


「随分デリケートなことをさらっと訊くんですね」


「ああ、ごめん。だって俺――」


 少年が次の言葉を発した瞬間、まるで時が止まったような静寂が辺りを包んだ。その声は微塵の悪意も感じさせず、ただ澄んでいて、だからこそ、冗談に聞こえなかった。



 加奈は理解が追いつかず、呆然としたまま固まった。


「いきなりこんなこと言われたら驚くのも当然だけど、信じてください。俺はあなたの目を治せるんです。だから、これから行く所について来てほしい」


――もしかして、これが所謂ナンパというやつだろうか? それにしても、視覚障碍者に向かって「目を治せる」なんて、そんな誘い文句、さすがにどうかしてる。


「治すって、どうやって治すんですか?」


 半分興味本位で訊ねてみた。


「言葉じゃ説明できないけど……超能力みたいな感じ? 信じるか信じないかは、あなた次第」


「そのセリフ、どこかで聞いたことある」


「自分でも胡散臭いのはわかってるんだけどね。他にどう説明していいかわからなくて」


「ナンパじゃないですよね?」


「なっ、ナンパ!? ち、違います! 俺、そんなチャラい人間じゃありません! ナンパなんてしたことないし! 絶対違います!」


 加奈は笑いをこらえきれず、くすくすと笑った。少年の言葉を聞きながら、ふと思う。世の中にはときどき、こういう人が現れる。盲学校の安達先生もその一人だった。彼は加奈の障碍に一切の同情を示さず、健常者とまるで同じ扱いをしてくれる。もちろん、優しい人たちの気遣いには日々感謝しているが、こうやって無邪気に接してくれる相手との会話には、不思議な安心感がある。


 もともと好奇心旺盛な加奈は、少年の奇妙な提案に乗ることにした。


「本当に治せるんですか?」


「うん。治せます」


「じゃあ、お願いします」


 丁寧にお辞儀をすると、少年も同じように改まった様子で頭を下げているのが伝わってきた。


「わたし、藤崎加奈って言います」


「あっ、ごめん。俺、名前は言えないんだ。でも、フェアじゃないから、君の名前も聞かなかったことにする。それでもいいですか?」


「えっ、いいですけど……」


「よかった」


「ところで、ついて来てって、どこに行くんですか?」


「ここから少し離れたところにある公園です」


「公園で治療するんですか?」


「そう、公園で治します」


「わかりました」


 加奈は笑いをかみしめながら返事をした。


「よし、行こう!」


 こうして、出会ったばかりの少年と少女は、手を取り合いながらゆっくりと歩き出した。




✢✢✢✢✢




 他愛のない会話を楽しむうちに、思った以上に時間が過ぎていた。初夏の日差しは朱に染まり、コスモス畑を鮮やかな夕焼けが包み込んでいる。そろそろ本題に入るべきだ。少年は隣に座る加奈に向き直り、ベンチに寄り添う二人の影が、長く伸びて形を変えた。


「治療をはじめる前に、守ってほしい約束があるんだ」


「うん」


「まずひとつ。俺と出会ったこと、今日の出来事、全部トップシークレットね。誰にも言っちゃダメだよ」


「わかった」


「テレビや雑誌の取材もNG。SNSへの投稿とか絶対禁止。これ結構重要だから。今日のことは国家機密扱いね」


「よくわからないけど、了解」


「そしてもうひとつ。君の目が治ったら――」


「治ったら?」


「新しい人生を思いっきり楽しんでほしい」


「新しい人生を……楽しむ?」


「そう。めいっぱい楽しんで」


 少年の声は真剣そのものだった。その真剣さが、加奈に漠然とした不安を抱かせる。彼はいったい、何をしようとしているのだろう……。


「でも、もし誰かに『どうやって治ったの?』って聞かれたら、なんて答えればいい?」


「アブダクションって知ってる?」


「アブダクション?」


「そう、アブダクション。UFOに乗った宇宙人に誘拐されることだよ。どうやって治ったのか訊かれたら『宇宙人に治してもらいました』って答えればいい」


「それで信じてもらえる?」


「はは、冗談、冗談。もしものときは、奇跡が起きたって言えばいい」


「奇跡?」


「そう。今から君に奇跡が起きて、目が見えるようになる」


 加奈の不安は、次第に畏怖へと変わっていった。目が見えないことへの恐怖ではなく、本当に目が見えるようになったらどうしよう、という未知への畏れだった。






――15年前――


 加奈が視力を失ったのは、二歳の冬だった。左のまぶたにできたほんの小さな切り傷。それがどれほど恐ろしい事態を招くか、誰にも予測できなかった。


 傷口から侵入したのは、致死性のバクテリア――人体にとって悪魔そのものだった。バクテリアは加奈の体内で暴走を始めた。わずかな時間のうちに爆発的に増殖し、血流に乗って全身を蝕み、体温を奪い、意識をかき乱した。


 最初に異変に気付いたのは母親だった。熱で赤らむ加奈の頬。だが、風邪だろうと高をくくった。医者に見せるべきかどうか迷っているうちに、加奈の顔色が次第に青白くなり、呼吸は不規則に乱れ、やがて目に見えて体が弱り始めた。


 異常を悟った両親は、急いで車を飛ばし病院へ向かった。しかし、その車中で加奈の容態はさらに悪化する。幼い身体は何度も痙攣を繰り返し、瞼の裏で目玉が小刻みに揺れていた。


 病院に到着するや否や、医師たちが加奈を処置室へ運び込んだ。その光景を見届けながら、母親はまるで地面に根を張られたように動けなくなっていた。


「なんとか助けてください!」


 叫んだ父親の声も空しく、処置室の扉が閉ざされる。その先では、見えない敵との戦いが繰り広げられていた。

感染源となったバクテリアは、抗生物質の投与を嘲笑うかのように、抵抗し続けた。医師たちの間で交わされる声が、ますます焦りに満ちたものへと変わっていく。


 母親は椅子に座り込み、震える両手を握りしめていた。唇は声にならない祈りを紡ぎ続けている。頼りにしていた医者も、薬も、すべてが力を失った今、救えるのは神だけだと信じるしかなかった。


 一方、父親はじっとしていられなかった。無意味だとわかりながらも、廊下を行ったり来たりしては、処置室のドアを一瞥し、また歩き出す。気づけば額には汗が滲み、拳は何度も固く握られていた。廊下の空気は冷たいはずなのに、呼吸はひどく浅く、まるで熱に浮かされているようだった。


 時折、処置室の中から人の動く気配が漏れ聞こえてくる。機械音に混じる医師たちの緊迫した声。だが、それが希望なのか、さらなる悪化の兆しなのかは、二人にはわからない。


「……俺のせいだ。俺が加奈のそばにいてやれば、こんなことに……」


 夫の口から漏れた言葉に、妻はぴくりと肩を震わせた。


「そんなこと言わないで!」


 絞り出すような声だった。目は赤く腫れ上がり、涙が乾いてはまたあふれる。


 そのときだった。耐えきれなくなったように、妻は両手を組み、低く掠れた声で叫んだ。


「わたしの命と引き換えに、どうか加奈を助けてください――」


 その願いは、廊下の空気に溶けるように吸い込まれていった。父親もまた、じっと立ち尽くしたまま顔を覆い、震える肩でその言葉を飲み込むように繰り返した。


 一分が一時間にも感じられる時間の中で、二人はただ待ち続けた。自分たちができることはもう尽くした――だが、それでもなお、どこかで救いの奇跡を信じたい気持ちが消えなかった。


 やがて、処置室のドアがわずかに開いた。その音に、二人の体は反射的に硬直した。母親は椅子から立ち上がろうとしたが、足が震え、座面を掴むだけで精一杯だった。一方、父親は片足を踏み出しかけて止まり、視線をドアに釘付けにしている。


 現れたのは、疲労の色を隠しきれない医師だった。白衣の襟元は乱れ、手にはまだ処置用の手袋が握られている。母親は喉を詰まらせたような声で問いかけた。


「加奈は……どうなったんですか?」


 医師は廊下の冷たい空気を切り裂くように短く息をつき、ゆっくりと口を開いた。


「お子さんの命は、奇跡的に助かりました」


 その言葉に、母親は椅子から崩れ落ちるように膝をついた。手で顔を覆いながら嗚咽を漏らし、肩を震わせている。父親も力が抜けたように壁に手をつき、深く息を吐いた。


 だが、医師の言葉には続きがあった。


「ただ……感染の影響が視神経にまで及んでいたことがわかりました。できる限りの治療を施しましたが……」


 母親は涙で濡れた顔を上げ、医師を見つめた。


「残念ながら、お子さんの視力を取り戻すことはできません」


その言葉は、重い鉄槌のように両親の心にのしかかった。


「目が見えない……ってことですか?」


 父親が低い声で問い直す。


「はい。加奈さんは、これからの人生を視力を失った状態で生きることになります」


 医師の声は冷静でありながら、どこか申し訳なさを含んでいた。その一言が、張り詰めていた緊張を再び凍りつかせた。


「でも、命は助かったんですよね? それなら……」


 母親は震えながら呟いた。言葉は彼女自身に言い聞かせるようでもあった。


「そうです。命は助かりました。ただ、感染症の影響で全身が衰弱しています。今後も慎重に経過を見守る必要があります」


 医師の言葉は続いていたが、母親はもう耳に入っていなかった。


「加奈の目が……どうして……」


 肩を震わせながら、母親は夫にしがみつくようにして泣き続けた。父親は何も言わなかった。彼の拳は固く握られ、指が白くなるほど力が入っていたが、震える唇は何も発しなかった。


 長い沈黙の後、父親が医師に問いかけた。


「加奈に会わせてもらえますか?」


 医師は小さく頷いた。


「まだ眠っていますが、面会は可能です。ただ、体力を消耗しているので、短時間でお願いします」


 二人は促されるまま、処置室のドアへと歩みを進めた。互いに手を取ることもなく、ただ黙々と――けれども同じ思いを胸に抱いて。


 両目から光を奪われたその日、加奈の人生は静かに別の形に変わった。世界は暗闇に包まれたが、それでも彼女の中に残ったものは確かにあった。母親の温かい手のひら、父親の頼りがいのある肩。何も見えなくても、二人が傍にいるとわかるだけで、心は不思議と落ち着いていた。


「生きてさえいれば、それでいいんだよ」


 母がそう繰り返すたび、加奈は小さく頷いた。けれども、その言葉を鵜呑みにしたことは一度もなかった。ただ生きているだけで満足するなんてできなかった。光を失った代わりに、自分には何ができるのかを考え続けた。二人の愛情に応えるために、誰よりも努力して生きていくしかない――それが、幼いながらに下した結論だった。


 17年。加奈は一度も不平を口にしたことはない。両親の前では決して泣かず、どんなにつらくても弱音を吐かなかった。それは決して我慢や意地ではなかった。ただ、命を懸けて自分を救おうとした二人を悲しませたくなかった。


 母親が毎日お弁当を作り、温かい笑顔で送り出してくれたあの日々。父親がぶっきらぼうながらも「お前はすごいよ」と背中を押してくれた何気ない一言。どれもが加奈の心に灯る明かりとなった。彼女が歩んだ暗い道は、両親の愛によってほんのりと照らされていた。


 けれども本当は、両親の気持ちもまた揺れ動いていたに違いない。


 母親は時折、加奈の寝顔を見つめながら泣いていた。口癖の「生きてさえいれば」は、時に自分自身に向けた言葉でもあったのだろう。娘を救えた安堵と、目を奪われた罪悪感が彼女の胸でせめぎ合っていたのかもしれない。


 父親はさらに無口になり、愚痴一つこぼさず働き続けた。仕事が終われば、真っ先に家に帰り、手探りで何かを学ぶ加奈をそっと見守った。加奈の成長に目を細める一方で、きっと心のどこかで「自分がもっと早く気づいていれば」と悔やんでいたのだろう。


――それでも二人は、いつだって笑っていた。


 彼らがどれほどの犠牲を払って自分を育ててくれたのか、加奈には完全にはわからない。それでも一つだけ確かなことがある。


「ありがとう」


 その言葉は、何度も何度も胸の中で繰り返した。暗闇の中でさえ、支え続けてくれた二人がいたからこそ、自分はここにいる。




✢✢✢✢✢




「準備はいい?」


 少年の柔らかい声に、加奈は意識を現実に引き戻された。その声には緊張と期待が混じっていたが、不思議と威圧感はない。むしろ、そっと寄り添ってくれるような響きがあった。


「うん」


 返事をしてみたものの、どこか迷いがあった。目が治るかもしれない――その希望を否定したいわけではない。けれど、17年間暗闇の中で生きてきた彼女にとって、その希望はあまりに非現実的だった。


「ゆっくり目を閉じて」


 加奈はそっと瞼を閉じた。長年慣れ親しんできた暗闇は、今も変わらずそこにある。


「それじゃあ、はじめるよ」


 その言葉を合図に、少年――深川ふかがわ龍二りゅうじの意識が空間全体を支配した。


 周囲の空気が一瞬凍りついたように静まり返る。次の瞬間、見えない指令が下されたかのように、空間に膨大な幾何学模様が出現した。それは絶え間なく動き続ける光の網目で、ひとつひとつのパターンが精密な法則に従いながら回転し、重なり合い、増殖していく。


 模様は龍二を中心に広がり、まるで巨大な天体がその軌道を描くかのように展開された。無数の螺旋構造が互いに絡み合い、時折その間を光の粒子が走り抜ける。淡い青白い輝きは、まるで宇宙の深淵に浮かぶ星雲を彷彿とさせた。


 その中核に浮かび上がったのは、逆平行に絡み合う二重螺旋だった。それは加奈の遺伝子そのもの――生命の設計図だ。


 龍二は一瞬の間に、眼前に広がる膨大な情報の海を読み取った。遺伝子構造の一つ一つが彼の意識に流れ込み、彼の思考がそれらを整理し、解析し、異常を洗い出していく。光の粒が螺旋を駆け巡り、異常箇所が赤く点滅して浮かび上がる。


「見つけた」


 呟いた瞬間、空間の模様が一斉に動き出した。赤く染まった領域を中心に、螺旋構造が回転しながら次第に書き換えられていく。細胞の一片に宿る塩基配列が光の奔流となり、欠損した箇所を埋め、歪みを修復する。


 龍二の集中力がさらに高まると、周囲の光が増幅し、模様はより複雑に、より精緻になった。視界には次第に四次元的な構造が現れ始め、単なる幾何学の枠を超えた壮大な生命の動きが見て取れるようだった。


 螺旋は回転を続けながら、わずかな狂いも許さず修復作業を進める。それに伴い、赤い点滅が次々と消えていった。そしてついに、最後の異常箇所を光が飲み込み、二重螺旋は青白い輝きを取り戻した。


 龍二は静かに息を吐いた。


「終わったよ」


 模様は徐々に縮小しながら消え去り、静けさが戻った。だが、その余韻は明らかに空間を変えていた。


「ゆっくり、目を開けてみて」


 龍二の声に促され、加奈は深く息を吸い込み、ゆっくりと瞼を持ち上げた。その瞬間、閉ざされていた世界が初めて開かれた。


 眩い光が視界に飛び込んでくる。最初はただ明るいだけだったが、次第に形が浮かび上がり、色彩が広がっていく。


「……え?」


 加奈の瞳に、世界が映り込み始めた。白濁していたはずの虹彩が、今では黒い宝石のように澄んで輝いていた。龍二はそれを見て、ようやく安堵の息を漏らした。


「ハロー! 調子はどう?」


 龍二は顔を左右に振りながらおどけてみせたが、加奈は驚愕の表情を浮かべたまま微動だにしない。


「あの……見えてるんだよね?」


 金魚のように口をパクパクさせながら、加奈は無言で頷く。   

 彼女の目は、はっきりと龍二の姿を捉えていた。


「どんな感じ?」


「……」


「感想……ないの?」


「……」


 龍二が手をひらひら振ってみせると、加奈の目から一筋の涙がこぼれ落ちた。


「……見えるの」


 声は小さく掠れていたが、その一言には17年分の思いが込められていた。


「ほんとに……見える」


 加奈は恐る恐る顔を巡らせた。目に飛び込んできたのは、黄金色に染まる世界だった。遥か彼方では、紅い夕日が大地の端に沈もうとしている。その光が丘を覆うコスモス畑を照らし、花々の一つひとつが風に揺れていた。淡いピンク、鮮やかな紫、純白――そのどれもが生きているように美しく輝いていた。


「こんなに……きれいなんだ……」


 草花の隙間から覗く地面のざらついた質感さえも、彼女には奇跡のように感じられた。空を見上げれば、流れる雲が黄金色の空にゆっくりと溶け込んでいく。


 涙が次々と頬を伝い、加奈は自分の手でそれを拭おうとしたが、追いつかなかった。震える指先で花びらにそっと触れた。柔らかい感触と、夕陽を浴びて揺れる影。そのすべてが彼女を圧倒していた。


 やがて視線を前に戻すと、目の前に立つ龍二が見えた。加奈は静かに震える手を伸ばし、彼の頬に触れた。


「君は――」


 加奈の声は震え、涙に滲んでいたが、その中に確かな温もりが込められていた。


「想像した通り、とてもやさしい目をしてる」


 龍二は微笑み、軽く頷いた。その目がどんな感情を湛えているのか、加奈はすべてを理解しているような気がした。


「ありがとう。本当に……ありがとう」


 加奈は震える声で呟き、嗚咽を漏らしながら、もう一度コスモス畑に視線を向けた。その瞳には、初めて目にする世界の美しさが映っていた。


 世界はこんなにも美しい――その事実が、彼女の胸を熱くした。そしてその隣には、奇跡としかいいようのない力で彼女の光を取り戻してくれた龍二が立っていた。

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