彼女とストーカー

第1話

彼女の事を知ったのは僕が大学生だったころ。

きっかけは何だっただろう。


その頃はウユニ湖の様に薄く広くチェックするオタクだった。

オタク大好きウユニ湖、超高塩分濃度目を入れても痛くないのあのウユニ湖である。

実行する人は特別な訓練を受けているから、良い子の皆は真似しちゃだめだぞ。

布教活動する仲間を増やすでもなく、ライブやイベントに行くでもない。

そんな薄っぺらオタクだった。

ただ日々出てくる膨大な数のアニソンその他楽曲を一通りチェックして日々を潰すような人間だったから、確か曲だったと思う。


歌唱力が特別高いという訳ではなかった。

ブラウンシュガーのようにまだ荒く、完全には精製されていない。

でも、凄く優しい味だ。

金平糖のように、キラキラコロコロした可愛い声で、妙に元気が出る歌声。

何か、自分が求めていたものにカッチリとはまったような気がした。

それが始まりだった。



彼女は声優が本業な上にまだ学生だったから、専業の人に比べたらリリース間隔は短くない。

ただし、ソロでもユニットでも音楽活動している。

働き者過ぎるのでは。

高頻度で新曲が出るわけではなくとも、彼女の人気が高まるとともに聴く機会が増えていく。

そして自分のアンテナが彼女を向くほどに、名前を目にする数が増えて行ったように思う。

アニメの出演にも気付くようになる。


といっても、僕にとって物語は専ら小説、ラノベや漫画といった紙媒体で、映像はたしなむ程度。

僕には展開が速くて感情が振り回されてしまうのだ。

特に甘酸っぱい展開はすぐにキャパオーバーになってしまう。

映像を止めて、落ち着いてから続きを観るのを繰り返す。

うわっ…私のメンタル、弱すぎ…?

それよりは、自分のペースでチビチビ読むことができる書籍の方が合っていた。


同じように人間関係もあまり深くしない方が合っていた。

感情が制御できなくなるので、誰かに好意を向けられても遠ざけてしまう。

相手がくれた気持ちに十分報いることが出来ず、むしろ迷惑を掛けてしまう生き物だった。

臆病の言い訳だったのかもしれない。

トラブルメーカー体質なのは間違っていないのだけれど。

今日も一日一事故、教育委員会に新鮮な話題をお届けしてしまうぞ。


だからこそかもしれない。

手の届かない位置に居る人ならば、きっとどれだけ応援しても安全だし問題もあるまい。

そう思いついてしまった。

大丈夫だから、彼女の声を直接聴きたいと思うようになっていた。


僕は大学院生になっていた。

なかなか成果が出ないポンコツだったけど、それでも彼女の曲を流すと不思議と元気が出る。

気付けば彼女の曲ばかり聴くようになっていた。


彼女のライブに行ってみたい。


さて、そのためには何が必要だろうか?

グッズを手に入れる?

掛け声コールを覚える?

ノンノン。

僕が最初に考えたのは保湿だった。

いや、結構マジメに言っているから笑わないで欲しい。

……やっぱり、笑ってもいいよ?


万が一彼女の視界に入っても、出来るだけ不快な思いをさせないようにしなければ。

なにせ、化粧品売り場を通り過ぎると、「ちゃんとケアしないと良くないですよ」と店員に呼び止められてしまうくらい、何もしていなかった。

そこな陳列してある品のターゲット層ではあるまいにそれでも呼び止めるとは、よほど酷い状態であったことは想像に難くない。

当時はあまり考えていなかったが、思い出すほど気になってくる。

まずい。

少なくともおいしくはない。

若干トラウマになっていた。


化粧水に石鹸、日焼け止めなどなど自分の肌で試し始める。


すぐに分かった。

確かに、肌ダメージが蓄積し過ぎていることに。

気になり始めると止まらない。


毛穴が蓮コラか何かのように見え始める。

逆から見ても同じことが言える。

普段気にしていることならば、相手の状態もよく目に入る。

あぁ、世の人々からはこんな風に見えていたのだな。

美容に気を遣っている人から見たらなおさら気になるだろう。

やはり、知らず知らずのうちに相手に不快感を与えるかもしれないというのは間違いではないと思う。


何を使ってもなんか合わない。

特にボロボロ肌における洗顔料と化粧水の組み合わせは、すぐバランスが崩れてしまう。

洗わなければ毛穴が詰まる、洗えば乾燥で脂が噴出する。

肌がすぐに突っ張り、頬テッカテカや!

対応に追われる。


でもやっているうちになんだか楽しくなってきた。

実験と同じ要領だ。


生物系はどうやってパラメータを合わせているのだろう。

ノウハウがないのか予想以上に再現しない。

位相余裕が無くて発振している制御不能

それでも、化粧水に原料を混ぜて調整し始めた頃には、ある程度落ち着くようになった。

全身が保湿されるようになると、なぜか体臭も少なくなってくる。

やったことない人は試した方が良いよ。


昔から凝り始めると止まらない。

せっかくならと、眼鏡もコンタクトに変えて、眉毛も整えるようになる。

センスが無いので、大きく印象が変わるほどは弄れないが。


髪はボサボサだが、だがそれが良いと言う人が居たことがあるので保留にしておこう。

髪型の良し悪しはよく分からないので、昔から適当に切っていた。

もし彼女の好みが分かれば、その時でも間に合うだろう。


よし、参加の準備は整った。

明後日の方向にばかり気合を入れていた。



今日は彼女のユニットが僕の地元でライブする日。

ギリギリにチケットを取ったのでほぼ最後尾だ。


当然ながら知り合いは居ない。

広い会場には気合の入っている人ばかり。

若干の場違いさを感じる。

ここに居ても大丈夫だろうか。

そんな風にキョロキョロと挙動不審に過ごしていた。

まるで保湿しか考えてなかったように思うかもしれないが、ちゃんとグッズも入手したよ?

手元に握るは買ったばかり、ピカピカしているペンライト。

長々と調子を確かめていると、突然照明が暗くなる。

開演だ。


初めて直接見て、想像よりもずっと可愛い人なのだと知った。

画像で見た印象とは全然違う。

小柄な体格と裏腹に、エネルギー溢れるその姿。

バッキバキに踊っている。

綺麗な髪がこちらをいざなうかのようになびく。

凄い。

今まで見たこと無いタイプの人だ。


気付けば終わっていた。

7行の感想を読むのと同じくらいの体感時間だ。

狐につままれたようで現実感が無い。

ライブが終わってようやく、確かにそこに居たのだと、そう思えた。

違和感がいつの間にか無くなっていた。


言葉に出来ない感情が少しずつ溜まってきている。

彼女の初ソロライブが開催されると知って、今度は最速で申し込んだ。



初めて応募した最速抽選は、当選していた。

調べてみると、どうも全当はずれなしだったらしいが、嬉しい事には変わりない。


この時の僕は、ただ周りの流れに乗っているだけになっていて、この先何をしたいのか見えていなかった。

ただ大学で夜中まで研究して、終わったら帰って寝ているだけ。

研究すること自体は楽しくはあったけど、目立った成果を出すほどの力もない。

まだ時間はあると、少しずつ余裕がなくなっていくのを見て見ぬふりをして過ごしていた。


「社畜でも苦しい思いをしたら給料が貰えるのに、苦しい思いをして給料も出ず授業料まで払っているのだから、社畜以下だよね」


そんな風に言う教授もいたなぁ。

これがラボ畜の本懐である。

やりがい以外はもう何も要らない。

研究はいばらの道。


そこで当たったチケットは、想像以上のエネルギーをもたらす。

日々の糧になる。

あぁ、沼に沈んでいく。

底はどこ?私は誰?

自意識も失っていく。



夜行バスに乗って、関東へ。

ライブ当日だ。

前回とは比べ物にならないくらいステージに近い。

静かに開演を待つ。

周りと交流の類をするにはまだ百年は早い。

つまり特にやることは無い。

でも、期待に空気を入れているだけですぐに開演の時間は来た。


単独ライブでの彼女は、前観た時と全く振る舞いが違った。

他の誰かに頼ることが出来ない。

そんな状況だからか。

“必死に”と形容するほかない。

とにかく一生懸命で、笑顔を振り撒いていて。

向かってくるエネルギーが尋常じゃない。

このライブに懸ける意気込みが熱波となって、心を焦がしていく。

まるで、戦いの中で一秒一秒成長していくような、そんな風にすら見える。

信じられない。

こんな景色が存在するんだと、初めて知った。


とにかくダンスが可憐で、エネルギッシュに歌っていて。

決して完璧という訳ではない。

でも、彼女はただがむしゃらにパフォーマンスを披露していた。


体感1秒、あっという間に最後の曲に到達してしまう。

あと71時間59分59秒欲しい。


でもそこで緊張の糸が解けたのか、彼女が感極まってしまう。

声が止まってしまった。


「ファイトーッ!!!!」


気付けば息の続く限り声を張り上げていた。

4小節を完全に埋めた。

こう見えても合唱畑出身の人間なので、声だけは多少通る。

周りからはしばしば、声が目立っていると評されたものだ。

バランス崩してどうする。

合わせられなきゃ合唱じゃねえよ。


肺の空気を使い切って声を止めた時、彼女がふわっと笑った様に見えた。

草原に育つ花々が一斉に花弁を開き花畑に変貌したような、そんな笑みだった。

そして彼女は再び歌い始めた。

もう止まらなかった。


自分の声が、気持ちが届いたように感じて、目が離せなくなった。

全身の爪先まで60兆の細胞、例外なく全てが叫んでいる。

これからずっと応援しよう。


それ以外の選択肢があるか?

いやない。

ある訳がない。

文句をいう奴が居たら市中引き回しの上獄門である。

突然の圧政が始まる。

このチケットはどうやら片道切符だったらしい。

生きて、帰って来いよ。



なんとか彼女をもっと応援したい。

そこに至って、彼女の新曲発売時には購入者に向けたリリースイベントリリイベなるものが開かれていることに、初めて気づいた。

お渡し会、なんて呼び方もされている。

記念品のブロマイドなどを直接手渡ししてもらって、その時に数十秒ほど彼女に直接言葉を届けられるという。

当選すれば、ね。

業界ではその距離から、接近戦と呼ばれているそうな。

戦うなよ、応援しろ。

了解、宣戦布告!


丁度、彼女の新曲発売が決まっていた。

応募要項を目に穴が開くまで読み、大佐ごっこをしてから、はがきに書いて一通投函する。

目がああああ?!

要項曰く、リリースイベントは全国各地で複数回行われているが、当選は1人1回までらしい。

一番近くの会場を希望して応募した。


絶対に伝えなきゃというほどではない。

キモいとか思われないだろうか。

キモいが気持ちいいの略だったら良かったんだけどな。

残念ながら世間はそう甘くない。

彼女が喜ぶかも分からない。



一か月後、当選のお知らせが届いていた。

後で考えると、1枚だけでよく当選したと思う。


イベントは学会出張から帰ってきた直後なのでバタバタだ。

せっかくだからお土産とか考えておこうかな。

正直浮かれきっていた。


能天気な事を考えていたら、案の定集合時間に遅刻しかけていた。

完璧な計画が………。

元から計画などないのだが。


予定より遅い列車に飛び乗り、降りても走る。

開場ギリギリになんとか滑り込んだ。

直前だったためか、本来の順番ではなく一番最後の席に座ることになる。

僕よりも遅れてきた人が2人座ったところで、開演となった。


いざ自分が話す番になった。

走ってきたせいか、まだ息が整わない。

目の前で見る彼女は、遠くから観るよりずっと可愛い。

ぱちくりとした大きな目で、じっと見てくる。

ちょっと距離を探っているような目だ。

意外と怖がりなのかもしれない。

ちょこんと立っている姿はまるで現実感が無い。

話そうと思ったことは風と共に消え去った。

室内なのに。


とにかく伝えないと。

凄いと思ったこと良かったことをまくし立てるかのように言う。

最後に「これからも応援しています!」と言った時には最敬礼角度でお辞儀をしていた。

……これドン引きじゃねぇの。

最敬礼は謝罪にも使えるからね。

すでに謝っている説まである。

認識した時には既に謝罪を済ませているとは、社会人って恐ろしいね。

まだ学生だけど。


「えっ」


彼女は、そう言ったっきり、何も言わなかったと思う。

元々大きな瞳を、さらに大きく開けて。

彼女の目を見た限りでは、驚いてはいそうだけど嫌そうとまではなってなさそうに見えた。

不快と思っている人は、大抵はもう少し違った目で見てくる。

ぎりぎりセーフだと思いたい。

いっぱいいっぱいだったので、壊れかけの人形みたいにステージを離れた。


「足元に気を付けてください」


そう言うスタッフの声が聞こえたのは、まさにステージから足を踏み外した時だった。

ドカンッと音が響いたが、ぎりぎり踏みとどまる。

彼女がどんな顔をしているか確かめる勇気はない。

振り返らず、速足で会場を去った。

もうほとんど人が残っていなかったのだけが幸いである。



そうだな。

一度にみなまで話そうとしたのが無茶だった。

文字にした方が良い。


そう思い、次のイベントから手紙を出すことを決めた。

そう、失敗は成功の素。

計画より実行。

世はBe Agile早さこそが全て

人より失敗が多いのだから、改善くらいは早くなければ。


どんな内容が良いだろう。

できるだけ面白い内容とか伏線とか仕込みたいよね。

ペンネームで書くか本名で書くか。

どんな文体にしよう。

どんなレターセットが良いだろう。


またこだわり過ぎている。


どう考えてもいきなり全部盛りは無理なので、小さく始める。

当面は可能な限り丁寧な文面にしよう。

そして、彼女の態度を見ながら調整していこう。

いきなりフレンドリーパーソナルスペース侵害な手紙を書いても怖いかもしれないし。


伏線とかは流石に難しいけど、一つだけ仕込みに丁度良さそうなものがあった。

僕の名前は読み方が何通りもあるので簡単にはどれか分からない。

敢えてそれは秘密にしておこう。

本名で通すことになるな。

SNSまで変えるのは面倒なので、そちらは普段使いのハンドルネームのままだ。

まぁ、それで困ることもないだろうが。

次のイベントが近いので手早く準備していく。


うーん、なんか硬すぎてビジネスっぽい香りがしなくもない。

レターセットのデザインも渋すぎるかもしれない。

最初はこんなもんか。

たった2枚の便箋びんせんにずいぶん時間を掛けてしまった。

意を決してプレゼントBOXに投函する。

ちゃんと読まれているといいな。



同時期に、彼女の担当しているラジオも聴き始める。

聴けば聴くほど思うのだ。

この子、真面目マジメ過ぎでは。


少しだけ口下手な言葉の節々に、そんな雰囲気が見え隠れするのだ。

信じられないくらい頑張り屋で、ストイック。

ファンみんながどうすれば喜ぶかを一心に考えている。

でも、ちょっと抜けていて、不器用な所もある。

もしかしたら、少々堅いと思う人も居るかもしれない。

あれだけのパフォーマンスには相応の背景が存在するのである。

人気出るはずですわ。


こんな一面を垣間見たらもう止められない。

支えなきゃという本能が無限に刺激されていく。



彼女のユニットのライブツアーが開催されていた。

彼女のソロライブとは少し毛色が違う。

ソロライブがとにかく全力をぶつけるという感じだったのに対し、お祭り感と言うかワチャワチャ感がある。

来てくれているファンみんなをどうやって楽しませようか。

そういう余裕にも似た企みを感じるのだ。

おぬしも悪よのう。

そういうこちらは、ハロウィーンにトリック・オア・トリートされるのを血走った目で待っている人の気分だ。

血走っているのはただの不審者ムーブだ。

次第に自分がこの雰囲気に馴染むように変わっていく。

変な感覚だ。

前よりもパフォーマンスに磨きが掛かって見える。


そう余裕げに彼女の活躍を咀嚼そしゃくしていたのだが、現実の方は世知辛い。

僕は大学院修了要件を満たすタイムリミットが目前に迫ってきていた。

必要な論文数が足りない。

とにかく寝る間も惜しんで実験に次ぐ実験。

だんだん身を振り返る余裕もなくなってくる。

就活もしなければならないがエントリーシートを書く時間すら足りない。

期日に間に合わなかったエントリーシートが出始めたあたりで、既に破綻しかけているのは何となく察していた。

でも、どう抜け出せばいいのか分からない。

立ち止まる時間が惜しくて、方向転換が出来ない。


面接でも修了できないかもと言うと露骨に相手の雰囲気は曇る。

とは言え、あまり隠し事は得意でない。

言える物ならさっさと言ってしまった方が、気が楽。

僅かな重みとは言え、その重みを毎回背負えるほどの余裕もなかった。

社会の潤滑油にはなれそうもない。

人体を圧搾しても、車一台に必要な量くらいしか油が採れないから、巨大な社会を動かすには全然足りないのだ。

物理的にプレスすんな。



僕が迷子になっていたとき、彼女の新たな曲が現れる。

それは、僕にとっては薄明光線天使の梯子のように降りてきた。

彼女の曲は一つの極致に達していた。

誰にも挫けないほどのエネルギーに満ちた新曲は、余りにも眩しい。

それは太陽よりも燦々さんさんと輝き、あまねく照らし尽くす。

とんでもない熱を持っているのにも関わらず、手を伸ばしても火傷することなく、粉雪のように優しく溶ける。

魔法のような曲だった。


まさに今欲している力が貰える曲と言っても良かった。

こんなタイミングが良い事があるだろうか。

こんなん推すしかないですし。

おすし。


応募は確率を考えるようになる。

イベント会場の推定キャパと推定応募者数から積む枚数買って応募する口数を調整していくのだ。

その甲斐もあったか、次のリリイベも無事当選した。


今回当選したのはトークイベント。

直接話す機会はない。

とは言え、近くで姿が観られるだけで十分嬉しい。


トークのネタになる言の葉をアンケートに記載して、始まるのを待つ。

ちょっと雑な内容を書いてしまったかな。

これだけ人数が居るので、まぁ読まれないだろう。


速攻採用されて焦った僕が、生き残ることが出来たかは定かではない。

お察しください。

採用されるなら就活の方にしてくれ。


この新曲のリリースと共に、彼女の初ソロライブツアーが決定している。

今度から全通全公演に参加を目指そうかな。

少しずつイベントへの参加率が上がりつつあった。



全部は当たらなかったが、仕方あるまい。

彼女の人気は確実に上がってきている。

この調子なら、ますます高みに登っていくのだろう。

引き離されないように頑張らねば。


壇上ステージの彼女はますます輝いていた。

蝶のように舞い、蜂のように刺す。

どの部分を切り取っても曲もダンスも刺さる。

完成度は前回の比じゃない。

表情は柔らかくなり、どんどん可憐に華麗になっている。

これを余すことなく覚えておくことが、今の僕の生きる糧だ。


もっと彼女の姿を観たい。

ライブやリリイベ以外のイベントにも行こう。

その調子で、修了学業にももっと力入れような?


調べてみると彼女は思ったよりもいろいろなイベントに出ている。

そう、彼女の作品は歌以外にもあった。

僕の知らない世界。

アニメ作品のイベントがこれほど多いなんて初めて知る。

にわかな僕が行くのもどうなのと思うのだが、それでも行きたい気持ちの方が大きくなってきていた。


次の新曲リリースが再び近づいてきたころだった。

リリースイベントに加え、次の日にあるイベントも応募してみる。

無事に当選となった。


初めて話したのが一年以上前。

……あまり会話になってなかった気もしなくもないが話したことにさせてくれ。

それ以来、次の機会を待っていたのだ。


でも、目の前にきた瞬間昇華点を超えた。

ゆけっ、エクトプラズム!

じゃない。戻って来い。

ぽそぽそと感謝の言葉を投げると、彼女はうんうんと頷いてくれた。

イベントだとすらすらトークしているけど、素は意外と無口なのかもしれない。

直ぐに時間が終わる、挨拶しなきゃ。


「明日のイベントも楽しみにしています」

「えっ?!」


彼女はずいぶん驚いた顔をしていた。

驚くところそこなんだ。


もしかして曲関連以外では来ないと思っていたのだろうか。

いや、彼女に覚えられるほど現れたことがない。

手紙は出していても、話すときに名乗った訳でもない。

隠しているわけじゃないから、話した内容と手紙の内容を摺り合わせれば分かる可能性はゼロではないが。

考えすぎかもしれない。

もし、たったそれだけで覚えてくれているのなら、凄くファン冥利に尽きる。

そうでなくとも記憶力が良いか、凄く頑張り屋だ。


さて、次の日もイベントだぞ。

ちゃんと作品も履修済みだ。


さて参加してみるが、意外なほど楽しい。

キャストの掛け合いを観ているだけで思ったより楽しい。

楽しそうにしている彼女を観ているのは楽しい。

来ても良かったんだ。

あんな風に笑わせてみたいな。

僕の生活には清涼成分が足りていない。

もっともっと補充しないと。



年が明け、彼女のユニットのライブツアーが始まった。

就職先も決まり、まだ予断を許さないものの、修了の目途も立ちつつある。

連日大学に泊まり込み、そのままライブに向かい、帰ってきたらまた泊まり込む。

そんな生活が続く。


何度観ても、バランスのいいユニットだ。

生まれた時から傍にいるかのように、何も言わずとも自然と呼吸が合っている。

僕には、仲のいい姉妹のように見えていた。

それほど息が合っているから、やんわり言うとこの界隈は強火推しCP関係性オタ原理主義者が多い。

……やんわりだったか?今の例え。

でもそうなる気持ちもわかる。

本当に観ていて気持ちの良いパフォーマンスだ。

絶好調に思えた。


その力を借りるように修了要件を満たし、社会人になることが決まる。


これからは資金力も増えるしもっと応援できる。

そう思った矢先だった。

彼女のユニット活動休止が発表された。


まぁ、そういう事がありうるのは知っていた。

だからこそ推せるうちに推せなんて言葉もあるのだ。


ただ、思っていたよりもずっと彼女の事を何も知らなかったんだなって。

言われて初めて、彼女に落ち込んでいる雰囲気が出ていることに気付いたのだ。

逆にだからこそ、あのライブがまさに星のように光り輝いていたのかもしれない。



もっと知らなければならない。

もっと笑っていて欲しい。

これからのイベントは、全部参加。

SNSは毎回メッセージを残す。

手紙もすべてのイベントで用意しよう。

社会人になって時間が出来たから、それを全力で彼女に向けよう。

既に、就職先すら”応援する余力が最大限高まる”ことを重要ファクターにするくらい入れ込んでいた。

自己満足かも知れないが、やらぬよりは良い。


タイミングよく、彼女のアルバム発売が迫っていた。

いつものようにリリイベを当選させ、いつもより気合を入れてここまでの感謝を手紙につづっていく。

近くで見る彼女は、落ち込んでいるようにはほとんど見えない。

なんだか、前よりも可愛く笑うようになった気がする。

きっとファンのみんなが元気づけてくれたんだと思う。

話しかけると、勢いよく頷いてくれた。

ほんの数秒で、コロコロと表情が切り替わる。


でもやっぱり他の人のようには盛り上げられない。

次はもっと彼女が喜ぶような話題を考えないと。

他の人はどんなことを話しているのだろう。


よくよくこれまでの会話を振り返ると、「えっ」と「うん」以外ほとんど彼女は話してない。

あれ。

もしかして嫌がっていたりしないよね……?

やや焦った僕とは関係なく、イベントは遅滞なく進行していく。



資金力に余裕が出れば、出来ることも増えていく。

以前は遠かった東京も、気軽に往復できる。

チケットが東京で配布されます地方民お断りと言われても逡巡する必要が無くなった。


とは言え、無尽蔵という訳ではない。

いついかなるイベントがあろうと対応できるよう、余裕があるうちは節約すべき。


チケットが取れなかったときは、当選した人が連番してくれないかを探すようになった。

連番、つまるところペアのチケットを確保した人に、余っている席を譲ってくれないか頼むのだ。

そうすると、リリースイベントなどの当選者本人のみ参加可能本人確認ありなイベントの当選対策や手紙を書くことに集中できる。

この界隈では、先にチケットを確保してから一緒に行く相手を探す人がちょこちょこ居る。

大抵は一回きりの関係だ。

でも、たまに関係が続くこともある。

といっても、偶然会ったら挨拶する程度。

界隈の人間関係が虚無だった頃に比べたら大進歩だな。


夜行バスを駆使してイベントを巡る。

朝は暇なので、銭湯でゆっくりまったり。

バスの疲れをバスで癒すのだ。

はい、今しょうもないことを言いました。

神様仏様、どうかお許しください。

無情にも、場の空気を殺した罪で等活地獄確定演出が出た。

まだこの時は○ャク○ャク様が降臨発表される前なのでお赦しが出ない。

いや、居てもお赦しは出ねえよ?

てかこの伏せ方では危ないお薬を司る神様になってしまうやろがい。

イベントに行く回数も増えたので、東京近郊の朝風呂が出来る場所は大方コンプ。

風呂マニアっぽいなにかになりつつある。


身支度が終われば手紙の準備だ。

最初は書くのに苦労した手紙も、書くことがスラスラ出てくるようになる。

イベントに多く参加すれば、ネタも相応に増えていく。


彼女は、ただでさえ元から可愛いのに、さらに可愛さが増しているように感じた。

はにかんだような、吸い込まれそうな笑い方をすることが増えたような気がする。


彼女が担当しているラジオを聴いていても、回数を重ねるごとに彼女は明るくなっていく。

無事に癒えたのかもしれない。

正直僕よりも、草葉の陰から見守る人の方が彼女の力になっていると思う。

それでも、ふと油断すると、過剰な自意識が目覚めてしまう。

役に立てたのかなとテンションが上がってしまう。


この日々が永く続くと思っていたある日、それは起きた。



今日は、昼夜二部構成の小さなイベントだ。

先着順でチケット配布だったから、配布開始日に半休取って東京急行したのを覚えている。

席順は当日くじ引きだ。


こう見えてもくじ引きには腕に覚えがある。

おっと、科学の徒としてあるまじき発言。

神罰が下りますね。


そうは思うのだが、直接手でくじを引く時だけ、なぜか当たりが偏るのだ。

実際、昼に至っては最前ゼロオフセット最も近い席、夜でも二列目、彼女から見てオフセットがゼロ真正面の特等席を引いた。


ずっと秘密のままだった名前の読み方をそろそろ明かしてもいいかなと、手紙に書いて出す。

小ネタにしてはちょっと温め過ぎたかもしれない。

腐ってやがる、遅すぎたんだ。

うまく驚いてくれるといいのだけど。


その日の彼女も、抜群にかわいくて、今までにないくらい近かったから、それだけでボルテージが上がっていく。

正直自分には過ぎた夢のよう。


夜の部が始まり、彼女が入場してきたとき、ニンマリとした視線を向けられたような気がした。

お、これは驚かせるのに成功したのだろうか。

ちゃんと確認したわけでもないのにニヤリとしてしまう。


最後のプレゼント抽選も最後の二人まで残っての頂上決戦だ。

普通にじゃんけんするだけなのだが。

勝負は手抜かないが、勝った時により喜ぶのがどちらかというと、対戦相手の方だろうな。

こちらの主目的は彼女に会いに来ることなのだから。

彼女が掛け声を出してくれているので、なるべく長く戦い続けたい。

そんな風に思っていた。

そこの気合が違ったのだろう。

何度もあいこになった末、負けた。


「よっしゃーっ!!!!」


滅茶苦茶喜び叫んどるやん。

想像よりも遥かに喜ぶ姿を視界に収め、思わずこちらも笑うしかない。

こちらとしても、彼女に音頭をとって貰いながら勝負できて満足しかない。

まさにWin-Winの関係。


なんか今日は運が良すぎる気がする。

そんなイベントも終わりに近づき、登壇者が各々挨拶をしているところだった。

挨拶を終えた彼女が、ふとこちらを見た。


目が合った。

いたずらっぽい目でじっと見てくる。


え、待って。

パニックだった。

何この状況。

吸い込まれるような瞳から目を離せない。

いや、離したくない。

エネルギーの塊か何かが容量を超えて流れ込んでくる。


限界。

頭の何かが壊れる音がした。

何秒経った?


そして2分近くが過ぎたところで、彼女は突然ハッとしたように顔を伏せてしまった。

その顔は真っ赤だった。


既に頭は茹で上がっている。

限界を超えていた僕も、そこまで見届けたところで顔を落とした。


よく分からない神経伝達物質とホルモンが狂ったように出ている。

世界が歪んでいるかのように焦点が定まらない。

無理。


退場する姿をちらと確認してみる。

彼女はもうこちらを見ない。

カチコチに見える笑顔で退場した。


いやいや、まさかそんな漫画のテンプレのような展開があるものか。

そうは思ったが頭が幸せに握り潰されていた。

ぼやけている世界は、なんだがすごく綺麗に見える。

他の事が何も考えられない。


アルコールのように、摂取してからしばらく後に来るらしい。

目を離した後の方がくらくらする。

致死量を超えてしまった。

無理無理無理無理耐えられない。

でろっでろの泥酔状態。

まっすぐ歩けているのかすら怪しい。

そんな状態で家路についた。


その日の彼女は、イベントがあったのにいつものSNSに投稿しなかった。

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