Scene 3

 もうすっかり八月だ。毎日、あまりの暑さに閉口してしまう。

 でも今の俺は、頬を流れる汗が心地良く感じるくらい、とても清々しい気分だった。

 ミナトに頼まれていた新曲が、遂に完成したのだ。

 このことはまだ伝えていない。

 今日の朝一からの練習で、サプライズで披露するつもりだ。

 どんな反応をするか想像するだけでも気持ちが舞い上がってしまう。

 浮ついた足取りで部室の前に立ち、ノックしようとすると、中から声が聞こえてきた。

 男性と女性の声が一つずつ。片方はミナトの声だ。

 もう片方は、ウチのサークルで一番人気を誇っているバンドのリーダーをやっている先輩だった。


『そうなんですよねー。ソウジ、まだ曲が完成しないみたいで。煮詰まっちゃってないか、心配です』


 どうやら、新曲についての話題みたいだ。

 先輩が「さすがにまだ完成しないのは良くないんじゃないか、練習時間も十分に取れないだろ」と言っている。

 それから、ここぞとばかりに、俺のことを貶す言葉を続けていた。

 もう完成してるっての。デモ音源だって、ちゃんとスマホに入っているし。

 どのタイミングで部屋に入ってやろうか……なんて意地の悪いことを考えていると、とんでもない発言が飛び出した。

「不完全な状態で大学祭に出るくらいなら、オレのバンドでボーカルしないか?」だって。


『ごめんなさい。私、ソウジの曲の詩を書くって約束があるので』


 怒りに身を任せて、扉を蹴破って胸ぐらを掴んでやろうかと思ったけど、ミナトの声に冷静さを取り戻した。

 キッパリと断る言葉に、嬉しくなってしまう。

 そうだ。ミナトはこの前、俺の曲が好きだと言ってくれたんだ。だから身勝手な誘いになんて乗るハズがない。

 それでも諦め悪く「歌詞が書きたいなら、まだ詩が付いていない曲も沢山あるから」とアピールしている。


『そういう話じゃないんですが……』


 ミナトも困っていた。

 しつこく食い下がる先輩が、今度は未完成の曲を再生しだした。

 壁越しに、空気の震えが伝わってくる。

 さすが一番人気のバンドなだけある。俺の打ち込む音源とは、まるで違う迫力があった。

 悔しいけど、俺の曲との格の差を認めるしかなかった。


『いい曲だと思います』


 音の隙間を縫うように、ミナトの声が聞こえてきた。

「そうだろ」と言う先輩の声色は勝ち誇っているように感じる。

 少し不安になった心を深呼吸で落ち着ける。

 大丈夫だ。確かに実力差は大きいけれど、そんなことでミナトが俺を見限るワケがない。

 ちゃんと断ってくれるって、信じている。


『分かりました。そこまで言うなら、詩、書かせてください』


 え……?

 急に周囲が無音になった気がした。

 耳の奥では、今の言葉がずっと張り付いて離れない。

 喉に何かが詰められたみたいに、上手く呼吸ができなくなる。

 俺はその場を離れた。いや、逃げ出したが正しい。


「なんで……なんでだよ……」


 勝手に口を突いて出てくる声が、どんどん湿っていく。

 そんなに先輩の曲が気に入ったのだろうか?

 いや、誰かが熱心に誘ってくれるのを、今まで待っていただけなのかもしれない。

 自分の書いた詩で歌えるのなら、誰の曲でもよかったんだ。

 ミナトにとっての俺なんて、自分の欲求を満たすためのコマでしかなかった。


『ゴメン。体調崩して、今日は練習行けそうにない』


 電車に飛び乗って、震える手でスマホを握りしめ、ミナトへメッセージを送る。

 すぐに返信の通知が来たけど、開くことはできなかった。

 いつの間にか陽は陰り、雨が降り出していた。

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