第3話

彼女の誕生日が近づいてきていた。

せめてバースデープレゼントくらいは喜んでもらえるように頑張らねば。

何なら彼女は喜んでくれるだろうか。


彼女は、コスメの話を頻繁にしていた。

鉄板だし、一番喜ぶものと言えばそれだろう。

でも、こういう場合は意外とリスクもある。

釈迦に説法、孔子に論語。

何だったら彼らと初対面でいきなり肩を組んで、「良い本読んでんじゃん」と聞くくらい勇気が要る。

どんなシチュエーションだよ。ねえよ。

逆にわかってないなと思われることも多いという。

もっと無難なものにすべきか。


食品系は普通なら無難な選択肢のうちに入らないでもないが。

不特定多数からは受け取らない人も多い。

なんだったらこれも彼女の目に触れる前に処分されてしまう。

今回は届くことが最低条件だ。

リスクが高いうえに届いても無難なものはお呼びでない。

それすら知らない頃は入れてしまったこともあったが……。

まぁ、僕は机の上に見知らぬお菓子が置かれていたら確認せずに食べてしまうがね。

簡単に毒殺されちゃう。

ウェルカム暗殺者。

ダーウィ○賞を狙うにはちょいとばかりインパクトが足りないのが難点。


次だと金券類とか。

届きはするし、多少は喜びもするだろうが。

淡白すぎる。

最低でもゲーミング札束風呂この世の天国ができるくらい突っ込まなければインパクトが無い。

想像してみたが天国じゃねえなこれ。

流石に万札ユッキーを何十万枚と召喚できるような手札もない。

やっぱりもっと喜んで欲しい。


巡り巡ってやはりコスメかな。

上手く当たれば喜んでくれる可能性は高いのだ。

彼女の事をほとんど何も知らないのだから、ハイリスクは今に始まったことではない。

ブランドも商品も星のようにあるが、彼女が普段使っているブランドを調べればある程度絞り込めるだろう。

ただ狙いすぎると既に持っているアイテムを拾ってしまうかも知れない。

なるべく持ってなさそうな新商品、それも数量限定品限定コスメにしてみよう。

この界隈でも新商品発売時にそういった限定版が出るのはお決まりらしい。

気に入った限定コスメなら二個買いするする人も珍しくないらしいので、被っても致命傷で済むかもしれない。

し、死んでる……。



新製品の発売日一覧はあちこちにまとめがある。

片っ端から調べていく。

こういうの調べ始めると止まらん。

情報が欲しい、情報が欲しい。

情報に触れると無限に興奮してしまう。

完全に情報中毒者なんだよなぁ。

いつか「お前は知りすぎた」と言われるのが将来の夢だ。

いくつかの候補の中から、良さげなものをピックアップしていく。

迷いながらも、その中で僕自身が綺麗だなって思う品が見つかった。

マーブル模様が綺麗なリップグロスだ。

直感に賭ける。


ここまで準備したのだから必ず手に入れなければ。

出来ませんでは良心がない。

はい、必ずや……。

発売開始と同時に突撃するしかあるまい。


秒針を眺め、打ち上げ五分前。

時計のズレ確認ヨシ。

通信状況確認ヨシ。

アカウントの登録ヨシ。

前の人がチェックしただろうからヨシ。

全システムオールグリーン。


結果からすると、意外とあっさり手に入った。

確かにすぐに売り切れたが、チケット争奪戦に比べたらぬるま湯や。

有料会員になったのに無情にもアクセスが集中しています最初からやり直しの表示がされるなんてこともない。

気合を入れてラッピングする。

まぁ、スタッフが中身確認するときに身包み剥がされるだろうから自己満足だが。

「良いではないか良いではないか」

「あ~れ~!」

いつもより多く回しております。

手紙と共にプレゼントBOXに入れて、今回の必殺おしごと人は完了だ。


しばらく後、最近のお気に入りとしてSNSに載っていた。

すわっ。

この世から言語の概念が消え失せてしまう。

好きな人に喜んでもらえる以上の喜びなどないのだ。

そのためだったらどんな犠牲もいとわないだろう予感がある。


定期的にコスメを贈ることにする。

蜜の味を覚えてしまった。

楽園追放の日は近い。



彼女は初めて海外のイベントに出るらしい。

行先は台湾。

トークイベントだ。

確実に行かねば。

なんだったら毎月海外遠征があっても大丈夫な想定で資金計画しているのだ。

気が早すぎる。

ただ、チケットは現地の会場内で先着販売なのでかなりハードル高いな?

流石に台湾まで行って空振りは全米が泣く。


事前調査だけは念入りに。

当日の動線と手順を何パターンか検討していく。

早朝には並ばなければならないはずなので、前入りで現地へと飛んだ。

昼に下見に行くと、既に翌日の開場を待つ列が出来始めている。


ん?!


目を疑った。

相当気合が入っている。

日ノ本の国では時の将軍により禁止令が出され、失われたはずの文化だ。

レッドリストに載せて保護しなければ。

検疫措置を通してないのにうっかり触れてしまった。

バレたらイベント前なのに隔離されてしまう!

もしや僕も並ばねばならないのだろうか…。


会場は複数の入り口があり、チケットの販売ブースは入場したすぐ先だ。

販売ブースから1番目と2番目に近い入口に列が形成されている。

列に残って維持してくれるような知り合いもいない以上、今から待つのは難しい。

ぎりぎりを攻めるしかないか。


夕方に再度確認し、列形成の速度と配置の関係を再確認。

2番目に近い入口の列の伸びが遅い。

そこに朝5時に並ぶのがチケットを確保できる限界と見積もる。

始発でも間に合わないのでタクシーだな……。

残念ながらわが社には、タクシーチケット制度がない。


そこまで検討できたら残りできることはあまりない。

天命を待つのみ。

検討に時間を使いすぎたので観光は出来そうにないが、のんびり過ごす。

体力が無ければチケットも取れまい。



翌朝。

列待ちが始まった。

列の増え方は予想通り。

まずは第一関門をクリア。

手早く予定の列に並ぶ。


始発の時間を過ぎたころ、日が昇ってきた。

やはり南国は違う。

思ったより日差しがきつい。

まだ開場まで何時間もあるのだ。

先にバテてしまっては困る。

こちらでは日傘の所持率が日本より高いようだ。

たまらず僕も折り畳み傘を展開する。


開場の時間が迫ってくるころには、こちらからはもう見えないくらい列が出来ている。

こんな人数が一か所に殺到したら大混乱だ。

彼らが別の何かを狙っていることを祈る。


時間丁度に入口は開いた。

ゆっくりと人が流れ込んでいく。

まだ大丈夫だろうか。

計算通りではあるものの、待っている時間がもどかしい。

逸る気持ちを抑え入場の順番を待つ。


チケットを確認してもらって、会場に飛び込む。

ここにはダッシュ禁止というルールはない。

弱肉強食と焼肉定食の世界である。

台湾の焼肉定食普及率について想いを馳せながら、ブースに向けて一直線。


近づくと既に人が群がっているのが見えた。

いや、なにかが近づいてくる。

列だ。

列がこちらに向けて鞭打つように向かってくる。

なんだあれは。

列の形成速度が速すぎる。

人が走る速度よりも速いんじゃないか?!

末尾に人が加わると、たまたま新たな末尾の最も近くにいた人が次に並べるのだ。

目の前で重合反応が連鎖発生している。

ヒトが励起してブラウン運動している。

怖っ。

僕は、ちくわの中身を覗いてしまったらしい。

助けて大明神。


でもある意味チャンスかもしれない。

列が向こうからやってくるのだ。

一瞬の逡巡の間に、目の前に迫ってくる……!

ええいままよ!

激突。


逆方向から列を追いかけていたら詰んでいただろう。

日本海の荒波にもまれながらも、無事にチケットを手に入れた。

台湾だが。

まぁ、日本海の水は台湾の方からも流れてくるのだ。

似たようなものだろう。


汗がほとばしっている。

さすがにこの状態でイベント参加はちょっときついので、一旦ホテルに戻って整える。


周りに日本人らしき人影は少ない。

ちょっと日本語で声を上げたらキラキラした目が一斉にこちらを向き、「今なんて言ったの」的な雰囲気でまくし立てられる。

この国の人は明るいなぁ。

済まないが中国語はさっぱり。

通じるか分からないが下手くそ英語で返す。

Kugelschreiberクーゲルシュライバーの事で頭がいっぱいで、話す余裕がないんだ」と。

流石にそんなことは言わない。

そんなこと言ったら変人だよ。


イベントの終わりは少しだけ話す時間が貰えるという。

突然のアナウンスに場が沸く。

トークイベントにしては大盤振る舞いだ。

ちょっと遅いけど「お誕生日おめでとう」と、直接言えてなかった言葉を伝える。

彼女は無言だったけど、驚いている表情が見られただけで十分だ。

もしかして引いただろうか。

ともかく、彼女が明るい顔をしていられるように頑張らねば。


イベント後は特にやる事もない。

ふらふらと歩いていると、目の前にタピオカミルクティーの店が現れる。

そういえば巷ではタピオカとか流行っていたなと、せっかくなので頼んでみる。

本場だし。

ウッ?!


_人人人人人人人人_

> 突然のタピ <

 ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y ̄


こうして初の台湾イベントはつつがなく終わった。



MV撮影に協力した曲が世に放たれる日が近づいていた。

それは即ちリリースイベントが近づいてきていることを意味する。


いつもの様に応募し、いつもの様に当選する。

いつもの様に会場へ向かい、いつもの様に待っていた。

でもいつもと少し違った。

会場付近で時間を待っていると、ある女の子が近づいてきたのだ。


以前抽選から漏れた時に、たまたま連番融通してもらった子だ。


思えば、最初に連番したときからちょっと変わっていた。

僕が毎回手紙出していると知っただけで、「推せる」って呟いてきたり。

なんで?

思わず「やめた方がいいですよ」と真顔で返してしまったのを覚えている。


それ以来、どこからか僕を見かけると話しかけてくる。

だいたい人に囲まれているから、ただ交友が広いタイプの人なのかなと思っていた。


「好きです」


え、何で。

判断が早い。

僕が誰に会うためにここに来ているのか知っているはずなのに。

そもそもほんの数回しか絡みが無い。

というか最近はほぼ誰とも話してない。

逆に、だからこそだったりするのだろうか。


でもこれ以上の無い、僕には勿体ない言葉だ。

人に好意を向けられて嫌だと感じるほど捻くれてはいない。

でも今の僕の気持ちをどう説明すればよいのか。

やめた方がいいと慌てて言ってみるものの、頑として引かない。

どうしよう。

こんな宙ぶらりんな僕の事を、言ったら信じてくれるのだろうか。


そんな迷いがあったのが良くなかったのか、ふと相手の目を伺ってしまった。

必死に、真っ直ぐに向けた視線がふるふると揺らいでいる。

目が合って、瞳の色が変わっていく。

あの日の彼女と同じ熱を帯びている。

本気の目だ。

それに、触れてしまった。

冗談扱い、出来なくなってしまった。

それ以上冷たく返すことができず、ごまかしてしまう。

ヘタレの目覚め。


きっちりしておかないと後に尾を引いてしまうだろう。

古今東西あらゆる先人が伝えてきた、同じ轍を踏む。

そんな予感。


「好きです」以上のことは何も言ってこなかった。

それを免罪符にしようとしている自分に、酷く腹が立った。

自己嫌悪が増していく。


これ以上近づいたら、弱っている心に忍び込んで来かねない。

今の僕はセキュリティーホールだらけなのだ。

せめて、そこだけはきちんとしないと。


開場とともに別れるが、頭をすぐに切り替えるのは難しかった。


ごまかすかのように、努めて明るく彼女に話しかけていた。

彼女は少しずつ変わってきていた。

半年前よりずっと明るくなってきた。

以前はあわあわと目をぐるぐるさせながら「えっ」と「うん」と応答してきていたのが、少しずつ彼女の方から話しかけてくるようにもなった。

じっと目を合わせて充電していく。

このまま、他のファンと同じような会話をするだけになってしまうのかなと、妙な寂しさを感じる。

このまま何もなかったことになってしまうのだろうか。



彼女の活躍の場は広がっていく。

海外のライブイベントにも彼女は出演するようだ。

もちろん現地へと飛ぶ。

日本語が通じないだけでやる事は変わらない。


彼女のパフォーマンスはいかなる場所でも変わらない。

ステージ上で眩しいほどに輝いている。

行き着く先は宇宙で最も輝く存在クエーサーか、はたまた宇宙の道標パルサーか。

この瞬間が一番輝いていると、そう主張するようなエネルギー。

客席の熱気。

言葉は通じずとも、気持ちは伝わっている。

人は簡単に分かり合えずとも、こうやって奇跡のように繋がる瞬間が創れるのだ。

いつか、完全に届かないところに行ってしまうのかもしれない。

でも今だけは、それを忘れていたい。

そう思いながらステージを眺めていた。


イベントは終わった。

特にすることもない。

怪しい人が現れることもない。

まぁ、僕が一番挙動不審だからな。

そこだけは誰にも負けるわけにはいかない。

僕はプライドが高いんだ。

無警戒に近づいてくる人もいないだろう。

近づいてくるとしたらお巡りさんの方だね。

こっちですよ。


帰りの飛行機を待っているとき、それは起こる。

何かがおかしい。

いつの間にかおばあちゃんの集団に囲まれていた。

妙だな……。

気配を全く感じなかった。

そんな能力は持っていない。

そして、その中の一人が永久に何事か話しかけてくる。

さっぱり分からない。

言葉が通じてないと見るやスマホで翻訳し始める。

見せられた画面には「どこに住んでるの?」「何歳?」そんな言葉が踊っていた。


おやぁ?


若さを吸収しに来たのカナ?

眺めていると文章が無限増殖していく。

濁流に溺れる。

これは控えめに申し上げてヤバいのでは。


遠のく意識の中、根負けしてぽそぽそ返信し始めた。

とてもキャーキャー喜んでいる。

心が若い。

比べて儂、おじいちゃんなのでは。

おじいちゃんだからよく分からない。

席を離れようとしてもすごい勢いで服を引っ張って止めてくる。

アイエエエ!ナンデ?!

これ間違えて蓬萊とこよのくにに迷い込んでないよね?!


解放されたのはフライトの直前。

まぁ、時間はつぶれたから良かった……のか……?

おばあちゃんっ子だからついガードが緩んでしまったぜ。

手紙のネタくらいにはなるだろう。

書いたら妬いてくれないかな。



目まぐるしくイベントはやってくる。

でも、充電端子は接触不良。

距離が遠いともう充電できなくなっていた。

彼女から見えない位置に居ると、忘れられてしまうのではないかとすら思えてくる。

必然とチケットの取り方も余裕がなくなる。

より前の席のチケットを余らせている人を探す。

必要そうならスクリプトも組む。

でも、こんなことをしても終わるのを先延ばしするだけ。

時間は彼女に費やしたいのに、虚しい作業ばかりが増えていく。


そしてまた年が明けた。

進捗ゼロで一年を重ねてしまった。


イベントに向ける目そのものがおかしくなってきていた。

彼女が他の演者と話しているだけで、見えない真綿が絞まっていく。

呼吸が苦しい。

嫉妬が次第に強くなってきている。

汚れていく。

もはや、彼女と目が合う瞬間の為だけにイベントに行っているような状態だ。


例外はライブだけだ。

彼女が歌って踊っているのを近くで観ている時だけは、不思議と一体感のようなものがある。

本当はこの中に混じる資格なんてないのに。

でも、もうこの魔法が掛っている瞬間が無ければ、僕を維持することが出来そうにない。

成れ果ててしまう。

考えたら恐ろしくなるから、ただ前に走り続ける。

それしかなかった。



停滞している中でも少しずつ周りは変わっていく。

起こる出来事で、僕の劣化は加速していく。


ある冬の夜に、祖母が亡くなった。

母の代わりに僕を育ててくれた人だった。


僕は母に会った記憶がない。

物心つく前に事故が起きたそうだ。

唯一残っている形見がM○X2。

なぜパソコンだけ残した。

残すなら他にあるだろう。


まぁ、小学校入って間もなくマイ半田ごてを手にしていたから、案外血は争えないのかもしれない。

月に一度くらいは指か床を焦がしていたから、小さな子に与えて問題ない代物なのかは考えた方が良いと思うぞ。

ひらがなもまともに書けない知識水準だから、まともな設計も出来ない。

今考えると動く訳がない回路を、呪物のように量産していた。

怖い。



金銭面では比較的余裕がある家だったから物質的に何か困った記憶はない。

でも、物心が付いたころはあまりよい空気ではなかったと思う。

特に多感な時期の姉は大荒れで、不安定だった。

いつも泣いていて、そして怒っていた。

それが母を喪った為であると想像できるようになったのは遥か後の事。

僕はそれを全く理解できない。


物語ではしばしば記憶を失くした人が出てくるが、多分似たようなものだ。

概念自体が無くなってしまうのだ。

悲しいと思う事すら出来ず、共感できない。

感情が見つからない。

母の話題が出ると、会話の輪に入れなくなる。

自身が異物であるような感覚すら覚えてしまう。


バブみとかオギャるとかいう奇語の解釈も合っているのか分からない。

解釈違いは戦争の始まりを呼ぶ。

バブみ戦争とかこの世の地獄であるな。

すまんな、僕が解釈を間違えたばかりに無益な血が流れる。

もっと積極的に知ろうとしていれば、何ともないことだったのかもしれない。

ハリネズミよりも臆病だった僕には出来なかった。

むしろその話題を積極的に避けてすらいたかもしれない。

結果、母の名前を認識したのもここ数年のことだったりする。


当時の僕は、理解できない姉の事を畏れていたと思う。

笑わせようとしてみたこともあったが、おかしい奴を見る目で見られただけだった。

センスが全くかみ合っていない。

いとおかし。


周りには笑ってくれる人もいるが、家族は笑わせることが出来ない。

であれば避けることしか出来なかった。

なるべく視界に入らないようにしていたし、足音も立てないようにしていた。

アニメを観たいときも、姉がリビングで観ているのを廊下から、扉の隙間から覗いていた。

何年かしたところで落ち着いたものの、普通の距離感というものは既に分からなくなっていた。

別にもう仲が悪いとかそういうことは無いけど、未だに連絡先も知らない。

スマホを持っているのが姉と僕だけなので、家族とのLI○Eは都市伝説と化した。

ちょっと憧れがある。


結果として遊び相手に飢えていたわけだが、いつも家に居る祖父の周りを羽虫の如く飛び回っていた。

しかも目や口に入ってくる系のやつだ。

控えめに言って最悪なので早く誰か止めてくれ。

おかげさまで祖父には「あっち行け」以外の言葉を掛けられた記憶がない。


家から出ないという事は足腰が弱っていたのだ。

事故が起きるのは時間の問題だった。

とうとうある日、押した拍子に転ばせ、骨盤を折ってしまう。

病院で会った時も、退院した後も、祖父はもう何も言ってこなかった。

まともに謝る事すら出来なかったのに。

結局、退院してすぐに亡くなってしまった。

子供であっても、二度と消えない形で自らが汚れてしまったのは理解できた。



それでも根気よく育ててくれたのが祖母だった。

掃除洗濯は適当だったりしたが、あまり主張することが無く控えめ、そしてとても忍耐強い人だった。

嫌な顔をするのは、猫が膝に飛び乗ってくる時くらい。

猫様は着地時に容赦なく爪を立ててしまうから、薄手の服だととても痛い。

いつも気苦労ばかり掛けた。

しばしば事故を起こすし、周りからは浮きやすい。

これらから導き出される事実は、つまり、僕はヘリウムの生まれ変わり…ってコト!?


一例を挙げると、朝が起きられず毎日集団登校に置いていかれるくらいのマイペースさ具合だった。

問題意識くらいはあったのだが。

起きられないのは仕方がない。

仕方ないわけがないんだよなぁ。

大音量なら起きられるか試したこともあったが、聴力の方がお別れの言葉を述べてきただけだった。


何より鈍い。

周りと軋轢あつれきが生じてもなかなか気付かず、爆発するまで気付かない。

ハインリッヒの法則に従うならとは特に関係がないがそれまでに300回くらい何かやらかしていそうなものなのだが覚えがない。

まぁ、やらかしたやつは大体「何もしてないのに壊れた」って言うからね。

度し難い。

もっともこの鈍さのおかげで、色々あった割には学生生活を普通にエンジョイしていた訳だが。


でも、卒業式の日に思わせぶりに呼び出してきたと思ったら、「みんなと一緒に色々壊してごめんね」とかカミングアウトするのは止めてくれ。

知らないままで居たかったわ。

微塵粉ミジンコメンタルだったらトラウマになるところだ。

危ない危ない。

既に砕けているんだよなぁ。

別に期待とかしてなかったけど!

自分がどうも珍獣扱いされているらしいことも義務教育の間は気付かなかった。

義務教育の敗北!

「そういう奴だから」って甘やかすと学習しないから良くないよ!

既に諦められているんだよなぁ……。


こんな調子だから、もしかしたら母の事故も自分に原因があるのではないかと考えたこともある。

本当だったら怖いので訊くことは出来なかったが。

でも、人に近づき過ぎてはいけないという感覚がうっすらと根を張っていたのは否定できない。


そうやって、心労を掛け過ぎてしまったのだろう。

小学校に入ってしばらくした頃には認知症の症状が出始めていた。



鍋物を焦がす。

具材を入れ忘れる。

そんなことから始まり、僕の出来ることが増えていくのと対比するように、少しずつ出来ないことが増えていく。

因果関係が無いのは分かっているのだが、まるでみたいだと思っていた。

そして、僕が中学に入ったころに、家事全般から引退していった。

その頃には噛む力が弱くなって、肉々しい肉類が食べられなくなっていたから、柔らかく分厚いオーブン焼きハンバーグを作ったときには凄く喜んでくれたのを覚えている。

レシピに書いてある通りに作っただけなんだけど。


でもそんな時間がもう戻ってこないと思い至ったのは、最近の事だ。

半年ほど前に、僕の事を忘れてしまった。

気力のようなものも一緒に喪われてしまったのか、あっという間にほとんど骨と皮だけになっていた。


「誰?」


訊かれた時の衝撃は何とも形容しがたい。

手足を動かそうとしても動けない。

何かおかしいと思って見てみると、身体中があちこち欠けているのだ。

そこでようやく痛みに気付く。

――――っ。

叫ぶことすらできない。


それと同じことが心に起きるのだ。

物語の中だけの表現だと思っていた。

相手の心から欠けると、己の心も欠ける。

さながら量子もつれとなっているかのように。


物語でよく大切な人が記憶を失くしてしまうシーンが出てくるが、こういう感覚なんだな。

もし母が生きていたら僕はこんな気持ちにさせてしまうのか。

誰が言ったか、推せるときに推せ。

それと本質的には似たようなものだ。

それが比喩ではなく、現実の恐怖が塗りたくられた言葉に変質していく。

かといって、何か手が動くわけでもない。

ただただ手足が竦んでいる。


全てを投げうって介護しようと思うでもなく、より良い施設を探そうとするでもない。

覚悟なんて無かった。

無責任に当てもなく嘆いているだけ。


病院のベッドで動くことも出来ない。

ただ「帰りたい」とだけ何度も言う。

応えられていない自分は、空虚で、どこか滑稽だった。


周りは大往生だった、天寿を全うしたと言うけれど。

最期の姿を見ていてそんな風には思えなかった。

折り合いの付け方が分からない。

ただ後悔だけが尾を引く。

「良かった」とか「安らかだった」と思えるような終わり方とは如何なるものなのか。

そんな人は居るのだろうか。

終わり良ければ総て良しとは云われるけど、そんな物語は一体どこにあるのだろう。


彼女ともいつ話す機会すら失うかわからないのだ。

いつか彼女に悲しい顔をさせてしまうかもしれないのだ。

だから、もっと頑張らないと。

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