第4話
春といえばアルバムの季節だ。
なぜかって?
彼女のアルバムが出るのはだいたい春だからだ。
心頭滅却すればいついかなる時であっても春。
私が決めた。
そんな春の期待に違うことなく、彼女の最新アルバムは発表された。
作曲者も彼女の歌声の強みに対する理解度が上がっている。
さらに洗練され、より魅力を引き出すものになっている。
透明度の高い彼女の声は、ほんの少しの味付けで驚くほどの鮮やかさになる。
砂糖細工のアソートのような
彼女のパフォーマンスを鮮烈にするお洒落なダンスナンバー、ビターな曲から甘々な曲まで隙が無い。
彼女のファンにとって大満足の出来だろう。
もちろん、リリイベもやってくる。
僕にとってはこれを逃す手はない。
だがこれは、これまでに多くの人を
せやろか?
せやせや。
今回のそのイベントには、いつもと違う男性が司会として現れた。
あまり慣れてないのだろうか、今日ここに来るまでに彼女としたことを自慢げにつらつら並べていく。
Oh…こちらを
オタクは繊細なんだぞ。
あまり馴れ馴れしく話しているとヘイト向けられますよ?
え、僕?
怒ってないよ?本当だよ?
こんな些細な事で怒るなんて心が狭いよ全く、HAHAHA。
でも、ちょっと口を滑らせてもいいよね?
そんなことは無いのだが、余計な事を口走った。
「最後に一つ訊いてもいい?」
「えっ、もちろんいいよ?」
「何歳くらいに結婚したい?」
口走った瞬間に失敗を悟った。
口走る前に気付けよ。
これは気持ち悪いですね。
誰かに文句を言う資格はない。
見知らぬ人にこんなこと言われたら恐怖だろう。
幻滅される一秒前。
彼女は「えっ」と目をまん丸にして数秒フリーズした後、絞り出すように「考えたことない…」と返してきた。
ああ、終わった。
困らせてしまった。
視界が一気に歪んでもうなにも目に入らない。
ふらふらとステージから離れる。
その時だった。
「また来てねっ!」
会場全体に響く大声で彼女が叫んでいた。
振り返って見た彼女は目を疑うほどの必死な形相で身を乗り出している。
スタッフもファンもぎょっとしている。
会場が完全に凍り付いている。
状況に心が追いつかない。
でも彼女がここまでしてくれたのだ。
とにかく、安心させなきゃ。
笑顔を見せなきゃ。
出来る限りの笑顔で頷いて、会場を後にした。
やってしまった。
でもまだ、終わってはいなかったらしい。
思い返してみれば、話す度に少しずつ、彼女の口調が”普通の対応”に近づいている気がするのを、内心不安に感じていた。
いつ冷えた鉄に戻ってしまうのか。
いつの間にかそのことばかりを気に掛けていた気がする。
まだ熱は残されているようだ。
後日、旧知に僕が質問した内容をどう思うか訊いてみたら、「キッッッッッッッモ」とお応え頂いた。
うんうん、やっぱりそう思うよね!
実家に帰ったかのような安心感がある。
何の利害関係もない人からの意見は実に貴重だ。
今後は気を付けよう。
次のイベントは一週間後。
流石に気まずい。
どんな顔して居ればいいのだろうか、とは思うが、行かないと言う選択肢もない。
果たして彼女は、バツの悪そうな顔でステージに入ってきた。
目が合いそうになって、露骨にツンっと目を逸らされる。
申し訳ないが可愛すぎる。
気持ち悪い笑みを浮かべてしまいそう。
ステージが終わるときには自然な様子に戻っているように見えたから、思っていたよりは気にしてないのかもしれない。
それだけしか効果が無いなんてちょっと物足りない、なんて贅沢な考えが過ぎったのは秘密だ。
次に話す機会は既に決まっていた。
彼女のフォトブックが出るのだ。
すっかり写真が見られなくなっていた僕だが、それでもサイン会に行くために山のように積む。
傍から見たら、僕はどれほど滑稽なのだろうか。
感想を書こうと開いてみるも、すぐに閉じてしまう。
言葉を紡ぐのに時間が掛かる。
サイン会に行っても、「どうだった?」と聞かれて「かわいかった」と返すのが精一杯だった。
かわいいとは思っているのだ。
その気持ちに変化もない。
それを楽しめなくなった自分がおかしいだけ。
もし、僕がそんなことを思っていると知ったら、彼女を悲しませてしまうだろうな。
彼女に言いたくないことが増えていく。
良くない兆候だったが、どうすべきか分からなかった。
貴重な時間を
「最近、手紙読んでくれてる?」
「もちろん読んでるよ?」
曇りなき
不思議そうな顔だ。
頭にはてなが浮かんでいる顔はそれはそれで可愛いのだが、それを喜んでいる余裕がない。
少なくともある程度の数は届いているらしい。
でも、何かを見落としているような悪寒はあの日から消えたことが無い。
彼女は今の状況をどう思っているのだろうか。
幸いイベントは次々やってくる。
準備を念入りにしていれば、余計な事を考えずに済む。
彼女の努力、活躍、人気が好循環を奏でている。
ライブツアー、ライブフェス、誕生日のイベント。
そのおかげで、僕はまだギリギリ頑張れる。
落ちるときは落ちる。
全てのイベントを網羅はなかなか難しい。
でもそういう時は、調べると何かイレギュラーな事が起きていることが多い。
確率計算して積んだのに、蓋を開けてみれば複数積んだ人はほぼ全員落ちていたなんてこともある。
そんなルール知らんがな。
書いてないし。
ディスプレイを炙れば浮き出てくるのかな?
予め書いてあるなら、ある種公正と言えるかもしれない。
でもサイレントでそれをやってしまったら、「積むような人は落ちても次も来るからいいよね」と考えていると捉えられかねない。
そこには公正さはない。
抽選方法の開示はどこに要求すればいいんですか。
景品表示法の改正要望を出したい。
こちとら遊びじゃないんだぞ。
こういうところから、ファンとスタッフの軋轢は生じるのだろう。
実際、リリイベで積む数が多すぎると必ず落選するなんていう都市伝説も
有意と言えそうなデータを得られたことがないので、これについて僕はまだ懐疑派なのだが。
ただ少なくとも、今の仕組みを不安に思うファンの心境が表れているのは確かだと思う。
多少の問題があろうと、まだ次があると思えるから、些事とすることができていた。
既に脆くなっているから、ちょっとしたことで大きく割れてしまうのだが。
次のリリースイベントのルールが変わっていた。
“質問禁止”
まさか、前回僕が余計な質問したからじゃなかろうな?
明確な証拠がある訳ではない。
とはいえ、会場をあっと驚かせる事をしでかしたわけであるから、順当に考えれば関係ありそうなものだ。
ただ、このルールは許せない。
これは彼女を守るものではなく、むしろ彼女に負担を強いるルールだ。
会話っていうのは、相手と言葉を交換しあう。
前に受けた言葉から次の言葉が紡がれる。
言い換えれば、人に向ける言葉と言うのは少なからず質問の意を含むのだ。
それが一切ない言葉を常に相手に向けるというのは、言葉を寸断させて攻撃するか、話を終わらせたいという場合くらいしかない。
当然会話は膨らまない、盛り上がりにも欠ける。
短い時間とはいえ、そんな応答しか出来ない人たちに、一方的に話しかけ続けなければならない彼女は大変だ。
会場には彼女に話しかけたい人が集まっているのだ。
本来なら、
それはそれで彼女のキャラが崩壊してしまうが。
何度考えても、僕を呼び止めたあの時の彼女はこの結果を望んでいるとは思えなかった。
スタッフの意志なのだろうか。
彼女は望んでいないのに、スタッフに
話をするなという意図だとしか僕には解釈できない。
「金は欲しいが彼女には近づけたくない」という発想以外でこの
元々僅かな時間だからいいってものじゃない。
これを決めた人は、こちらが人語を解する生物と思っていないのだろうか。
僕は
すぐに
そんなに深く考えて決めたわけではないかもしれない。
それはそうだろう。
いつでも彼女と話せる人が、年にわずか数分、ないしは数十秒しか話せない生物の気持ちを知る
その時間を代えの効かない
その頭のおかしい狂った何かがここに居ること自体がバグだ。
そもそも話せること自体がおまけサービスでしかない。
どんな制約を付けられても文句を言う権利はない。
恐らく悪気すらない。
それだけなのだ。
ただ、彼女を守るよりも、彼女の商品価値を守ることの方がずっと大事なんだなと、認識してしまった。
僕もそれ以外も全て、人ではなくただの危険因子のように思っているかのような対応をするのを、目の当たりにしてしまった。
スタッフの全員が全員そうだとは思わないが、僕からは区別できないのだ。
彼らに対する僕の信用は現時点を以って売り切れてしまった。
彼女の意志を確かめなければいけないとは思うのだが、糸口が見つからない。
このルールでは彼女の意志を知ることが出来る見込みはゼロだ。
仮にルールを無視したとしても、
あらゆる正確な測定には相応の測定環境が必要なのだ。
さもなくば、いくらでも
これまでですら糸口がなかったのだ。
それに、それを知ったところでどうするというのだろうか。
失敗したうえに次の機会が奪われる可能性を考えるとこの手は使いづらい。
これ以上彼女を悲しませる結末にはしたくないのだが。
だが、僕は好奇心のかまたり。
仮説を立ててしまえばあら不思議、証明するまで止まれない狂信者なのだ。
健康の為なら死んでもいいという人と同種の狂気が神経系を侵している。
今日も当てどなく、手は止まらない。
ちなみに僕の名前はかまたりではない。
会えるだけで僥倖だと思うしかない。
彼女は以前よりも話しかけてくれる。
それだけでもやはり嬉しい。
ただ、歯に物が詰まったような応答しか出来なくて、苦しかった。
当然であるが、彼女は仕事に関すること以外は話さない。
話題が選べない。
ただのファンという形の器に押し込められていく。
普通の知り合いのような会話がしたい。
今まで気付かなかったが、きっと自分はそれを望んでいたのだろう。
僕の形が歪んでいく。
息が苦しくなっていく。
目の前の分厚い壁が、さらに分厚くなっていく。
これが、身代金を要求されたときに大金を払う人の気持ちという奴なのだろうか。
知らなくてもいい感情を覚えてしまった。
年の瀬が近づいてきたころ、テレビ番組のエキストラに招集があった。
今年はちょっと色々あったがそれはそれ、これはこれ。
たまには忘れさせてくれ。
当然ながら、どんな予定が入っていても向かう。
如何にも何か予定入ってそうな思わせぶり発言をするのは日本人の責務であるが、当然予定などない。
そうでなくとも僕は、「行けたら行く」って言ったのに本当に来て周りから呆れられることに喜びを覚えるタイプの人間だからね。
ついつい言葉が踊ってしまう。
それ以前に、この高倍率の中なんでまた当選しているんでしょうねえ。
そこはくじ運に感謝しかない。
選ばれた曲は彼女の魅力を一番凝縮している曲の一つだ。
今までに彼女の曲のバリエーションは増え、湿っぽい曲も静かな曲も十二分に歌いこなすようになっている。
でも自分にとっての原点は、太陽より目映いほどの明るい芯を、暖かい雪がしんしんと降り注ぐように遍く届け温めていく、そんな曲なのだ。
1曲しか撮らないなら、それを体現している曲を流して欲しい。
うむうむ、プロデューサーはわかり手であるな。
そんな顔をしていたかもしれない。
エキストラの配置を決め、各々が配置につく。
撮影セットの上に登っていく。
今地震が来たらさよならバイバイだぁ。
簡単な流れの説明を受ける。
ここには彼女をあまり知らない人もいるから、全員とコールを予習していく。
ライブ感を最大限出したいという事か、リハーサルはなく一発撮り。
収録が始まる。
彼女が入ってきた。
今日の衣装も抜群に似合っている。
カメラが近いからか、いつもより目に力が入っている。
流れるように指先、そして全身が舞い始める。
それに引っ張られるようにペンライトを振っていく。
正しくこれはライブだ。
何度観ても綺麗だ。
1番のサビが過ぎたところで、いつもと違う間奏が流れてきた。
ってえええ、ショートバージョンじゃないか。
慌てて合わせようとするが間に合わない。
ああ、トップオタさん助けて?!
そんな存在が居るのかは知らないが。
残念、撮り直しになってしまう。
時間が増えたからむしろラッキーなのか……?
テイクツー。
同じミスを二度はしない。
今度は全員しっかりついていく。
確認OKが出て、お役目は終わりだ。
今年も終わりだ。
進捗なしです。
このままヨボヨボになってもあの日の事を彼女に訊く機会はないのかも知れない。
諦観にも似た感覚を持つようになっていた。
でもイベントがある限りは、頑張らないと。
年明けはすぐにファンクラブイベントがある。
昼夜公演で、片方のチケットだけ手に入ったので、もう一方は当日券狙い。
いつも通り夜行バスで現地に向かい、列に並ぶ。
前日から少し熱っぽかった。
でも今日は話す時間があるから、休みたくない。
ただ、早朝から外で並んでいたせいか寒気は悪化する一方。
チケットを確保して、とにかく体を温めなければと銭湯に向かう。
すでにグロッキーで体が動かない。
ふと目が覚める。
気が付けば開演が迫っていた。
汚い叫び声を上げそうになる。
「ああああ゛?!」
上げてんじゃねえか。
タクシーを探して駆け回り、
やや冷たい視線を浴びながら席に座る。
肩身が狭い。
そう、ここは彼女が
その当日券をもぎ取った猛者の巣窟席。
ファンのための席。
やはり僕はここから出ていくべきなのではないかと思う。
違和感を強く感じるようになって、自意識過剰なのかもしれない。
そんな僕とは関係なく、彼女は可憐に、可愛くを体現していた。
公演が終わった後にもう一度、中へと舞い戻る。
今回のイベントは、当選者に追加で話す機会があるのだ。
もう声も完全に枯れて、頭も痛い。
せめてマスクくらい持ってくればよかったか。
準備不足甚だしい。
いざ目の前に行くと彼女は、いの一番に訊いてきた。
「また来てくれる?」
「絶対に行く」
初めて約束が出来た。
あの日の事は分からなくても、彼女との約束さえあれば、きっと頑張っていける。
たった一言で、こんなにも安心するのだ。
そこで、忙しい彼女に風邪をうつすわけにはいかないと、気持ちが傾いた。
まだ時間は来ていなかったが、そこで一歩引いた。
彼女は悲しそうな顔に変わってしまう。
後悔が一気に込み上げてきたが、もう戻れない。
でもきっとまた話す機会はやってくる。
朦朧とした頭で思っていた。
この時はそう思っていた。
直ぐに後悔することになる。
新型コロナが猛威を振るい始めていた。
僕はいつも考えが甘すぎる。
先々のイベントが次々に消滅していく。
ロックダウンが迫る。
もうだめかと思われるタイミングに、彼女の新曲発売が予定されている。
リリイベがなんとか無くならないようにと毎日のように祈っていた。
バレンタインデーに合わせたリリイベは、無事に開催されることになった。
本当はチョコを手渡してもらえる予定だったらしいが、予め席に配られている。
話すタイミングもない。
それでも開催してくれただけありがたい。
マスク着用でのミニライブで声を届ける。
新曲は、今までの曲の中でも特に破壊力が高いラブソングだ。
彼女が練り上げた詩はとても真っ直ぐな気持ちが綴られていて貫通力が高い。
こんな威力の気持ちを向けたら世界最大のダムにだって穴が開くだろう。
大惨事だ。
無論僕は土左衛門になっていた。
気を抜くと自意識過剰になってしまう。
何を考えて歌詞を書いたとか想像してしまい頭が沸騰してしまう。
そんなことは無い、そのはずだ。
前まではいつも満員だった高速バスも今はまばら。
運転手がいつもはない長い感謝を告げるのを聞きながら、帰途に就いた。
以後のイベントは残らなかった。
それでも、バレンタインにチョコが貰えたら、お返しをせねば気が収まらない。
返報性の原理には抗えない!
汗が止まらず瞳孔は開き、脈が早鐘のように鳴っている。
それは早く病院に行った方がいい。
人類はかくも強欲なのだ。
イベントがない以上事務所に直接送るしかあるまい。
事務所に送ると彼女に届くまで時間が掛かると聞いていたので今まで敬遠していた。
イベントは無くなったがホワイトデーの配信はある。
それに間に合うよう張り切ってコスメを見繕い、手紙と共に送っていた。
配信当日。
贈ったコスメを自慢げに画面に大映ししていた彼女の姿があった。
滅茶苦茶可愛い。
プレゼントを受け取って彼女が喜んでいる顔を初めて直視してしまう。
その威力たるや……あれ……?
語彙さん、待って、置いて行かないで。
語彙さーん!!?
一気に満たされた。
大満足。
かのロングセラー商品とは関係ない。
他の何かでは絶対にここまで充足しないだろう。
会えないならもっとこちらを強化していくしかない。
死ぬ気で頑張る。
現世の時が止まるのとは裏腹に、彼女の新曲発表ペースはかつてないほどの頻度になっていた。
彼女の曲が増えていくのが心地よい。
彼女は
イベントの代わりに、当選者は通話できる特典が付いていた。
枠は少ない。
だが、当てられないほどではない。
週間ランキングを変えてしまうことも辞さない。
今までのイベントでも、予想される当選確率をベースに積む枚数を決めている。
おおよそ当選確率7、8割になる枚数がいつもの最低ラインだ。
計算上は、今までより一桁積み増せば同程度の当選確率を確実なものとできよう。
どうせ彼女以外にお金を使う当てもないのだ。
やる以外の選択肢はあるまい。
応募の事考えてなかったわ。
永久にシリアルナンバーを取り出す作業が続く。
おっと、紹介が遅れました。
私の名前はシュリンク・オープナー。
オープナー家の三男坊。
CDの包装を撲滅するのが仕事だ。
今後お見知りおきを。
……終わらないよう……。
せめて応募フォームの入力くらいは楽しませう。
適当に画像認識のサンプルコードを拾ってきて、シリアルを読み込ませてはオートで応募を済ませていく。
急造なので割と読み間違えるが、手打ちよりは速い。
なんとか応募は済みそうだ。
抽選の日、彼女は配信中に手ずからくじを引き、当選者を決める。
一人、また一人と名前が呼ばれていく。
流石にリアルタイムで見守るのは緊張する。
あっさりと名前が呼ばれた。
あまり実感はないが、賭けに勝ったらしい。
思わず気が抜けてしまう。
後から思うと、注意していればこの時点で違和感に気付けたと思う。
彼女から電話が来るなら相応の準備が必要だ。
考え過ぎだと思う。
スマホ内蔵のマイクとスピーカーでは不足だろう。
速やかにマイクとヘッドホンを用意する。
動作確認ヨシ。
スマホの非通知ブロックも解除していく。
いくつも設定がある。
何でこんな面倒なことになっているんだ。
絶対に非通知を拒否するという強い意思を感じる。
非通知での通話テストヨシ。
雑音になる部屋の機械類も全て電源を落とす。
準備万端である。
電話が鳴る。
画面に踊る非通知の表示。
スマホで電話をするなんて
数コールののち、応答した。
話し始めると、すぐにいつもと雰囲気が違う事に気付いた。
戸惑っているような、はたまた拒絶されているような。
言葉の節々が刺々しく感じる。
どうして。
何か彼女を不快にさせるような事を言ってしまっただろうか。
表情が見えないので細かい事が読めない。
このまま話していいのだろうか。
迷いながら話していると、決定的な一言が出てくる。
「えっ、コスメを贈ってくれたこともあるの?!」
余りにも遅すぎた。
彼女は僕と話していることに気付いていないんじゃないか?
そう、距離感が違ったのだ。
まずい。
ここで焦って変な事を言って、スタッフに怪しまれないだろうか。
出禁にされる未来まで一瞬で想像する。
何を話せば伝わるだろうか。
背筋が凍るような感覚の中、慌てて、今までどのコスメを贈ったのかを伝えていた。
「えっ…」
彼女はそう言ったあと、完全に言葉が途絶えた。
無情にもそこで時間切れを告げる声が聞こえる。
考えうる限り最悪のタイミングだった。
今まで手紙では自分の本名を書いていた。
でも、今回の抽選は放送で名前が呼ばれるから、ハンドルネームで応募する必要があった。
つまるところ、彼女は僕のハンドルネームを知らなかったらしい。
ただ、これまでの手紙の中で、自分のハンドルネームを何度か書いていた。
名前の由来に始まり、SNSのメッセージやラジオへの投稿など、話のネタにしたことが何度もあったから。
どうも油断していたらしい。
もしかして彼女は手紙を読んでなかったのだろうか。
それともそれもどこかで検閲コードに触れてしまっていたのか。
少なくとも、今までのSNSのメッセージやラジオへの投稿は、一つも彼女に認識されることはなかったらしい。
思い返してみれば、手紙で書いたことに関連したことがSNSに書かれていることはあっても、SNSのメッセージに対してはそういうのはなかったな。
全てが無駄になっていた。
フォローのタイミングも当面ない。
電話口の向こう側の最後の声音がリピートする。
彼女を傷つけてしまった。
すぐに何か書いて届けなきゃと思っているのに、筆が全く動かない。
何か、致命的なモノが壊れてしまった。
投稿に「ありがとう」とか、ほんの一言書こうとするだけで、心臓が捻じられているような感覚を覚える。
彼女の投稿にメッセージを残すのが遅れるようになる。
酷い時は落ち着くまで半日以上も。
文字数もガクッと減ってしまった。
今までどうやって書いていたのか思い出せない。
こんな文章ではどちらにせよ彼女は喜ばないだろう。
負のスパイラルだ。
ますます書けなくなっていく。
特に何か状況が変わることもない。
ないと言い聞かせているのに、心のどこかで期待してしまうのだ。
アカウント名が伝わったのだから、何らかの手段で連絡が来る可能性があるんじゃないかと。
最初に思っていたはずの、全て僕の勘違いなのかもしれないという考えが、いつの間にか掻き消えていた。
心の
期待すればするだけ傷つくことは分かっているのに、鍋の隙間から吹きこぼれては焦げていく。
おこげおいしい。
グリセロールの甘みが口の中いっぱいに広がる。
これもしかして、おこげじゃなくてキ○ワイプでは?!
そもそも彼女は「SNSは信用してない」と一時期何度も言っていた。
それを覚えているのに。
心底自分が気持ち悪い。
彼女のラジオが聴けなくなった。
他の人の投稿が読み上げられていくのを聴くだけでダメになってしまった。
配信もSNSもますます直視できなくなった。
輪の外に居るという感覚が先鋭化していく。
カメラの前で
ファンの皆は話しかけてもらえて羨ましいな。
もうこんなの完全に終わっている。
でも彼女も
しぶとくここに残る僕は一体どれほど愚かなのだろう。
いつもヘビロテしていたはずの曲ですら、少しずつ聴く気力が無くなっていった。
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