第2話

誰かと長時間見つめ合うと解離のような症状が出るという研究があるらしい。

危ないお薬を飲んだ人と同じように。

要するに頭が正常に動かなくなる。

○ャク○ャク様の御加護が与えられたってわけだ。

今はまだ降臨発表の前だっての。

つまり、降臨する前だっていうのに既に前兆が出ていたという事になるな?

神格が上がってしまう。


その頭のネジが粉微塵に吹っ飛んでから数日経過していた。


先行研究とは結果が異なりますね。

その論文にはすぐに症状が消失すると書いてあったのに、そうなる気配がない。

再現性の危機が迫っている。

何か違う現象が起きているような気もする。

早く仮説を立てて症例報告しなきゃ。

素人質問フルボッコを受けに行かなきゃ。

興奮してきたわ。


あれから毎日1時間半ほどしか眠れない。

寝不足で猛烈に頭が重いのに眠気が来ない。

脳内がトリガーハッピーのお花畑。

頭がガンガンしているのは認識できるのに全く辛さを感じない。

多幸感ばかりが溢れてくる。



SNSへの投稿の通知が来た。

この前のイベントの事が書いてある。


なんだかいつもよりふわふわした内容に感じた。

「運命ってあるんだ」と書いてあって、顔がニヤつくのを止められない。

自分の事が名指しされているかのように喜んでいた。


でも、ちゃんと相手の気持ちを確認したわけではないのだ。

あんなことがあったけど、偶然とは思えない出来事だと思っていても。

それでも勘違いという可能性がゼロとは限らないのだ。


確かめなきゃいけないよな。

でもどうやって。


SNSにメッセージを残したとして、彼女から連絡が来たりするのだろうか。

いやでも今までもメッセージなら書いている。

もしSNS経由で連絡する気があるなら、既に何かアクションしているはずだ。

何か理由があるのかもしれない。


焦らずとも時間はある。

少しずつ確認していこう。

まずは手紙で気持ちを伝えてみよう。

そうは言い聞かせるものの、気が急いていた。



一週間が経過した。


津波のように自分の心を沈めていた多幸感が潮のように引いてくる。

沈んでいた底から再び現れた心には、いつの間にか大穴が開いていた。

まるで”彼女との幸せな出来事”を納めるためと言わんばかりの空間。

我ながら随分気の早い事だ。

塞がる見込みのない傷口からは、脈打つたびに何かが零れ落ちていく。


浜に打ち上げられた魚のように息をしている。

日差しが容赦なく鱗を乾かしていく。

本当にこれは地球の空気なのか。

あの日の出来事を思い出せば少し楽になるが、次第に効かなくなってきている。

ほんの数日前まで路傍の石で構わないと思っていたのに、随分と贅沢になったものだ。

彼女が似たような状態になってないことを祈った。



次のイベントがやってきた。

……プレゼントBOXが無い。

手紙が出せない。

歯を食いしばる。

席も最後方だ。

彼女からは見えないだろう。


開演した直後、彼女は客席の方をキョロキョロと眺めていた。

まるで何かを探すように。

こちらから一方的に見えているということを、無性に謝りたくなってくる。

今のこの状況が酷くいびつに見えた。

体を動かせず、金縛りにあう夢でも観ているかのようだ。


何か大きな失敗している気がする。

もっと急がなければならないのではないだろうか。

もうこの頃には、焦りが僕の中を支配していた。



手紙を出せるイベントが次に来たのはさらに数週間後。

既に融け、形が崩れかけた言葉をなんとか手紙という形にまとめる。

ただ、彼女がどう思っているのか確信が持てない以上、あまり下手な事も書きづらい。

調子に乗った文章を書いて、気持ち悪いと思われたりしないだろうか。

スタッフが文章を見て、怪しいと思うことはないだろうか。

スタッフが手紙の内容を確認するだろうという事は、知識としては知っている。

彼女に障るような内容でなくとも排除するだろうか。

明文化はされてない。

ひとまずやってみるしかない。

SNSには反応がない以上、他に伝える手段のあてもない。


想定されるギリギリのラインを探りながら、彼女の気持ちを問う言葉を書いていく。

本文の後、末尾の端っこに連絡先も小さく書く。

こんなに手紙を作るのは怖いものだったのか。

歯に物が挟まったような物言いになっていく文章を少しずつ軌道修正していく。

いつもよりも何倍も時間を掛けたその文字列を、プレゼントBOXに出した。

これで合っているのだろうか。


何も起こらない。


いや、普通に手紙を出したら反応なんてない。

それが普通だ。

何を当たり前のことを言っているのだろうか。


多分、間違えたのだ。

そう思い始めると、嫌な思考が止まらなくなる。

彼女は手紙を読んで幻滅したのではないか、と。

もう二度と手紙が読まれなくなるのではないか、と。

僕のような存在が発生しても、彼女の仕事には邪魔ではないのか、と。

そもそも僕じゃ釣り合わないじゃないか、と。


明日は彼女のライブだ。

どんな顔をして参加すればいいんだろう。

それでも参加しないという選択肢は取りたくない。

どれだけ矛盾に満ちていても、形だけでも、彼女を応援したいという初心を忘れたくない。



結局、モヤモヤしたままライブ当日になってしまった。

手紙だけは何とか書いたが、いつもの様には書けなかった。

ますます袋小路に迷い込んでいる気がする。

考えるのが怖い。

どこに僕の気持ちを着地させればよいのか、方向性すら見えない。


ライブが始まる。

彼女の歌もダンスもキレキレのままだ。

まるであの日の出来事が何もなかったかのよう。

なんだか感覚がおかしい。

物理的には変わってないはずなのに、今までよりもずっと距離を感じてしまう。

織姫と彦星は、実際には年一で会えないくらい遠いという。

その話を聞いた時のように、本当の距離を垣間見てしまった。

それでも、やっぱり綺麗だった。

どこまで行っても、もうここ以外に息が継げる場所はないのだ。



これからどうすればいいのか。

どうせ次に行けるイベントは一か月も先だ。

考える時間だけはたくさんあった。


彼女は何も変わってないように見えた。

あの日の出来事があって、手紙を読んだとして、自分の立場だったらどう感じただろう。

今の彼女のように振舞うだろうか。

どうしても違和感が拭えない。

僕がそう思いたいだけなのかもしれない。

彼女が今の状況を望んでいるなら、彼女の気持ちを尊重するべきだ。


だが、彼女は手紙を読んでいないのではないか。

そんな疑問が次第に大きくなってきていた。

スタッフが、彼女に届く前に捨てたのではないかと。

酷く嫌な想像だ。

彼らには彼らの論理があるのだろうけど。

彼女が不快に感じるような内容にしたつもりはない。

僕から見れば、それが本当なら必要以上に介入しているし、スタッフは彼女を信頼してないと取れる。

それを正しい事とは思えないのだ。


手紙が届いてすらいないのであれば、彼女の気持ちは確かめられていない。

彼女がそうしたいという意志以外は考慮に値しない。

彼女の望みを実現したいならば、彼女の意志を第三者が捻じ曲げるという状況だけは阻止しなければならない。


まずはそれを確認する必要がある。

スタッフに伝わらないように彼女に僕の気持ちを伝える手紙を作る。

それが最初のミッションだ。



方針はすぐに固まった。

もしあの日の事が勘違いでないのならば、あの時の続きという形で書けばよいのだ。

上手く使えば、何が起きたか知らない人には言葉の意味がことごとくずれて見える文章が出来る。

そうすれば彼女以外には伝わるまい。

あとはそれを自分の考える限りの力で文字にするだけ。


今まで、彼女に書いた手紙の中では、「好き」という言葉を使うのを避けていた。

この言葉は距離感をバグらせる。

距離感を保つべきだと思っていたし、僕が書いても拒絶されると思っていた。

要するに、言葉を向けることが怖かったんだと思う。

でも、状況は変わった。

バグるとかそんなことを言っている場合ではない。

もう止める。

ポジティブに考えれば、今まで使ってなかった言葉を向けるのだから、その分だけ言葉に真実味を持たせられるかもしれない。


念を押してさらに効果的な内容にしたい。

今まで見た技法で使えそうなものはないか。

例えば紙の書籍だと次のページが見えないから、ページを捲って最初に見える言葉にインパクトを与えられる。

便箋びんせんでも次の紙は見えないから同じ手法が使える。

そこに本命の文章を配置するのだ。


イベントまで長いと思っていたが、手紙が完成したのはイベントの直前だった。

僕自身、会心の出来と思う手紙だ。


久しぶりにイベントで見た彼女は、少しやつれているように見えた。

今まで聞いたことが無いくらい、ネガティブな言葉がポロポロ聞こえてくる。

最近ずっと閉じ込められているような気分だったとか、人にしつこく話しかけられて嫌だったとか。

でも、僕の姿に気が付くと、一気に機嫌が回復しているように感じた。

勘違いだろうか。

彼女ももしかして辛かったのだろうか。

僕の行動が遅いばかりに。

早く何とかしなければ。

そんな焦燥を呑み込んで手紙を出した。


余談だが、この時のイベントでは、演者が触れたと称する道具が露店で売られていた。

許可取っているんだろうか……。

それ以前にこの売り文句はどうなん。

買っていた人も、家宝にするなどと談笑している。

そこで初めて、彼女の周りのファンに警戒心を感じるようになっているのに気付いた。



数週間後、次の機会に現れた彼女は終始挙動不審だった。

それは彼女が会場に入ってきた時から始まる。

入場時に客席に向けて手を振りながら入ってくるが、最前列に構える僕の方向にだけは決して顔を向けない。

首を大きくΩこんな形を描いて動かし、視線を僕から華麗に避けてステージ中央に向かっていった。


そのくせイベント中に、チラチラとこちらを見てくる。

視線が合いそうになるとサッと顔を背けるのだ。

尋常じゃなく可愛い。

臨界突破してもう爆発が止まらない。

世の中にこんな可愛い生き物居ないですよ、おやっさん。

おやっさんとは。

少なくとも手紙は無事届いてそうだ。


他の登壇者が「そんなこと言う人でしたっけ」と何度も言うくらい尋常でないハイテンションで話し始める。

作ってよかった。

少なくとも嫌とは思われなかったようだし、むしろ喜んでくれてそうに見える。

多分。


最後に捌けるときも綺麗にΩこんな形を描いて避けていった。

もう目元口元がにやつくのを抑えることが出来そうにない。

気持ちジト目で見送らせて頂いた。



さて。

この結果をどう取るべきか。

その前の手紙は捨てられた可能性が大幅に高まってしまった。

スタッフに対する信頼が自由落下していく。

彼女が望んでこうしているなら尊重するが、そうである場合とはどうにも符合しないように見える。

悪寒が加速度的に増していく。

ファンはおろか、彼女の事も全く信用していない。

ただの仮説だったそれが、現実の問題になってきた。

彼女には人権がない可能性が高いらしい。

オタクがよく言う「人権がない」とは次元が違う。

二次元に移住したはずのオタクが三次元に強制送還されてしまう。

ガチな奴だ。

憲法21条2項検閲の禁止ってここには適用されないのだろうか。

建前上、スタッフは善意で彼女に届けてくれているだけでしかないから、その方向で攻めるのは難しかろう。


完璧な確証を得たわけではないから、これからも試し続ける必要はあるだろう。

でも、急がなければならない。

ヒトと言うのはコミュニケーションをとる生き物だ。

強い感情を持っているのであれば、相応に相手とコミュニケーションを取らないだけで、傷ついてしまう。

全身全霊をもって相手の事を知ろうとしなければ、伝えようとしなければならないのだ。

コミュニケーションさえ遮断すれば、いつか僕と彼女の関係は勝手に自滅する。

もし彼女の気持ちが僕の想像通りなら、彼女が致命的に傷つくのは時間の問題だろう。

仲違いさせたいのであればこれ以上の手段はない。


急がなければいけないのに、どうすればいいのか分からない。

ルールすら分からず相手に握られている状況では勝負以前の問題だ。



何度かイベントが過ぎていく。

彼女に送った手紙は届いているのだろうか。

彼女からの新たな反応はない。


なんの成果も得られませんでしたでは、困る。

壁外調査は死屍累々。

なんだったら壁を越えることすら出来ていない。

フィードバックすらできない。

トライアンドエラーもあったもんじゃない。


SNSのメッセージにも連絡先を書いてみる。

だんだん形振なりふり構わなくなってきていた。

案外SNSなど、そこら辺の落書きと同じで誰も興味を持っていない。

多少突っ込んだことや個人情報を書いても問題は起きなかった。

でもこうやって直接的な行動を取れば取るほど大きなダメージが跳ね返ってくる。

能動的に、拒絶された時の気分を味わいに行く行為。

自分で自身の胸にナイフでも突き立てるかのよう。

ドMでなければ耐えられない。

自分にその才能がない事を嘆く日が来るとは思わなかった。

数回試して効果がない事を確認しただけで疲れ果て、SNSでの連絡は諦めの境地に至ってしまった。


SNSの情報の一つ一つは塵芥ちりあくたと同程度。

皆その雰囲気を感じて油断しているのだろう。

ネット上に転がっている文章をちゃんと精査して繋げていくと意外と大きな情報が得られる。

普段は、見知らぬ他人からでも情報収集できて大きな武器になるのだが。

実際に僕がその一粒でしかないという事実を思い知らされた。


いつまでこうやって手がかりを探し続ければよいのだろうか……。

暗闇の中で全力疾走しているような気分だ。

いつ崖に落ちるのかも、壁に衝突するのかも分からない。

しかし足を止めるわけにはいかない。


あっという間に魂が濁る。

ほんの数か月で心象風景は砂漠か凍原か。

荒れ果てた大地の上で燃料切れである。

近くに野生のQBでも大量に集まっているんじゃないか。

もし居たら、細かくちぎって投げているところだ。

あれをちぎっても意味ないんだっけ。

心臓に杭が刺さっているかのような痛みは治まる気配がない。

健康診断で心電図に軽い異常を指摘されたので、どうやらこの痛みは幻とも言い切れないらしい。

人体は不可思議である。



急に抜け毛が増え始めた。

髪を洗うたびにゾッとするくらい髪が抜ける。

このまま髪の毛を喪ってしまったら、彼女に捨てられてしまうかもしれない。

笑い事じゃないんよフフフ。

男の人の事は髪型しか見てないってラジオでも言ってたし……。

何が彼女の琴線に触れたのか分からない以上、知らず知らずのうちに僕の何かが変わって毀損してしまうかもしれない。

あらゆる要素において、僕は変わらないようにしなければならない。

何事も予防が大事、ガンだってステージが上がる前に処置すれば予後が良いのだ。

早く対処を始めないと。

全身に禿が転移する前に。


まぁ、理論上は秒速400兆回光の周波数でヘドバンすれば、どんな頭でも光り輝く。

所詮は気休めなのかもしれない。

気分は人間アンジュレータ。

放射光を放つのが専用機器の専売特許ではないことを教えてやる……!



時を同じくして、彼女のSNS投稿が急に減り始めた。

投稿に写っている彼女が本当に笑っているのか分からなくなってくる。

顔色が少しずつ悪くなっているように見えるのだ。

既に手遅れになのかもしれない。

ただ自分の知恵不足と無力さを嘆くよりほかなかった。


最近の彼女は、ラジオやSNSで将来の事を話すことが増えていた。

家庭を持ったら何にこだわりたいとか、相手に求める事とか。

そうでなくとも、僕と同じ髪型ボサ髪を指して、いいよねって言ってくれたり。

そんな些細な事を拾っては、自分を鼓舞するしかない。

自分に向けられている言葉かは分からないけれど。

そんなちょっとした言葉を、かすみをゆっくりすするように取り込んで、日々を耐えていくのだ。

霞を食べて生きるという仙人は、どんな健康法を用いて、栄養不足に打ち克つのだろう。


彼女の気持ちを知る情報源は限られているから、書かれている一言の意図を考え過ぎてしまう。

SNSは信用してないと言っていたから、メッセージを残して頑張るのは止めた方がいいんだろうか。

同業の人と付き合うのはちょっとと言っていたから、彼女の居る業界に飛び込むのは止めた方が良いだろうか。

選択肢が浮かんでは潰れていく。


何もできないまま年を越した。



年明けと共にライブツアーが始まり、流れるように参加していく。

心配なんて杞憂だったんじゃないかと思うストイックなパフォーマンス。

動きはむしろ先鋭の度合いを増していた。

ストイック過ぎるんじゃないかと思うほどに。

いや、むしろ張り詰めすぎて糸が切れるんじゃないかと思うほどだ。

そうして観ていると、歌っている途中で目が合って、その一瞬歌声が止まる。

偶然かもしれないけど、心臓が跳ね上がった。


参加している瞬間だけは今の問題を少しだけ忘れられる。

でも終わった瞬間に、一気に現実に引き戻される。

彼女には輝いていて欲しい。

でも会場が大きくなるにつれて、より遠くに行ってしまう、そんなイメージに恐怖を感じ始める。

気持ちの天秤があまりよくない揺れ方をしている。

矛盾だらけだ。



彼女は、時々手紙に書いたことを話題にしてくれているように見えた。

最初は偶然かもと思ったが、手紙に書いたマイナー顔文字が直後の投稿で使われているのを見て、それなりの確度を持つんじゃないかと思い始めた。

それだけでも凄まじく嬉しい。

思わず酸欠のこいのように口をパクパクさせてしまう。

実際のところ、偶然なのか判別が付かないことが多いが、それでも手紙を見てくれている感じがして安心できる。

常にはっきり書いてあるのなら、逆に内容が取り上げられなかった手紙は届いてないとまで判別できるのだが。

深宇宙との非常用通信1ビット通信ほどの信頼性はないのが泣き所だ。


あれから話す機会がなかなか訪れない。

男性の共演者と楽しそうに話しているのをむくれて眺めていた。

じとーと視線を向けていたら、ハッとこちらに気付いてくれて嬉しい。

アワアワしているのがまた可愛い。

それで笑うとまたツンっと顔を逸らすのだ。

ますます可愛い。

少し充電できたから、もう少し頑張れそうだ。


そうして待ちに待った彼女の新曲が発表されたときには、あの日から半年が過ぎようとしていた。



彼女は、また別のポテンシャルを開花させようとしていた。

彼女の歌声は前にも増して透明感を増し、氷細工かのような凛とした雰囲気を湛えるようになった。

可愛いだけじゃなく、惚れ惚れするような強さ、美しさを見せるようになったのだ。

僕が停滞している間も、彼女は前に進んでいた。

本当に頑張り屋。

誇らしくもあり、少し寂しさもある。


付随してリリイベもやってくる。

とてもじゃないが半年だったとは思えない。

本当は十年以上経ったのではないかと問いたいくらいだ。


余りにもこの日を希求していたせいか、2回分当選通知が来た。

当選は1人1回までじゃないんかい。

設定ミスか、抽選システムのバグかな?

まぁ、バグでもいいや、ありがたい。

正直、渡りに船だ。

とは言え、合計1分もない。

幸運ではあるのだが、話したいことがオリンポス山よりも高く積もっているのだ。

とてもじゃないが話す時間が足りない。


イベントの当日になっても、まだ話すことを決めきれなかった。

間近で見る彼女は、やはりやつれているように見える。

彼女を目の前にして、声が喉につかえる。

時間が無いのに、前よりもさらに伝えられてない。

直ぐに時間が来てしまう。

焦りもピークに達する。

思わず叫んだ。


「大好きですからね!」


が、少し悲しそうな眼をした彼女は無言だ。

声が思いっきり響いてしまったので、会場からの痛々しい視線も突き刺さる。

たったこれだけしか伝えられないのか。

手を伸ばせば届く距離なのに、酷く遠い。

今まで気付かなかった透明な分厚い壁がそこにはあった。


じゃあ2回目はいっそ目だけで伝えた方が良いかもしれない。

目は口ほどにとは言うが、”ほど”では余りにも過小評価だ。

僕は、目の方が口よりも遥かにお喋りだと思っている。

だから次は話しかけるなり、目を合わせて欲しいと、お願いしてみた。


「えっ!…もちろんいいよ」


しばし深呼吸し、えいっと目を合わせてくるのがいじらしくて可愛くて仕方がなかった。

少し震える瞳を見ているだけで、思ったより充電できそう。

でも最後にありがとうと言って離れた時、彼女は泣きそうな顔になっていった。

僕も変な顔をしていたかもしれない。

それでも3日くらいは苦しさが治まったので、彼女には感謝してもしきれない。



それからしばらくして、彼女はSNSに全く投稿しなくなる。

気持ちの投げ方が強過ぎたかも。

でも、その心配と同時に、仄暗ほのぐらい喜びがうっすらと浮かんでくるのが分かった。



この状況をそう捉えてしまうのか。

僕の心は腐り始めているらしい。

最悪な生き物が生まれようとしている。

好きな人に対してこんな感情を向けるべきではない。

理性が感情を否定する。


このままならいつか僕は静かに腐り落ち、壊れたものが何なのかも知覚できなくなるかもしれない。

きっとそんなことは叶わないが。

物語のように分かりやすく発狂できたらどんなに楽だろう。

猶予がどれほどあるのかは分からない。

でも、そうなる前には決着を付けなければならない。


不安を打ち消すように、次の手紙は努めて明るい内容にした。

彼女が元気になるように、そして、愚かな自分を封印するように。

偶然か必然か、手紙を出した直後にSNSは復活した。

自分を責め過ぎたというようなことが書かれていたので、彼女が悩んでいたのは確からしい。

もっとも、それが僕のことであるという証拠はないが。


ほっとした感情と同時に、別の危惧が湧いてくる。

何も解決しないまま、今の状態が固定化されてしまうのではないか。

彼女がそれを望むのならば、とは思うが。

仮に彼女が僕の想像通りの事を思っていたとして、それでも今の状態を望むなら、受け入れることはできると思う。

でもそれは、話し合うなり、相手の意志を理解し、ちゃんと納得したうえであって欲しい。

そこまで望むのは贅沢かもしれない。

でも今の状態は、相互理解とはあまりにも程遠い。

今をドブに捨てているように見えてしまう。

自分の行動は本当にこれで良かったのか、何か取り返しのつかないことをしたのではないか。

自分で書いたくせに、そんなおそれを抱いていた。



愚かな考えをできるだけ遠ざけるためにも、欠かさず彼女を観に行き、補給したエネルギーを以って蓋をするしかない。

祈りが通じたのか否か、新曲のMV撮影にエキストラとして参加できることになる。

推定倍率約100倍、積むこともできないので奇跡的だ。

まだ、僕にも多少は運が残っていたらしい。

いつもは確率だけを信じるようにしているが、こういうことがあると分からなくなる。

すべての常識を疑うのは科学者の始まりだぞ。


閑静な住宅街、その中にひっそりと、指定のスタジオはあった。

集まったのは男女半々100人ほど。

以前、一度連番したことがある人が来ていて、話しかけられる。

「連番したこと忘れてたでしょ」と言われるが、流石にそんなことはない。

あまり話しかけても迷惑だろうし、積極的に絡もうとしてないだけだ。


流れの説明を受けた後、撮影セットの中に人が組み込まれていく。

イベントと比べるとずっと長丁場となる撮影。

何度もセットの配置、エキストラの位置を変更してはカメラが回る。

彼女は実に生き生きと踊っている。

合間に突然猫踏んじゃったを弾き始める姿は、心の底から楽しそうだ。

ステージを離れるときにこちらの方をちらっと見る仕草が可愛くて、少しだけ以前の気持ちを思い出せたように思えた。

でも、彼女の傍に行くことはできない。

撮影中につまづいてしまったときには、近づくことさえできないのが、ひどく辛かった。


日が没したころに撮影は終わった。

彼女はこれで終わりではなく、今日のうちに更にもう一本撮るという。

想像はしていたが、恐ろしいほどの忙しさだ。

やっぱり、僕が何か余計に足掻いても負担になるだけではないのか。

いつか分かると信じて、彼女を待つべきなのではと。

もう一度考え直そうとした。


でも、それは僕には無理だったのだ。

自身が腐り始めていることは気付いていたのに。



しばらくして、彼女の写真集が間もなく出ることがアナウンスされた。

だが、写真集が出るとの一報を聞いて初めに感じたのは、だ。

彼女の事は応援しなければならないのに、なにか変なのだ。


水着姿が載っていると示唆されたころ、何を恐れ、どういう気持ちを抱いていたのかはっきりと自覚してしまった。


……嫌だ。


狂飆きょうひょうが吹き荒れている。

見ないように蓋をしていたはずの火がいつの間にか目の前一面に広がっていた。

大火。

もう自分では消し止められない。

肌が直火で炙られているのではないかと錯覚するほどの嫉妬と独占欲。

身勝手で理不尽な憤り。


彼女は一年くらい前に、「水着はちょっと」と言っていたから、何か心変わりすることがあったのかもしれない。

やんわりとそういう売り方はして欲しくないということを書いたこともあったけど、彼女に伝わったかどうかは定かではない。

そもそも僕一人がそんなことを言ったところで変わる訳がないのは分かるが。

スタッフの考えとは真逆だろうから、今考えるとそもそも届かなかった可能性もあるだろう。

ただ少なくとも、彼女はファンみんなを喜ばせようとしてこうしているのだ。

が何をすれば喜ぶのか、彼女はいつも考えていて、とても深く理解している。

それに対して、僕は。


色めき立つファンたちに怯える。

拡散されて流れてくる言葉が彼女に向けられていること恐怖する。

今まで生きてきて覚えが無いほど不快に感じる。

僕だって男なのだから、彼らの心境は心の底から理解できる。

そう思っても仕方ないというのも分かる。

だが関係ないのだ。

いや、むしろだからこそか。

自分が何を言われても「それな」としか思わないのに、彼女に向けられる言葉は1ミリたりとも許容できない。

知り合いだったら、そんな言葉投げたりしないだろうと。

頼むからそんな目で見ないで欲しい。

晒すようなことをしないで欲しい。

痛い、嫌だ、いやだ!


例え仕事であっても、彼女と一緒に過ごしているスタッフに嫉妬の目を向けてしまう。

彼女との時間を彼らに奪われているような感覚に襲われる。


そしてそう考える自分自身が気持ち悪い。

なんで、知り合いですらない相手にそんな感情を向けようとしているのか。

どの口で最恵国条項を求めると言うのか。

何の権利があるというのか。

たかが写真に何でそこまでこだわるのか。

余りにも滑稽すぎる。


発売の日はすぐにやってくる。


彼女の姿は可愛い。世界で一番かわいい。

でも、撮影風景を想像したらだめだった。

カメラマンがそこに居ることを思い浮かべるだけで、気持ち悪くなってしまう。

胸に力を入れ、手で口を力の限り押さえる。

これじゃあ、まるで浮気写真でも見ているかのようじゃないか。


世の男は皆、好きな人にこんな感情を向けているのだろうか。

可愛い女の子の姿は無邪気に喜んでも、好きな人が同じことをしたら真逆になってしまうのか。

こんな形で見たくなかったって思ってしまうのか。


こんなのはファンではない。

少なくともファンと名乗るべきではない。

もし、僕がもっと余裕のある人間だったら、この程度何ともなかったのだろうか。

残念ながら僕の器は小さすぎた。

彼女の言う” ファンみんな”の範囲に含めるべきではないのかもしれない。

そう、言葉を向けられる資格自体がない。



彼女のファンと積極的に距離を取るようになった。

そりゃそうだ。

こんな異物が、どんな顔してファンの輪に混じるというのか。

とは言え、元々絡むことは少なかった。

今までとそこまで変わることは無い。

逆に僕がこの程度の事すら耐えられないというのであれば、僕自身が相応の対価を払わなければフェアじゃない。

彼女と過ごす時間が一番となるように僕は気を付けなければならない。

彼女との時間が増やせないというのなら、他の人との交流を減らすべきなのだ。

最低限そのくらい出来なければ自分を許せそうになかった。


そう考えるようになると、実際に彼女がファンみんなに向ける言葉が僕に向いてないように聞こえ始める。

人間って不思議。

そして僕にはお似合いの状態だ。

ただ、副作用は大きい。

次第に、SNS投稿の通知に怯えるようになる。

次はどんな写真が載っているのだろうと、見るのが怖くなってしまった。

手紙を読んだ痕跡が残っているかもしれない、見ない訳にはいかない。

でも、一呼吸おいてからでないと開くことが出来ない。

もう、彼女から離れた方が良いのではないか。

賢明な人ならそうするのだろう。

でも、彼女を悲しませるのは嫌だな。

仮に終わってしまうのなら、彼女がそう望んだ時にしたい。


サイン会がやってきて、彼女の前に立つ。

本の感想はほとんど言えないし、手紙にも書けなかった。

ファンとしての言葉を探そうとしても、どこか嘘っぽい言葉が浮かぶだけ。

なんだか彼女も言葉少な、どこか悲しそうな顔をしたままだ。

これじゃ、前回と変わらない。


これからも同じようにできるだろうか。

残念ながら僕は隠し事が得意ではない。

いつか馬脚を露すだろう。

腐りかけた僕の心には早くもうじが湧き始めていた。

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