第5話
時はパンデミック真っ盛り。
外に出なくなると、何のために働いているのか分からない。
まさに仕事のために仕事をしている。
イベントが無くなった代わりに、仕事が最高に忙しくなっていた。
仕事をすると、他の事は何も考えなくていい。
日々の辛さを忘れさせてくれるのは
というか、もう何も考えたくない。
仕事楽しいしごとたのしい。
土日祝日も仕事のことで頭がいっぱい。
残業規制限界まで働きまくるんじゃ。
ぐへへへ。
彼女に会う事が出来ないのに、他の人と会うのも不公平だろう。
猫と話す時間ばかり増える。
ここの公用語は猫語である。
にゃあ。
不快感を減らすため、いい感じのバリトンヴォイスで脳内再生してください。
我が家の猫様はとても甘え上手だ。
サバトラの拾い猫にして、尾曲がりの幸運猫。
僕が振り撒く不幸のかなりの部分を中和してくれている徳の高い猫様だ。
小さく、体重も3kgを切っていて、既に高齢猫のはずなのにその細い毛はつやっつや。
今でもどこか子猫のような雰囲気を醸し出している。
自分の名前を憶えているのか、構って欲しい時は「ニャッニャ」と変わった鳴き方をする。
猫の口でも
うい奴め。
猫に名付けるときは猫が喋りやすい名前を付けるといいぞ。
今日も今日とて膝の上に乗ってきてはなにもせずともゴロゴロし始める。
そしてだんだん口が弛緩してよだれが止まらなくなり、服がベトベトになる。
汚い。
……そんなことは些末事なくらいかわいい子だ。
こんなこともあろうかと、膝の上に来そうなときは予めティッシュがスタンバイしている。
だが、
だからといって部屋から出すと、それはもうボコボコに虐待しているかのごとく低い声で鳴きまくる。
多少は慣れた今でも心が抉られる。
こんなエグイ鳴き方をする猫に育てた覚えはありませんよ?
いったいどこで覚えたんだ。
少し扉を開けてみる。
キラキラとお目々を見開いた猫が、ニッコニコで首を滑り込ませてくる。
さっきまでの鳴き声は何だったのか。
小悪魔め。
誰なんだろうね甘やかしたのは。
不思議だなぁ。
だがそれが良い。
体まで滑り込む前に、扉を少し閉める。
少し嫌そうな顔をしながら、首をひねらせて引っ込める。
すかさず脚を出してきて爪を引っかけ扉を開けようとする。
むっとした顔も可愛いぞ。
扉の開閉と連動する瞳孔の開き具合を眺めながら、また少し扉を開けるのだ。
無限ループがやめられないとまらない。
電話から一年が経とうとしていた。
猫様と戯れることが最後の防波堤になっていた。
あれから、何度か手紙もプレゼントも送ってはみたが、反応らしきものが観測できなくなった。
探せどもカケラも見つけることが出来ない。
そもそも今は手紙類を受け付けているのだろうか。
事務所のホームページには送るなとは書いてない。
送れば事務所までは届くし、受け取られもする。
けど、あちこちのイベントでは、”ご遠慮ください”となっているとも聞く。
果たして彼女には届いているのだろうか。
それとも、もう彼女には見限られたのか。
何も補充できないと、自分自身の思考回路が刺々しく作り変えられていくのが分かる。
どうもテセウスは同じ部品ではなく仕様の違う部品で補修している。
恐怖!人体の
早くリコールしてくれ。誰か。
そこ、廃品回収の間違いではとか言わない。
元々細かった人間関係が清算されるのも一瞬のこと。
僕に告白してきた子も辛いことばかりつぶやくようになって、とうとうアカウントごと消えてしまった。
少なくとも、声を掛けなければならなかった。
言い訳のしようもない。
あのとき自分の気持ちを何も伝えられず、そのままずるずる放置しておいて。
話しかけて来る度にますます瞳に熱が籠っていくのに、気付かない振りをして。
仕舞いにはこれだ。
僕は肝心な時にいつもなにもしない。
彼女の放送も刺々しい雰囲気が見え隠れしているように見える。
一時期の彼女のようなネガティブ発言が多くなっていた。
「なんでこんなことしてるんだろう」
放送中に言われたファンが喜ぶ発言ではないだろう。
でも、それを聴いた僕は、救いに近い感情を覚えてしまったのだ。
僕と同じような気持ちになってくれている、と。
まるで共感してもらっているかのように。
やっぱり僕の思考回路は、もう壊れている。
彼女の新曲が出る日が近づいていた。
この一年間ずっと待ち続けていた。
彼女の声の透明感を最大限に引き出した曲だ。
すごく良い曲なのに。
聴くのが苦しいのが申し訳ない。
でも、久しぶりに電話の機会がやってくる。
それだけで、消えかけた炉にもう一度火が付いた。
前回と同じ手順を踏むだけ。
至極簡単に通話の権利は手に入った。
でも、いざ電話に出てみると、時の経過を否応にも認識することになる。
前回までの彼女が嘘のように、静かな敬語で話しかけられた。
ともすれば事務的とすら思えるほど。
その声は
普通には話している。
いやむしろ今までよりもずっと普通に話しているのだが、感情が読み取れない。
声音の揺れが掴めない。
今まで彼女に敬語で話しかけられたことが無かったから違和感があるだけ、なのだろうか。
はたまた、気持ちが離れてしまったのだろうか。
そうでなくとも彼女の心境に変化があったのか。
人と言うのは各々考えているし、変わっていく生き物だ。
それはもちろん悪い事ではない。
でも突き放されたような気分になってしまう。
何の心の準備もしていなかった。
彼女と話せるだけで贅沢なのかもしれないが。
感情が読み取れなかったら、自分の言ったことを彼女がどう受け取ったのか判断できない。
自分は次に何を話せばいいのか分からない。
怖い。
彼女に何が起きて今に至ったのか分からない。
何も分からない。
彼女はすらすらと話しかけてくる。
ここまで困惑している僕がおかしいのだろうか。
そうしているうちに通話が終わってしまった。
まるで、狐に化かされたような気分だ。
ほんの数分。
刑務所だったら、月に2回以上30分の面会が確保されるのだが、残念ながらここは刑務所ではない。
そもそも世間でいう”知り合い”にすら該当しないのだから、面会許可が下りるわけがないのだが。
これで次の機会はまた何か月も先だ。
直接会うことが出来れば、分かるのだろうか。
最近はぼやくばかりだ。
そうしてまた一年が過ぎる。
ウイルスへの対抗手段を社会が身に着け、皆が恐怖を忘れてきたころ、ついに次の機会が復活を果たす。
何年振りかのリアル対面イベントだ。
もっともっと積み増して、確実に、取らねば。
あっさり落ちた。
あれれぇおかしいなぁ?
ここまで何年もあってリリイベで全落したのは初めてだった。
積んだ枚数を考えると、計算上、全会場全落の可能性は0.1%以下。
あぁ、3
これは新粒子きたな。
まだ
えっ、もっと積めと?
あっはい、がんばります……。
悪い方の宝くじにでも当たったとでも考えればいいのか、果たして。
今までの事を考えると、人為的な要因が絡んでないかを考えてしまう。
何度も手紙を送り続けているのが良くないのだろうか。
それとも何かまずい事でも話しただろうか。
ここでは推定無罪の原則は適用されない可能性が高い。
僕の話ではないがそれが疑われることが起きた人は知っている。
以前、当たりを送ると景品が手に入る彼女のグッズが売られたとき、その人は幸運にも複数口当たりを手にしたのだという。
期待値的には、恐らく日本人の平均月収くらいの額を積まないとその結果は得られない。
でもその当たりを全て送ったら、その人だけが希望の賞を落とされた。
同じ轍を踏むのは避けたいので、こういった例を見かけたら後から確認する。
SNS上で後から捕捉できたのは当選者の半分強。
確かに、この人以外に希望が通らなかった人は見つからなかった。
今回の件も”偶然”と言われたらそれまでだけど。
僕はもう彼らに対する信用度がゼロ。
かといって、客観性を担保できる
でも透明性が欲しい。
法律さんには本当に頑張って欲しいのだが。
それ以前に、そういう不満を訴える人はまず居ない。
わざわざこんなことを情報収集している人は多数派ではなかろうから、疑問自体抱かないことも多いだろう。
それ以上に、深く推していればいるほど、余計な事を言って「じゃあもうイベントしません」とか「出禁」とか言われるのを最も恐れるようになる。
全員がそうではないのかもしれないが。
推しは替えがきかない。
だから、せいぜいSNSや掲示板で不平不満が流れてくるくらいだ。
不健全な関係と言えば実際そうなのだろう。
至極羨ましい。
僕にはそんな風に複数を推せるほどの甲斐性がない。
自分の手で抱えられる分だけ。
どちらにせよ、今となっては彼女以外に目を向けることはもう無いのだが。
このままでは、彼女に対する気持ちが天に召されてしまう。
もうこうなったら
ほんの少しでも
そんな気持ちで会場の最寄り駅に降り立っていた。
意趣返しのつもりが無かったかと言えば否定はできない。
正直怒っていたのは確かだ。
駅に降り立ち、お土産屋の前で流れゆく人をぼーっと眺めていた。
そろそろイベントが終わったころ。
立っていても通りがかる保証などない。
この場所なら動線に入る可能性があるかも、くらいだ。
いったい自分は何をしているのだろうか。
やっぱり嫌がられるのでは。
気持ち悪いと冷静に諫める声がぶり返してきた。
こんなことして意味があるのだろうか。
でももしかしたら。
そんな風にぐるぐると考えていた時だった。
ふと、遠目に駅に入ってくる人が見えた。
その一点が輝いているように見えたのだ。
彼女だった。
続いてスタッフらしき人が3人。
そこだけが別の世界のように浮世離れしていた。
流石彼女はべっぴんさんである。
これだけの雑踏の中なのに一瞬で分かるくらいなのだから。
そんなことを思っていたら彼女がこちらを見た。
慌てて顔を逸らした。
そのまま、僕の居る方に向きを変えて、まっすぐこちらに近づいてくる。
え、嘘でしょ。
すぐ後ろにスタッフ居るよ?!
逸らした視界の端に映る彼女は、真っ直ぐにこっちを見ていた。
目を見開いて、いつかの時のようにガン見してきていた。
まるで吸い寄せられているかのよう。
直ぐ近くまで来た彼女の顔は、今まで見たことないくらいニマニマとした笑みを浮かべていた。
余りにもかわいすぎる。
三途の川中から奇跡の復活を遂げたはずの語彙さんがまた
そして、手が届くくらいの距離まで近づいてきた彼女は、そのまま何事もなかったかのように通り過ぎて行った。
まぁ、そりゃそうだよね。
でもあの顔を見られたなら十分かな。
そう思って、嬉しさ半分虚しさ半分、そそくさとその場を離れた。
それが多分、最大のミスだった。
帰る前に
彼女が居た。
さっき僕が居たお土産屋に戻ってきていた。
スタッフの姿はない。
想定外の状況に頭が混乱していた。
いまからでも行くべきなのでは。
でも、スタッフは本当に居ないのか?
のこのこ出て行ったところでお縄になったりしないだろうか。
これで今後のイベントから締め出されたら、終わりだ。
なんて話しかけよう。
今まではファンのような言葉しか彼女には伝えてこなかった。
もし、今までのことを全部話したときに、本当の僕を知って嫌いになったりしないだろうか。
どうやったら彼女が喜んでくれるか、考えていなかった。
いますぐ行けと言う声と、行ったら終わりだという声が交互に聴こえてくる。
それは数十秒だったのか、それとも数分だったか、彼女はレジを過ぎて行ってしまった。
最後までスタッフは現れなかった。
だというのに僕は動けなかった。
ただただ謝り続ける声が頭の中を木霊する。
僕がこれほどの大馬鹿者だったとは流石の僕も予見していなかったよ。
SNSに、お土産の写真が載っていた。
「なんで居なかったの」と怒られているような気がした。
訳もなく叫びだしそうな衝動に囚われる日々が、始まった。
覚悟を決めた。
こんな失敗を繰り返していたら、何年たっても終わりは来ない。
彼女があれほど喜ぶ顔をするなら、会いに行くべきであると考えることにする。
やるときは徹底的に。
迷っても絶対に手を止めない。
役に立たなかったブレーキなんて壊れてしまえ。
どんな手を使ってでも彼女に会いに行くと決めた。
いやもしかしたら、決めすぎてしまったのかもしれない。
やりすぎて怒られることは昔からよくあった。
オンオフが上手くいかない。
集中し過ぎて視野が狭くなってしまう。
でもそれくらいのリスクは甘受しなければ彼女にはたどり着けない。
本当は慎重さも残さなければならない。
だがこう見えて、僕はかもしれない運転が得意なのだ。
車は出てこないかもしれないことに賭けるぜ。
彼女に会いに行くつもりであるなら、急ぐ必要がある。
これ以上僕の気持ちが壊れてしまったら、彼女に会わせる顔が無くなってしまう。
そうなるよりは、やり過ぎて彼女に嫌われてしまった方がまだましだと思える。
全てのイベント終わりに待ってみることにした。
すぐに分かったことは、前回彼女が現れたのがどれほど奇跡的だったのかという事だ。
貴重なビギナーズラックを消費してしまっていた。
そもそも動線の予測自体が難しい。
複数の動線が考えられることも多いし、その場合は運任せ。
実際、7割程度は待っていても誰も何も1bitたりとも現れない。
前回彼女が通り過ぎた場所も、何度待っても彼女が再び現れることは無かった。
いつまで居ればいいのかも分からない。
かといって集中を切らすわけにもいかない。
帰りのタイムリミットぎりぎりまで待つと、それだけで体力がごっそり削られてしまう。
ご飯を食べる時間もない。
残りの3割にしたって、車が通り過ぎるのが見られる程度だ。
彼女の姿はまず見えない。
いっそ車を追いかけられるかも検討するが、乗っているかも分からない段階では追いかけても仕方がない。
そもそも、そんな都合よく追いかけられない。
仮に追いかけるとしてもそれが出来そうなタイミングは一瞬。
すぐ手元に車が要るが、待っているときは傍にあると邪魔なのだ。
東京には置く場所がない。
人海戦術が使えるならともかく、単独では限界があった。
結局、もっといい情報が得られないかを待つことになる。
あまりにも徒労だ。
イベントで多少回復したとしても、エネルギー収支は赤字。
こんなことを彼女が望んでいる訳ではないのかもしれないが。
ただ、蜘蛛の糸だろうが何だろうが掴めないか、それだけを考えていた。
何もなかったことになってしまうということに対する恐怖だけが僕の手を動かしている。
あまりに体力を食うので、疲れの取れない夜行バスはほぼ卒業。
今の行動が合理的とは思えない。
でも、ずっと暗闇の中に居たのに、微かでも
道で
年齢、性別、陰陽ともばらばらだ。
陰陽で分けんな。
でも傾向としては、女性の場合は一言二言話して、こちらが上の空なのを察するとすっと居なくなる。
一方、男の場合はあの手この手で連絡先交換しようとしてくる人が多かった。
中でも、初手「LI○E交換しませんか」と聞いてきた中年男性には流石に驚いた。
レベルが高すぎる。
そもそも男の連絡先なんて聞いて何するんだ。
美味しく食べられてしまう。
それを言うなら
キャー怖い。
本当の化け物は僕の方なんだよなぁ。
そうしているうちに、彼女がレーベルを変えるというニュースが飛び込んでくる。
僕は純粋に彼女に祝福できる気持ちを、既に持てていなかった。
もしかしたらスタッフが変わればこんな状況が変わるかもしれないという微かな期待と、次に話せる機会が遠のくこと危惧が、空を曇らせていた。
イベントで待つのは全く捗らない。
こんなことするより、東京都市圏を丸ごと探す方が早いのではないか。
そんなプランが過ぎった。
荒唐無稽ではあるが、このまま電池が切れるのを待っているよりは良い考えに思えてくる。
思い立ったが百年目。
運の尽きである。
終わってんじゃねえか。
早速その日から行動を開始する。
ウェブの海に住まい、ネットの隅から隅まで情報を探し始める。
どうせならウェブよりも
徒労に終わるかもしれない。
とは言え他にやる事もないのだ。
道の中で佇んでいるよりはずっとましだった。
三ヶ月が過ぎた。
理論上は彼女に届く方法を見つけつつあった。
ただし、月に探せるのはほんの数km2。
東京と言う砂漠は想像以上に広い。
誰だ日本最大の平野に都市を作ろうなんて考えたのは。
残念ながら必然でしかない。
このままでは100年かけても終わらないだろう。
しかも、あくまで机上の話。
間違っていた時も気付くのは何十年と先だ。
寿命が尽きる前に探せるだろうか。
そのころには儂もおじいちゃんじゃ。
まぁ、
ロマンだけだ。
望んでその結末に辿り着く人など居ない。
効率化を進める必要がある。
可能性の高い所から重点的に調べる。
そのために条件を絞り込み、手順も簡略化する。
何か手掛かりになりそうなものが見つかれば、現地に向かって実地で検証する。
必要な資料や機材があれば次々に購入していく。
ようし、ついでに最新GPUや有機ELディスプレイも買うぞ。
最早調査とは関係ねえ。
うおお、コマンドラインシェルの黒が滅茶苦茶締まっている。
今までこんなに出費が増えたことは無かった。
遠征やグッズ費用よりも遥かにお金が飛んでいく。
とはいえ必要経費を絞って失敗しては元も子もない。
財布のひもは千切ってしまった。
この際
どうせ門前払いだろうと思って今まで保留にしていたのだが。
今までの事を洗いざらい話してみたら、思っていたのとだいぶ違う言葉が返ってきた。
「まるで探偵みたいですね」
「情熱的ですね」
え、あれ、そういう反応なんだ。
というかそんなワクワクしている目で見ないでくれ。
もうちょっとワークワークしている事務的な目線が欲しい。
僕はこれを良い手とは思ってないのだから。
セールストークってやつかなぁ?
相談員は親身で、少し過激派だった。
まぁ、依頼を掛けてみても結果は出なかったわけだが。
それでも、味方など居ないと思っていた僕を延命するのには、それなりに役立った。
彼女を探し始めてから一年ほど経ったころ、レーベル移籍後初の新曲が発表された。
彼女の近くに行ける機会がようやく回ってくる。
今回のリリースイベントでは、感染症対策で話すことはできないが、紙に書いたメッセージを伝えられる。
レーベルが変わったことによりルールが変わり、当選回数の制限も緩和されるようだ。
当てれば複数回会いに行ける。
話せないのは正直辛いが、それでも言葉が伝えられる機会だ。
その機会を無駄にしないように、メッセージを書いていく。
この時の僕は、どこか、以前の様に話しかけてくれることを期待していたのだ。
顔がよく見えてないからオンラインだと話し方が違っている。
それだけではないのかと。
「ありがとうございます」
彼女の前に出てメッセージを見せた時の彼女の反応は、電話で話した時と同じ。
そうか、通話だったからじゃなくて、彼女の心持ちが変わったのか。
勝手に期待して勝手に落ち込んで、何をやっているんだろう。
人の気持ちは変えられないし、変わるのを止めることもできない。
自分自身ですら簡単には制御できないと分かっているはずなのに。
どんな顔をすればいいのか分からない。
お礼を言ってくれたのだから、笑わなきゃいけないのに。
笑い方を思い出せない。
これは駄目かもわからんね。
でも今回のリリイベは2回分当選している。
すぐに次がやってくる。
でも、次何を書けばいいのか分からない。
彼女への文章を書く機会が少なかったせいだろうか。
それとも。
せめて僕の気持ちはまだ向いているって、なるべく伝えてみよう。
その「好きです」という気持ちを書いて次の回に臨んだ。
曲の感想とか書いてないけど大丈夫かな。
彼女の前に行く前のメッセージチェックで、スタッフが「えっ」と戸惑った顔をした。
あぁ、やっぱりライン超えなんだなこれ。
でも数秒迷った上で通してくれた。
優しい人で助かった。
僕がまさしく彼らが懸念しているような人物であるということは申し訳ないが。
彼女はこちらの反応を伺うように、言葉を返してきた。
「ありがとね」
前回とは少し口調が違っていた。
なんだか気を遣わせてしまったかもしれない。
彼女の表情もこちらを探るようで、心なしかぎこちない。
また以前みたいな笑顔を見るためにはどうすればいいのか、そればかり考えてしまう自分が居る。
どうしても、目の前の壁が過去最大に分厚くなっていくような感覚が抜けない。
そうしてまた今日もイベントが終わる。
いつもの様に終わったイベント会場を眺めていたとき、会場から出てくる人影が見えた。
暗くて良く見えないが、彼女とスタッフではなかろうか。
だとすれば2年振りだ。
また彼女に見つけてもらえれば、もうこんなことを終わりにできる。
そう思ってふらふらと付いていく。
なんだか見られているような気がする。
暗くてはっきりとは見えない。
でもこれを逃したらまた年単位で機会がないかもしれない。
迷いながらも付いていく。
そうして近づいた先に待っていたのは、スタッフだった。
親の仇でも見るかのような目をしてこちらの方を睨んでいた。
やってしまった。
でも、いつかこんな日が来ると思っていた。
自分も似たような目で彼らを見ていたのだ。
今まで、仕方ない、仕方ない、彼らも仕事を忠実にこなしているだけなのだと、そう言い聞かせながら。
心の奥底で憎悪と嫉妬の醜い感情を集中砲火していた。
人を呪わば穴二つ。
こんなことまで頭が回らないほどになっていたらしい。
これで出禁になったらいよいよ終わりだな。
ついに導火線に火が付いてしまった。
この線が繋がっている先はまだ見えないが、恐らくは全ての終わりだろう。
鏡に映る自分という醜悪な生き物を眺めながら、接触する前に、逃げるように帰った。
そんなことをしていたせいだろうか。
猫を病院に連れて行くのが遅れたのは。
すっかりご飯を食べなくなっていた。
最近、猫用の暖房の調子が悪いのだ。
体調を崩してしまったのかもしれない。
見た目はそう見えないが高齢猫。
早く病院に連れて行かなければ。
病院でもすぐには原因が分からない。
人と違って症状を教えてくれたりはしない。
症状からしらみつぶしに調べるしかない。
高齢猫だと真っ先に腎臓病を疑うところだが、そちらの数値は良好らしい。
一体どこが悪いのだろうか。
キャリアケースに入れて待っていると、お得意のスキルを活かして「ここから出せ」と鳴きまくる。
相変わらず堪えがたい鳴き声だ。
ご飯は食べないのに鳴き声はまだ元気だった。
大人しくしているなら膝の上でも良いと言っていただいたので、蓋を少し開ける。
液体がにゅるんとすり抜けてくる。
実は液体金属製のアンドロイドと言われても納得できそうだ。
いつか人類は猫に支配されるであろう。
膝の上なら落ち着いている。
さっきまで
どうです、うちの子はかわいいでしょう。
そしてどうも怪しい人です、すみません。
よほど深刻な顔をしていたのか、「20歳までは生きてもらわなきゃ」と励まされてしまった。
この子ともいつも話しているようで、僕は何にも知らないのだ。
ちゃんと知ろうとしないからこんな事になってしまった。
医者も数値とこの子の様子を交互に見ながら頭を捻って考えている。
そうしているうちに、呼吸音がおかしいことに気付いたようだった。
肺炎になっていた。
通常は黒く写る肺のレントゲンは、死に装束の様に真っ白だ。
ほとんど機能していない。
何かといつも不満を訴えて表情豊かなように錯覚するが、それはご飯と遊びのことだけ。
自分の体調は全然顔に出さないのだな。
「今日から毎日通ってください」
そう言われた。
本当は入院したほうがいいくらいの症状に思えたが、この子のストレスを考えると難しいのだろうと納得することにした。
やはりもっと早くに連れてこなければならなかった。
帰り道。
鳴けば出してもらえると覚えると、キャリアケースには入らなくなる。
運転中だろうがずっと膝の上だ。
どうせ猫用の安全装置はないから、どこに居てもいいけどさ。
少しでもストレスを与えないに越したことは無い。
それから数日経ったある日の晩のことは妙によく覚えている。
これまでにも増して僕から離れようとしなかった。
彼女のバレンタインデー生配信の前日だったっけ。
何時間も膝の上でなでていても、やめようとすると、「もう終わり?」というような顔をして見てくるのだ。
なんだか眠るのが怖かった。
翌朝、朝起きて真っ先に確認したが、ちゃんと息をしていた。
杞憂だった。
落ち着きを取り戻し、仕事を始めた。
仕事を終えて、もう一度様子を見に行った時、猫部屋の暖房が止まっていることに気付いた。
血の気が引く音が聞こえた。
いつもの定位置に居ない。
どこかに震えて隠れていたりしないのか。
油が切れた機械の様に周りを見回した僕の目に、こてんと横たわる姿が映った。
もう硬くなっていた。
こんなになってもまだ全然可愛いまま、まだ動くんじゃないかってそんな風に見えた。
前から暖房の調子が悪いのは分かっていたのだ。
配線が接触不良になっているだけなのは軽く調べて分かっていた。
すぐに根本的に直さなかったからこんなことになった。
少なくともあと何日かは生きられた。
奇跡的に治ってまた元気な姿を見られるかもしれなかった。
自分の
会えなくなってからでは遅いのだ。
もう謝ることもできない。
この子を犠牲にしてしまったのに、探すことすら失敗するなんていうのは最早許されない。
ここ何年も、恐怖ばかりが重くなっていく。
嫌な事がある度に、彼女に会えなくなる恐怖が増していく。
いつ会えなくなるか分からないのだ。
いつか忘れられてしまうのが怖い。
常に睡眠時間を削って調べているようになったから、とうとう彼女の作品をチェックする時間すらほとんど無くなった。
自分の心境とは関係なく、イベントはやってくる。
彼女の新作フォトブックの発売が次月に迫っていた。
何事か起きることは無く、発売日を迎える。
もしかしたらもう当たらないかとも思ったが、サイン会にも当選していた。
本当なら、もはや完全にイベントに来る資格がないだろう僕は、どうしてここに居るのだろうか。
こんなに後ろ向きな気分で応募したことがあっただろうか。
終わりが近づいてくる焦燥を忘れることができない。
まだ会話も解禁されない。
「楽しんでくれましたか」
目の前に立った時、彼女はそう言った。
彼女は身振りだけで返せる言葉を選んでくれているようだ。
でも、ずっと避けてきた話題が出てしまった。
写真は、見るのが辛くなっていた。
その症状は、月日が経てば経つほど悪化していた。
高く積まれた本は、とうとう一度も開くことなく、今日まで仕舞ったままだ。
でもNoだなんて返したくない。
悲しませたくない。
せっかく彼女が頑張って作り上げた本に対して、読む前から否定するようなことを言いたくない。
山ほど隠している事がある癖に、決定的な嘘をついてしまうのは嫌だった。
本当に、なんでここに居るんだろう。
時間はほんの10秒ほどしかない。
いっそ言葉で返してしまおうかとも思ったが、言葉を探す時間もない。
曖昧に視線を泳がせているだけで時間切れ。
終わってしまった。
最近はすれ違ってばかりだ。
まだぎりぎり、挽回が間に合うかもしれない。
まだこのときはそう思っていた。
でもこのイベントを最後に、全ての応募が外れるようになった。
何枚積もうとも、明らかに全当らしき場合であっても。
なんらかの手段で僕の事を特定したのかと思ったのだが、どうやら他にも同じ状態の人が同時発生しているらしい。
ただの偶然なのか。
まさか疑わしいと思われる全員を出禁にしたのか。
もしそうだとしたら、魔女狩りと変わらない。
彼らには確証を得るすべがないから泣き寝入り確定だ。
以前、彼女のリリイベからサイレント出禁を食らった人のブログに遭遇した時は、絶対何かやっただろうと思ったものだが。
案外、無差別虐殺の被害者だったのかもしれないな。
さようなら、平時法。
ハロー、戦時法。
一方の僕は、文民の中に紛れるゲリラ
…どう考えても血を血で洗う結末にしかなりえない。
まぁ、状況証拠ばかりで決定的なモノがないのだ。
この推測が正しいとは限らないし、すべては闇の中。
無実なんじゃないかと僕が思っている人達には心の中で謝る事しか出来ない。
かなり積んだだろうに、当たることのない状態にさせて申し訳ない。
諸悪の根源のくせに、どの口が言っているんだか。
謝ったところで赦されるわけがない。
お前が言うなという奴だな。
一般販売が存在するイベントなら行けないこともないのだが、今後イベントで彼女と話す機会が来ることは無いだろう。
彼女が全ての経緯を知った時、彼女はどちらの味方をするだろうか。
多分、幻滅されて終わりだろうな。
これまで危ういバランスを保っていた天秤が、ゆっくりと傾き始めた。
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