その声に水色が見えた日

淡園オリハ

第1話

 今日はめずらしく東京に雪が降っていた。すっかり慣れた動きで適当な携帯番号を打ち込んでいたら八個目の番号でコール音が鳴った。

「……ぁ」

 生きている番号にかけたのは久しぶりで、少し緊張する。

『もしもし』

 受話器の向こう、若い男の声がした。

「はじめまして」

『あの、どちら様?』

「片桐と言います」

 偽名だった。名も知らぬ彼は律義に『かたぎり、かたぎり』と呟いて脳内の知人フォルダを検索していたけれどヒットせず、謝罪を返す。

『すみません、どちらの片桐さんですか?』

「まだ出会ったことのない片桐です」

『え、僕はいま知らない人と話してるんですか』

「そういうことになります」

『生まれて初めての経験だ。これって間違い電話ですか? それともいたずら?』

「どっちでもあります。意図的に掛けた間違い電話なので」

『意図的に掛けた間違い電話って、間違い電話って言えるんですかね』

「どうでしょう。いずれにせよ、こうしてちゃんとお話ができたのは私も初めてです」

 この意図的間違い電話はまず生きている番号を探し当てるのが難関だ。運よく電話が繋がっても良くて数ラリー続くかどうか。九割は詐欺師と罵倒されながら切られ、一割は絶対に外では口にできないような言葉を男性からぶつけられてから、切られる。

 こうやってちゃんと人と話せたのは一ヶ月ぶりで、否が応でも気持ちが昂った。

『僕なんて人と話すのいつぶり? ってくらいです』

「似た者同士だから繋がったのかもしれません」

『おぉ、ロマンチストですね』

「ロマンチストでありたいだけです」

『どうして?』

「人は願ったことしか覚えていられないからですよ。願わないと忘れるからもし叶っても気付けない。あとロマンはどれだけ持っていても税金かかりませんし」

『なんて現実的なロマンチスト』

「あなたは、どうしてこんないたずら電話に付き合ってくれるんですか」

 うーん、と唸る。

『こんな電話だからじゃないですか。よっぽど話しやすいというか。それこそ間違い電話だから言いますけど、僕、言葉って嫌いなんです。本当に大切なことを零れさせちゃう気がして』

「分かります」

『あ、それ、一番嫌いな言葉です』

「それも、分かります」

 間違い電話の相手と笑い合うなんて世界に隠し事をしているみたいだ。

 彼との会話は弾んだ。気が付けば受話器を握る指先の感覚がすっかりなくなっている。ずいぶん話し込んでしまったみたいだ。十円玉を投入しようとしたところで、財布の中の小銭が切れていることに気付く。

「あ、まずいです。電話が切れちゃう」

『えっ』

 電話が切れる直前、どちらからともなく言った。

「じゃあまた、」『またこの時間に、』

 つー。つー。という電子音と、あるべき沈黙が私の前に戻ってきた。受話器をホルダーに戻してから両手をポケットに避難させ、公衆電話のドアを肩で押して外に出る。

「……ぁ」

 ここに入るまで降り続いていた雪は既に止み、電話ボックスに向かって伸びていたはずの一人分の足跡の上にはもう新雪が積もっていた。ぽうっと浮かぶ常夜灯の灯りが満月みたいに輝いて、湿気た空気を集めては虹色に乱反射させる。しばらくそれを眺めると雪道に真新しい足跡を落としながら家路についた。翌朝、雪景色に飲まれるようにして私の世界が一変するとも知らずに。


「ぇ……?」

 お湯を沸かしながら点けたテレビの中で女性アナウンサーが言った『今日のトップニュースです』は青と黄緑が混ざった色だった。アナウンサーが喋るたび、視界に同じ色が浮かび上がる。ベランダから見える朝焼けの色によく似ていたから、見間違いかと思ってカーテンを閉めて部屋を暗くしてみても朝焼けは消えなかった。

 物置と化したクロゼットから中古のラジオを引っ張り出し、指に埃が付くのも無視して電源を入れる。すぐにスピーカーから流れ出した交通情報は鈍色だった。奇しくもアスファルトの色に近い。二つの色は視線をどこに動かしても付いてくる。しばらくいろんなチャンネルとラジオの周波数を回す。茶色。黄色。ちょっと薄い黄色。クリーム色にぶどう色。

 視界がサーカスみたいに喧しくて、急いでスマホを探す。さっき放り出したのだろう、キッチンの床にぺしゃりと落ちたスマホを見つけた。ミスタップ繰り返しながら実家にかけようとして、自分の状況を思い出して、ゆっくりスリープモードに戻した。ついでにテレビとラジオを消すと、呼応するように色も消えた。

 それからいくつもの音を聞いては消してを繰り返して、分かったことがある。まず言葉に色が伴って見えること。次に、声の持ち主にはそれぞれ固有の色が割り当てられていること。さらにトーンや会話の内容が変わっても話者が同じなら色は変わらないということ。でも色が見えるのは人が喋る言葉だけで、例えば飛行機の音や鳥の声、音楽なんかは対象外だった。私の声にも色はなかったけど、納得していた。私はまだ言葉を取り戻せていないのだから。

 一番分からないのは、唐突にこんな現象が起こった原因だ。前触れも、身体の痛みや違和感もないことを踏まえると、これは一種の幻覚かもしれない。幻覚に理由を探すのは不毛だ。それに、今さら色が見えるくらい、なんだ。

 カチッと鳴った電気ケトルの音で我に返る。コーヒーを注いだマグを手にこたつに入る。天板の上に散乱した錠剤を適当に腕で払い除けると、下敷きになっていた一枚の紙が目に留まる。しまった。その上にマグを置き、もう一度テレビを点けるも手遅れだった。本物か幻覚か分からない朝焼けの色にあの日の記憶が重なる。

 

 失声症という単語を知ったのは一ヵ月前、自分がそう診断されたときだった。

 なんとか第一志望の広告会社に入社し、三度の春を越え、やっとコピーライターとして抜擢された初の大型案件。午後イチにプレゼンを控えた大一番の日に、私は突然言葉を失った。

 気づいたのは出社してすぐだった。上司に「おはようございます」が言えなかった。喉元まで運ばれた言葉が魚の小骨みたいにひっかかり、たった九文字がどうしようもなく重く、引きずられるようにして身体の奥へ沈んでいく。挨拶を無視して、池の鯉みたいに口をパクパクさせる私を半笑いで窘めていた上司の顔が引き攣っていく。そのまま数秒経ち、ようやく異変に気付いた上司によって抵抗虚しく病院へ連行された。

 すぐに精密検査を受けるも脳機能に異常はなく、心因性の失声症と診断された。名医っぽいおじいちゃん先生の口から放たれたその単語の意味を理解できなかったのは私に心理学の心得がないからではなく、物心ついたときから自分と共にあった言葉が脳と心からの借り物だと認めたくなかったからだ。でも、どれだけ力を込めようと口から漏れるのは情けない吐息だけ。頭の中に停留する言葉は溜まりに溜まってパンクしそうなのに、そのどれもが声帯に触れた瞬間に霧散して、意味や概念へ還元されていくようだった。焦る私を先生は優しく諭す。

「じっくりリハビリしていきましょう」

「冗談じゃない! 今すぐ元に戻して!」

 そう叫ばれるはずだった言葉さえ霧散し、ついに閉口して一瞬うなだれた動作を「素直な首肯」と受け取ったのだろう。言葉を失った私に、先生と上司が柔らかな笑みを向けたそのとき、私は病人になった。そんなことはどうでもよかった。声がなくても言葉はここにある。口がなくても字は書ける。今すぐに会社に戻りたいとせがむ私に、上司はゆるゆると首を振った。ついでに、続く言葉で私の心をぽきっと折った。

「ついさっき、上手くいったと連絡が来たよ。お前のおかげだ」

 折った心を丁寧に細切れにするように上司は説明を続けた。私が寝ずに仕上げた資料も、子どもの頃から憧れていた仕事で掴んだ大チャンスも、人生を懸けて削り出して磨き上げたコピーさえ、とっくに私の手から零れ落ちて、すでに後釜の同期に引き継がれていたらしい。私が意味の分からない機械でバカみたいに健康な脳を調べている裏で、彼は見事プレゼンを成功させていた。努力が無駄にならなくてよかった。そう言い聞かせて気持ちを飲み下す。でも休職手続きのために出社した日、偶然すれ違った同期が放った言葉だけは、今も喉元に引っかかって抜けてくれない。

『俺の出世のために喉潰してくれて、サンキューな』

 私が初めて間違い電話をかけたのは、その翌日だった。ぶつけようのない苛立ちと焦りでじっとしていられなくて、リハビリ感覚で外を散歩しているときにふと思いついた小さないたずら。それが間違い電話だった。

 お互いに匿名のまま他人と話せる環境は多くない。インターネットが発達しすぎたおかげで、今は知らない人と話すだけでもアカウントが必要だし、自己紹介に書ける自分なんて一つも思い浮かばない私にとって、本当の意味で匿名のまま誰かと言葉を交わすには公衆電話が最も適していた。一度電話ボックスに入ったものの電話をかける直前で臆病風に吹かれた私は、コンビニへ走った。戻る道でチューハイを飲み干し、震える指で十一桁の番号を打ち込む。繋がる。所詮は間違い電話だ、喋れなくてもいい。そう思っていたのに、不思議とすらすら言葉が吐き出せた。詐欺を疑われてすぐに切られたけど、会話ができた。

 半径一メートルの長方形の中にいる間だけ私は言葉を取り戻せる。安心できる。望遠鏡で星を眺めるように、一生をかけても届かない距離にあるものを、何十億年も前からあるものを、好き勝手に評するときと同じ安心感が、電話ボックスの中にはある。一方で、当然ながら失声症は悪化した。電話ボックスの外に吐き出せる言葉なんて、もう私の中には残っていない気がする。

 

 正直なところ、色が見えるようになっても今の私の日常になんら影響はない。今日も誰とも会わず、夜になるまでこたつの中で本を読んで過ごしていた。おかげで収穫があった。この現象は、まさに読んでいる小説に出てきた『共感覚』だ。作中の女の子は聞こえた音に色が混ざる特異体質で、彼女は苦悩しながらも最後には天才肌の作曲家として生きる決意をした。対して、私。寝間着姿でこたつに突っ伏して、カピカピになったマグカップを洗うのも面倒で、外に出るのもおっくうな引きこもり。どこがだ。やっぱり全然似つかわしくない。

 家にいても腐っていくだけだ。そろそろ行こう。芋虫のようにこたつから這い出て、上着を着込んでから外に出る。昨日降った雪はすっかり融け、私が付けたはずの足跡がどこにも残っていない道をゆっくりと歩いた。忘れずに立ち寄った途中のコンビニでは温かいコーヒーを買い、会計で一万円札を突き出した。無言で。嫌な客だった。

 いつもの電話ボックスに入り、一晩明かせるくらいの小銭を忍ばせたパンパンの財布を電話の上にセットしてから昨日と同じ番号をダイヤルする。このふくらみの中に時間と言葉が詰まっているのを感じて、財布の表面を中指の腹でそっと撫で、コーヒーを口に含む。それが迂闊だった。

 昨日は数コールかかったので悠長に構えていたら、彼はすぐに電話に出た。思わずむせる。

『大丈夫ですか?』

「こ、こんばんは」

『こんばんは。今夜も冷えますね』

「ですね。今はお家ですか?」

『まぁ。そっちは公衆電話ですし寒いでしょう』

「ええ、いや。そんなことないです」

『無理しないでくださいね。話せるのは嬉しいですけど』

「こちらこそです」

 十円を連投しながら、私は今日この身に起きた不思議体験をなるべく簡潔に説明した。他に話す相手がいないのだ。彼は興味深そうに相槌を打ち、ややあってからぽつりと言った。

『僕は、何色ですか?』

 私は身体を捻って辺りを見回す。手元で赤いランプを点滅させる緑色の公衆電話と、離れたところで寂しく光る橙色の自販機。黄色がかった常夜灯と、切れかけの蛍光灯。その時気付いた。彼の言葉には色がない。

「えっと」

 私の言葉には色がない。そう知ったとき私は当然だと納得したけど、彼に言うのは失礼じゃないか。「あなたの声には色がないです」って? 言えるわけない。

「み、水色です」

 気道に言葉がつっかえて、重い。

『みずいろ?』

「えっと、秋の凪いだ海みたいな、澄んだ水色をしてます」

『それはいいですね。僕も見てみたい』

 柔らかな声音に胸がちくりと痛んだ。

「あの、本当に信じてるんですか?」

『もちろん』

 即答だった。どうして、と訊ねる前に彼が言う。

『間違い電話で嘘をつく理由がないじゃないですか』

「……そのとおりですね」

 もう電話を切ってしまおうか。ふくれたままの財布がチャリ、と消え入りそうな音を立てた。

『あといたずらに嘘をつく人とは思えない』

「そんなの、分からないじゃないですか」

『まぁ。だから勝手な解釈をしてます』

「イカレ女だって解釈するほうが自然です」

『んー。でも僕も見習ってみようと思って』

「何を、ですか?」

『ロマンチストの姿勢を、です』

「……願うだけじゃ叶いません」

『はは、手厳しい』

 それからまた、私たちは小銭がなくなるまで話した。ふと目線を上げると、東の空が深い青に染まっている。

「あ、今さらですけどこんな時間まで話してて大丈夫ですか?」

『お恥ずかしい話ですが、大丈夫です』

 お恥ずかしいものか。それを言うなら私だ。

『実は僕、入院してるんですよ』

「え?」耳を疑った。

『詳しくはまた。じゃあ風邪ひかないでくださいね』

 その言葉を最後に、彼の言葉は電子音にかき消された。家に帰る頃になっても、私の脳裏ではぐるぐると同じ言葉が駆け巡っていた。


 翌朝、私は真っ白なカウンセリングルームで一人の女性と対面して座っていた。言語聴覚士の加納さんは人懐っこい笑みを浮かべて質問を投げかける。

「私ね、最近家系ラーメンにハマってるんです。あ、でも仕事の前日はにんにく控えてますから、安心して。なんなら嗅ぎます?」

 はぁ~、と加納さんは控えめに息を吐いた。白く綺麗に並んだ歯がモノリスみたいに輝く。

「ほら。臭くないでしょ。そういえば昨日は何を食べました?」

「……ぁ、ぃ」何も食べていません。

「ゆっくりで、大丈夫ですよ」

「……ぁ……ぉ、ぇ」何も、食べて、いません。

 バカみたいな大口を開けると轢かれたカエルみたいな音が出た。拳をぎゅっと握る。

「じゃあ、質問を変えますね。昨日はご飯食べました?」

「……ぁぉ、ぇぁぅ」なにも、たべて、いません。

 加納さんの慈しむような視線が、どうしようもなく痛い。直視できない。この歳になって、幼稚園児みたいなやり取りさえできやしない。

「……っ」

 あと数秒でも惨めに口を開いて、もしまた汚い音が出てしまったら、いよいよ泣きそうだった。耐えきれずに口を閉じ、首を横に振った。リハビリの時間を割いてもらいながら発声を諦めた私を叱ることなく、加納さんは満足げに頷いた。会社なら、大人なら怒られるのに。

「じゃあ今度ラーメン行きましょ。駅前の下村家ってお店がめっちゃ美味しいんです」

「ぁ……ぅ」ありがとうございます。

 それから終了時刻までほとんど一方的な下村家のPRが続いたのは、たぶん加納さんの優しさだった。私は電話ボックスの中では話せる。他でもない私自身が発声を否定していることにもうすうす気付いている。

「経過は良好ですよ」

 帰ろうとする私を加納さんが呼び止める。その山吹色の囁き声が嘘をついているのは明白だった。

「きっと頑張りすぎちゃったんです。ゆっくり休みましょう」

 なぜか同期の顔がチラついた。病院を出て、街灯に照らされた夜道を進む。

 これは呪いだ。もう頑張れなくなる呪いだ。二度と戻れない場所を望み続ける人生を、決して間違いだとは断じさせてくれない。優しくて残酷な呪いだ。

 気付けばつま先はいつもの公園に向かって伸びていた。昨夜の言葉が両足を急かす。くだらない嘘をついてしまったことを謝りたい。彼が言わなかった言葉を聞きたい。電話ボックスにたどり着き、深呼吸をして、受話器を持つ。

 夜が明けるまで掛け続けても彼は電話に出なかった。 


 それから三回の夜が明けた。私は今夜を最後と決めていた。もうこのコールで繋がらなかったら諦めて帰るつもりだったから、初日と同じく八回目のコールで彼の声が聞こえたとき、しばらく声が出なかった。

『あれ? もしもし?』

「も、しもし」

『よかった。繋がってた』

 久しぶりに聞く彼の声はどこかくぐもっている感じがした。

『ごめんなさい。まだ麻酔で上手く喋れなくて。それより電話くれてましたよね』

「え……はい」

 そうか着信履歴。いったい私は何度電話をかけた? 顔が熱い。ずらっと並ぶ『公衆電話』の四文字。ホラーすぎる。

『手術で電話出られなくて。話せてよかった』

「あの、麻酔とか手術みたいな言葉をそんなコンビニ行ってました、みたいなノリで使わないでください」

 的確な喩え、と笑う。笑い事じゃない。

「実は、今日ダメだったらもうかけるのやめようって思ってたんです。流石にご迷惑かと。でも手術だったんですね」

『本当は手術中も電話していたかったくらいです」

「それは迷惑なのでやめてください」

『はは。あーなんか、帰ってきたなぁって感じがします』

「間違い電話でそれ言います?」

『じゃあ他に誰がいるんですか』

「そりゃ、家族とか恋人とか? 友達とか」

 彼は少し間を開けて、自虐気味に笑いながら言った。

『そんなのが居たら、病院抜け出してまで長電話しませんよ』

「え?」

 そう言われてはっとした。夜間に病室で長電話ができるとは思えない。じゃあ、今も手術明けの身体で外に?

「今すぐ戻ってください。お願いですから」

『嫌ですよ。息が詰まります』

「でも、身体に障りますし」

『電話ボックスに言われたくありません』

「状況が違います!」

『じゃあ、切りますか?』

「……切る前にひとつ、謝りたくて」

『謝る?』

「色のことなんですけど。水色って言ったじゃないですか」

『あぁ、声の色』

「あれ、嘘なんです。色が見えるのは本当なんですけど、あなたの声と自分の声にだけは、色を、感じなくて」

 詰まりそうな言葉を何とか押し出す。ここで出せなかったら、本当に終わる。

「騙すつもりはなかったんですけど、傷付けちゃうんじゃないかとかいろいろ考えてしまって。本当にごめんなさい」

 沈黙が痛い。寒空の下、白い息を吐きながら思案する彼の姿がありありと思い浮かんだ。次の瞬間、その妄想がかき消される。

『——あははははっ!』

「な、なんですか急に」

『いやだってめっちゃ深刻そうに言うから……ふふ』

「あの、笑い事じゃなくて……っふ」

 釣られて思わず息が漏れた。

『よく真面目すぎるって言われません?』

「この前も先生に言われました」

『先生? 学生なんですか?』

「あぁいや、通院してて。病院の先生に」

『どこか悪いんですか?』

 そんな深刻なトーンで言われると答えにくい。彼のほうが苦しいはずなのに。

「失声症で。言葉が話せなくて」

『言葉が? え、でも今は』

「そうなんです。こうして間違い電話をしている間だけは普通に、話せて」

 言葉にしてみるとなんとも嘘っぽくて思わず尻すぼみになる。彼は平然と答えた。

『よかった。一歩前進じゃないですか』

 確かにそう言った。加納さんにも伝えていない、一笑に付されるはずの告白を、この人は。

「笑わないんですか。こんなのメンタル弱いねって一言で片付く話ですし、電話ならできるとか言い訳で」

『そんなわけない』

 普段の温厚さを感じない、初めての声だった。

『自分を曲げずに頑張ったからでしょ。この電話だって少しでも話そうと頑張った結果ですよね。なのにそうやって自分の痛みを軽くするの、バカみたいですよ』

「バカって」

『バカでしょう。本質から目を背けてそれっぽい自虐に逃げるのはバカです。胸を張って、頑張りすぎましたって言えばいい。それが勇気と知性です。だから、今のあなたは臆病なバカだ』

 怒られているのか慰められているのか分からない。きっとこれはそのどちらにも分類できない。でも、ただ慰められるより、優しく戦力外通告を受けるより、ずっとずっと温かかった。

「きっと、ううん。本当は、そう言われたかった。休めとか頑張ったねとかじゃなくて、そうやって、これまでみたいに怒られたかったんです」

『でも真面目だから、言ったら落ち込みそうで言えなかったのかも』

「それは……あるでしょうね」

『もっと適当でいいんですよ。言葉も、人も』 

 またしばらく間が空いた。

『それじゃあ、切ります?』

 まだ、もう一つ訊くことが残っている。

「あの、どこが悪いんですか?」

『言いません。絶対変な空気になるし』

「なりませんよ。絶対に」

『……笑わない?』

「はい」

『絶対に?』

「絶対に」

『……ぅ』

 聞き取れない。もう一度促すと、小さく呟いた。

『おやしらずを、抜きに』

「え?」

『あー! だから言いたくなかったのに!』

 彼は受話器の向こうで叫んだ。

『今まだ口の中血まみれだし麻酔で上手く話せないんです! 身体はめちゃくちゃ健康です! 僕こそごめんなさい重症みたいな雰囲気出して楽しんでました!』

「なんだ……よかった、本当に」

『——ほら』

「え?」

『怒らなかったでしょ』

「あ、」それどころか、口元は綻んでいる。

『言葉なんて素直に自由に吐けばいいんです。どうせ全部しまえるほど完璧じゃないんだから』

 そのとき、私は確かに見た。視界にうっすらと色が差し込むのを。電話ボックスの緑もランプの赤も、自販機の橙色にも、薄い青が混じる。柔らかく静かな、秋の凪いだ海の色。

「あの、疑わずに聞いてほしいんですけど、水色です。本当に、本当に水色でした」

『嘘じゃないですよね?』

「嘘をつく理由なんてないでしょ!」

 動転する私の視界にみるみる青が満ちていく。水かさを増していく水面のように。それが頭のてっぺんまで満ちたとき、私の鼓膜は彼の声と、ぱきり、と響く確かな音を捉えた。

『――きっとあなたは言葉に愛されたんですね』

 一平米の長方形なんかには到底収まりきらない言語の奔流が私を取り巻き、透明なガラスの壁に亀裂を走らせ、窮屈な世界を壊し始める。轟音は連鎖するように四方のガラスを引っ掻き、叩き、穴を空けて突き破った。

「そう、そうかも。でも言葉は完璧じゃないから、零さないように紡がなくちゃいけない。普段は、もっと確かで完璧な、目に見えるものの下敷きになっているけど。それでも最後に人を生かし、殺すのは、言葉に乗った私の魂だから」

 彼の返事を待たずに言う。

「完璧じゃないから、私も、言葉が好き」

 瞬間、視界の青がいつか見た渋谷の青空と繋がった。思い出した。コピーライターなんて肩書きに惑わされる前のことを。私が憧れたのは、街頭ビジョンを飾る大きな文字と、それを見上げる人々の瞳。それだけだったのに。仕事に忙殺されて、言葉を扱っていたはずが、縛られていた。

 売上に、クライアントに、ブランドイメージ。評価。受賞。社会的成功?

 溜まった澱を吐くように呟いたそれが最後の一滴だった。

「そんなもんで、私の言葉を縛れるか」

 耳をつんざく爆音とともに電話ボックスがひしゃげた。

 濁流となった言葉の残骸が、ガラスを粉砕しながら轟々と溢れる。朝焼けに照らされたそれらが世界を蹴破り、無数に散らばって視界を洗い流すのを静かに見守った。

 後に残されたのは、私と、受話器越しの彼だけ。かつて私を守るように取り囲んでいたガラス壁はもうない。けど、今なら声が出せる気がした。

「……多分、大丈夫になりました」

 ほら出た。出るじゃん私。

『よく分からないけど、すっきりしてますね。声が』

「すっごく喋りたい気分なんです、今」

 声が上ずったことにも構わず続ける。

「もうちょっと付き合ってもらっていいですか?」

『もちろん』

 きっとすぐに失声症は完治する。そんな予感がする。だとしても、この間違い電話だけはもう少し続けていたい、と白む空を見上げる。

 彼の声を聴きながら、淡い朝の青空を先取りするように彼が映す水色を空に浮かべた。

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その声に水色が見えた日 淡園オリハ @awazono_oriha

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